通行料はまけてよ、神さま

 明日、地球は滅びるのだそうだ。

 例えばこれを桜河に言われたなら、「インターネットの見過ぎですよ」と窘めたことだろう。椎名に言われたなら、「何かおかしなものでも食べたのですか?」と本気で心配したかもしれない。天城に言われたならば、そうだな、村上春樹にでも影響されたか、あるいは今更『アルマゲドン』でも観たのか。見かけによらず純粋なところのある我らがリーダーは、今度は何にかぶれたのか──うんざりしながらも話に付き合ってやっていたのかも。ただしHiMERUの機嫌が良ければ、という条件付きで。
「──はあ」
 しかし冗談にしても笑えないこの話題を持ち掛けてきたのは、よりによってあの風早巽だった。
「もしそれが本当なら……、随分落ち着いているのですね、巽?」
「ふふ、そう見えますか?」
 何を笑っている。こちらは至極不愉快だ。勿論そんなものはおくびにも出さず、俺も笑顔を貼り付けて応じる。
「普通はもっと驚いたり慌てたりするものではないかと、HiMERUは思うのですが」
「そうかもしれませんな。ただ……この世界を創造したのが主であるならば、終わりを定めるのもまた、主なのでしょう。俺は畏れず、御心に従うだけですから」
「そうですか……巽らしいのです」
 ──下らない。話は済んだのだろう? 俺はおまえと同じ空気を一秒たりとも分け合いたくないのだ。
 にこりと形式的に微笑んで立ち去ろうとしたところを、神経を逆撫でしてやまないその声が呼び止める。「要さん」と。
「最期の瞬間、あなたはどこで、誰と過ごすのでしょうな」
 それでは、よい終末を。
 本当に冗談みたいな挨拶と立ち尽くす俺を残し、男はレスティングルームをあとにしたのだった。





 奴の言っていたことが出まかせや妄想ではないと理解したのは、翌日以降の仕事がバタバタとドミノ倒しの如くキャンセルされてからだった。
「そういうわけですからHiMERU氏、終末くらいご身内とゆっくりなさっては?」
 そんな「年末年始は家族と過ごしては?」みたいな軽い調子で言うようなことだろうか。断じて違うと思うが。
 まだ昼の二時にもかかわらずせかせかとデスクの上を片付け始める七種。あのワーカホリックが、本当に退勤するつもりらしい。
「待ってほしいのです、副所ちょ──」
「ああ、もういいんですよ。ESは解体、これでようやく自分も窮屈な副所長の椅子から降りられますし……最後くらい肩書でなく、名前で呼んでくださいませんか。友よ」
 思わず口元が引き攣った。
「誰がいつあなたと友人になったのですか」
「おやぁ? 心外ですなあ、自分達は秀越学園の学友だったではありませんか!」
「三年次はほぼ通学してなかったじゃないですか」
「ええまあ、そうですが。それでは何ですか、友人だと思っていたのは自分だけだと?」
「……」
 面倒臭くなってきた。仕事の話をしに来たのに、これではただ絡まれているだけだ。
「……はあ。何が望みなのですか」
 諦めて椅子を引き、向かいに腰掛ける。彼は眼鏡の奥の丸い瞳をきらめかせて笑った。
「いやぁ、何も。ただ自分、ご存じの通り友人と呼べる存在がいませんのでね。HiMERU氏とは何かとご縁がありましたし、そうですねぇ……。話を、してみたかったのかもしれませんな。単なる同級生として」
如何にも裏がありそうないつもの笑みではなく、生意気なクソガキ然とした屈託のないそれ。調子が狂う。
「七種──」
「──って言ったらどうします?」
「は……?」
 俺はぽかんと口を開けて固まった。次いで全身から力が抜ける。
「あっはっは! その顔! 傑作でありますな~。最後に良いものを見させていただきました!」
「……」
 時間の無駄だった。ビシッと敬礼して見せる七種をじとりと睨み、これ以上纏わりつかれる前に離れようと立ち上がる。
「あなたは最後まで鬱陶しい人でしたね……」
「恐縮であります☆」
 「終焉をダンスフロアに」と不遜に歌う『ユニット』のプロデュースを手掛けた男は、本物の終焉に立ち会う時、何を思うのだろうか。腹の底をひた隠しにした道化めいた言動に、親近感を抱いていなかったと言えば噓になる。最期はその仮面を脱いで、あるがままの彼で、心静かに終われるのだろうか──孤独ではなく、誰かのそばで。
 振り返って見た七種は、喰えない副所長の顔にすっかり戻っていた。
「それではHiMERU氏、よい終末を☆」
「流行ってるんですか、それ?」





 何度も何度も、それこそ飽きるほど通った病院を出たところで、見知った顔と鉢合わせた。どうやら待ち伏せされていたらしい。
「よ」
「何故……ここに」
「理由がなきゃいけねェのか?」
 駐車場のフェンスに寄り掛かった天城は、アウターのポケットに両手を突っ込んだまま軽く肩を竦めた。映画みたいな登場の仕方に気障な仕草がいやに様になっていて、何だか苛々した。けれど俺はたった今すべての用事を終えたばかりだ。予定もない。明日にはぜんぶぜんぶ、無くなる。そう考えたら、今こいつの相手をするのもやぶさかでないように思えてきたのだ。
「HiMERUっちに挨拶してきたンだろ?」
「──『HiMERU』はひとりしかいませんが」
「……そうだな、俺っちの知ってる『HiMERU』はひとりしかいねェよ」
「何か用ですか?」
 院内はほとんどもぬけの殻だった。明日で何もかも終わるとわかったら、精神的に追い込まれ病室に閉じこもっていた患者達は、憑き物が取れたかのように晴れやかな顔でそこを飛び出していったそうだ。彼らに付き添い続けていた職員達も、仕事がなくなって皆帰っていった。
 相変わらず白いサナトリウムで過ごしている『HiMERU』にとっては、明日で最後だろうと明後日がやって来ようと、きっと何も変わらない。何かを変えることは、俺には出来なかった。俺に彼の世界を変える力はなかった。
 だから今日も例によって「またね」と告げて額にキスをして、扉を閉めた。彼はTVやインターネットを見ないから、地球が滅びることを知らないままだ。ならばこのまま、穏やかに過ぎていく日常の中で眠らせてあげたいと思うのだ。身勝手かもしれないけれど。
「あなたにはもっと、会いに行くべき人がいるのではないですか?」
「ん~、一彩とか? もう会ってきた」
「椎名は」
「あいつは良いっしょ。昨日も会った、一昨日も会った。最後くらいは燐音くんの方から手ェ離してやんの。優しいっしょ?」
「勝手ですね」
「おめェもな」
 この男は、何をどこまで知っているのだろうか。尋ねたことはない。これから確かめるつもりもない。
「おめェはひとり、俺っちもひとり。仕事を奪われてアイドルですらいられなくなって、もはや目的もねェ」
 天城は片方の眉をくいっと持ち上げ、挑むような表情を浮かべた。
「どうよ? こっから先は俺っちに付き合うってのは」
「付き合う……?」
 彼はくるりと身体を翻し、背中を向けて歩き出した。
「どこへ?」
「どこへでも」
「何かやりたいことでも?」
「考えちゅう~」
 要領を得ない答えに聞くだけ無駄だと判断して、黙ってその背を追い掛けることにした。歩調はのんびりしているのに歩幅が違うのだろうか、こちらが急いで足を動かさないと置いて行かれそうになる。
「♪~~」
 鼻歌を歌いながら歩く天城はいっそ異常なほどいつも通りだ。明日にはすべて消えてなくなるのだと聞かされて、こんな風に落ち着いていられるものだろうか──と、自分を棚に上げて首を傾げてしまう。周りを見渡せばこの男の方がおかしいとすぐにわかるのだ。
 コンビニやスーパーはパニックに陥った民間人によって荒らされたあとだし、銀行や宝飾店が次々と強盗に入られているというニュースも目にした。路上で奇声を上げる者や暴れだす者もいる。司法も警察も機能していない、まるで文明が生まれる以前に戻ったみたいだ。目も当てられない。
「わかったろ。ひとりで出歩くと危ねェンだよ」
「HiMERUが病院へ向かっていた時には、こんなことには」
「あ~、たぶんそのあとなんだよな。天皇陛下が正式に声明を出してから、こうなった。それまでネットで囁かれてる都市伝説みてェなモンだったのがいよいよ現実味を帯びた。お伽噺の怪物が実体を持った」
「……。ESのアイドル達は、大丈夫でしょうか」
「あそこから出ない限り襲われたりはしねェっしょ。どんな怖いもの知らずだってあのお城には手が出せねェ。ESはある種の独立国家だからなァ」
「そう、ですね」
「大丈夫だよ」
 熱い手が俺の腕を掴んだ。そのままするすると滑って、指先に辿り着く。きゅっと握られる。
「大丈夫だ」
 数時間後には全員もれなく死ぬと言うのに、大丈夫なものか。冷静な自分がそう訴えるが、碧い双眸の持つ強い輝きに捉えられると、胸の内に渦を巻いていた不安がほどけていく。ステージ袖でも何度かこうして、桜河の緊張を解いてやっているのを見たことがあった。この色には妙な力が宿っているらしい。
 そこからは(誠に遺憾ながら)天城に手を引かれて歩いた。不思議と気分が落ち着いた。
「おっかしいよなァ、だァれも俺っち達に気付かねェの」
「それはまあ、そうでしょう。非常事態ですから」
「変装も何もしてねェのにな。おお~い、天城燐音くんですよォ~。HiMERUもいますよォ」
「ちょ、馬鹿、やめろ」
 男は「きゃはは」と軽快に笑った。街は滅茶苦茶で酷い有様にもかかわらず、こいつの纏う空気だけはやっぱりいつも通りだった。
「そうなんだよなァ~。俺っち達の仕事ってさ、非常時には何の力も持たねェわけ。むしろ安定した日常が保証されてるからこそ成り立ってた商売っつうかさ」
「ええ、」
「悔しいよなァ。ステージの上で啖呵切ってみたり、幸せにするだの何だのってでけェ口叩いてみたりしても、人命が救えるわけじゃねェ。文化芸術の限界を感じるぜ」
「……それでもあなたに、『Crazy:B』に会いたいという思いで今日まで生きてきた人だって、いるはずです」
「おお?」
「あなたが命を繋いで育てたこの『ユニット』に支えられ、生かされてきた人もいるはずだと、『俺』は信じています。命を救うとまではいかずとも、毎日最悪で人生に絶望していた人々を元気づけて、少なくとも心を動かすことは出来たと。……『Crazy:B』はそういうアイドルでしょう」
「……」
「急に黙らないでもらえますか?」
 さっきまで聞いてもいない話をべらべらと喋っていたくせに。歩調を早めて隣に並ぶと、顔を逸らされた。
「……照れてます?」
「悪ィかよ」
「いいえ、別に」
「見ンなよ」
「見ますけど?」
「やめろ馬鹿」
 道端でじゃれ合っていても誰ひとりとして自分達のことを気に掛けない。アイドルとしてこんなことを思ってはいけないのだろうが、人目を気にする必要がないのは、今は有難い。しばらくだらだらと歩いて、そろそろ歩き疲れたなと感じる頃には、街のはずれまで来ていた。
 何の脈絡もなく天城が言った。
「よっし。海でも見に行くか」
「海ですか。また急ですね」
「メルメル。天国じゃあどんな話が流行ってると思う?」
「て、天国……?」
 あまりの突拍子の無さに瞠目する俺に、「知らねェのか?」と。得意げに唇の端を吊り上げる。
「海の話さ。死んで天国へ行った奴らは、皆生前に見た海の話をするンだと。水平線に沈む夕陽が、真っ赤に染まっていく空がどんなに美しいかって話をする。話題に乗っかれなかったら寂しいぜ?」
 初めて聞いた。いつもなら「馬鹿馬鹿しい」と突っぱねていただろうか。それにどう足掻いても俺達が向かうのは地獄だろう、天国じゃない。そんな茶々を入れて興を冷ますような真似は、彼の活き活きときらめく瞳を前にしたら出来なくなってしまっていた。
「……。良いんじゃないですか、海。行きましょう」
「おっ、そう来なくちゃな! 愛してるぜメルメル♪」
「はいはい」
 首に絡み付いてくる邪魔な腕を払い除ける。こういうスキンシップをあしらうことにもすっかり慣れてしまったな、なんて。
 あれほど孤高であろうとしていたのに、椎名のおおらかさや桜河の義理堅さに絆されて、煩いと思っていた羽音もいつしか『HiMERU』の一部になってしまって。天城と舞台の真ん中に並び立ち、場の空気を、人々の歓喜や興奮をも支配する快感は、何物にも代え難かった。『Crazy:B』のライブでもソロでステージに立つことはあったけれど、たったひとりで見渡すアリーナは広すぎると、今では感じないこともない。それだけ満たされていたのだ、『孤独でない』ということに。
 ともあれ海に向かうのなら交通手段を考えなければならない。しかしこんな状況でタクシーなど拾えるわけもなく、時計を見れば最終電車もとっくに出てしまっている時間で。考えあぐねて隣を見れば、そいつの目はじっと一点を見つめていた。
「あ」
 視線の先を追う。そこには乗り捨てられた高級車が停まっていたのだ。メルセデス・ベンツ230SLベイビーブルー、古い洋画に出てきそうなクラシックカー。同じくその車を見つめたのち、悪知恵のはたらくリーダーの考えていることを察してしまった。今ばかりは自分の勘の良さが憎い。
「……気付いた?」
「……まさかとは思いますけど」
「そのまさかだっての♡」
 口笛を吹きつつベンツに近付く天城。左ハンドルの運転席を覗き、シートに放られたままのキーを摘まみ上げてこちらを振り返る。仮にもアイドルが品のない笑い方をするな。いや、今の俺達はもう何者でもないのか。
「正気ですか?」
「正気も正気、大マジっしょ。ついてくるか?」
 ──何だその聞き方。「行かない」って言ったら傷付くくせして、しっかり逃げ道を用意してくれるのだからこいつは優しすぎる。あんたと共に歩むと決めたのは、他でもない俺なんだぞ。
「誰に聞いているのですか」
 迷いのない足取りでずんずん歩み寄る。助手席のドアを開け「乗れ」と促せば、彼はぱちりとまばたきをしたあと、腹を抱えて笑いだした。
「あっはは、おめェのそういう、ははっ、妙に肝の据わったとこ……やっぱ、好きだなァ」
「それはどうも。あんたに言われても嬉しくないです」
「ぶはは、ひい、腹痛ェ……俺がこっち?」
「持ってるんですか、免許」
「持ってない」
「でしょうね」
 そんなもの俺だって持ってない。けれどただ漠然と、何とかなるような気がする。天城が一緒だからかもしれない。
「窃盗罪に道路交通法違反。犯罪者ですよ、俺達」
「だな。正真正銘の共犯者だ」
 不敵に笑って鼻を鳴らせば愉快そうなまなざしが投げ返される。俺は運転席に乗り込むと見様見真似でキーを差し、回した。低いエンジン音と振動が心地好い。ええと、こっちがアクセル、こっちがブレーキ。オートマで助かった。車を出すには一度バックする必要がある、ギアを『R』に入れて──と。
「うわっ」
「あでっ⁉」
 ガクン、勢いよく後ろに下がった車体が車止めに乗り上げた。隣の男は衝撃で頭をぶつけたらしい。
「……すみません」
「……燐音くん、地球が滅ぶ前に死んじまうかも?」
「すぐ慣れます」
 ぶおおん。今度はエンジンが空回る音に飛び上がってしまう。
「それ、ニュートラルのままアクセル踏んでっからっしょ。『D』にしろ『D』に」
「わ、わかってます……っ」
 ようやく前に進み始めた車は、ガードレールにぶつかりながらもよろよろと加速しだした。
「お、じょーずじょーず」
「馬鹿にしてます?」
「してねェって。物損はいくらでもやって良いけど人身だけは気を付けろよ。ベンツ盗んどいて何を今更って感じだけど、流石に気持ちよく死ねねェ」
「同感です……俺も気を付けますから、天城も周り見ててくださいよ」
「任せとけって」
 ハンドルを両手で握り締める俺を余所に、天城の手がセンターパネルをごそごそ弄り回した。やがてカーステレオから収録の深夜ラジオが流れだす。「ドライブにはBGMが必要っしょ?」とにっかり笑うそいつの顔を、見る余裕はなかった。
 海に沈む夕陽が見たいのだと言い、彼の道案内で真夜中のハイウェイを走らせた。ETCカードは入っていなかったから、料金所のバーをぶっ壊してそのまま突き進んだ。この程度の悪さじゃ誰も俺達を追い掛けてなんて来ない。ここまで来たら行けるところまで行ってやる。
 窓を全開にすればラジオは搔き消えて、代わりに耳元でごうごうと風が鳴る。他には何も聞こえない。
「──」
 天城が何か言ったようだったが、俺の耳には届かなかった。





 適当に入ったパーキングエリアに停車し、仮眠を取った。「明日地球が滅ぶ」と聞いただけで、何時に何が起きるのかは俺も天城も知らなかった。目的地まではまだ二百キロ近くあるらしく、走り続けても何時間かかかる。
「日没までに着きゃいいし、もしその前にどうにかなっちまったら、まァそん時はそん時。賭けに負けたっつーことで潔く諦めてやんよ」
 大雑把なプランを聞き流しながら、鞄に入っていた栄養補助食品をもそもそ食べた。これが最後の晩餐になるのかと思うとちょっと笑えた。
 ひと眠りして目を覚ます頃には太陽が高く昇っていた。ああ寝過ぎた、今日の予定は──といつもの癖でスマートフォンを確認しようとして、ここがどこぞのパーキングエリアだということを思い出した。助手席には誰もいなかった。
「……っ!」
 がばりと起き上がり、そこにいたはずの男の姿を探す。あいつが着ていたアウターが胸元に掛けられていた。おまえのこういうところが嫌いなのだと、心底思った。
 車を施錠して駐車場に飛び出す。湿気たぬるい空気が不愉快に纏わりつく。今は春先だと言うのに──昨日までは肌寒いくらいだったのに。真昼の空を見上げれば、遠くの山の向こうが燃えるように赤い。まるで空襲にでも遭っているみたいに。
「……ほんとうに、終わるんだ」
 ぞっとした。独りになった途端にこれだ。恐ろしくて立っていられない。こみ上げた涙で視界が滲む。
 目的を奪われ、存在価値すらも失った自分。それなら生きていたって仕方がないから、死に際して恐怖なんて覚えるわけがないと、そう思っていたんじゃなかったか。
「……、いやだ……」
 怖い、助けて、誰か。天城。
「あれっどうし……メルメル!」
 不意に頭上から声が降った。彼しか呼ばない不本意なあだ名にどうしようもなく安堵してしまって、涙がひと筋流れた。遅い。勝手にいなくなるな。文句のひとつでも言ってやりたいが、唇が震えて音になってくれない。
 しゃがみ込んだ天城は車の横に蹲る俺と目線を合わせ、「ごめんな」と言った。両手にコーラとコーヒーを持っているから、ドリンクを買うためにほんの少し席を外しただけだったのだろう。
「っ馬鹿、ひとりに、するな……」
 なのに。あんたがいない、たったそれだけのことでこんなにも不安に駆られるだなんて、情けなくてまた涙が出てくる。
「あ~あ~泣くなって、俺が悪かったよ。黙って出てってごめんな」
 缶を手放した彼が抱き締めて背中をさすってくれる。あたたかくて優しくて、これじゃ「泣くな」と言われても止められない。自分よりも高い体温に包まれていると満ち足りた気持ちになる。こんなのはまるで、この男を愛しているみたいだ。
「……行こうぜ、運転代わる」
「──わかりました」
 パーキングエリアを出発してしばらくはほとんど会話もなく、流れていく景色をただただ眺めていた。天城の運転は初めての割にそつがなかった。つくづく要領の良い男だ。
 おもむろにカーステレオのボリュームを絞りながら、こいつにしては珍しく、歯切れ悪く切り出した。
「メルメル、あのさ」
「……はい」
「怒らないで聞いてほしいンだけど」
「……、はい」
「一緒に死ぬならおまえだと、思ってた」
「……」
 顔を運転席へ向ける。その碧い瞳はこちらに一瞥をくれて、また真正面を向いた。
「わかってンだろ、おまえも。俺達に天国の門を叩く資格なんてありゃしねェ」
「……でしょうね」
「道連れ……っつうと聞こえが良くねェかもしんねェが、おまえとなら地獄の道行きも退屈しなさそうだろ?」
「同意を、求めないでください」
「はは、悪ィ。俺はそう思うわけよ。おまえが俺のケツ叩いてくれながらさ、歩いてくの」
 「想像できねェ?」なんて、彼は何でもないことのように笑う。
 想像は出来る。この臆病な男には俺以外の誰かを連れて行く選択が出来ないということも、わかる。だって彼らは守るべき相手だから。
「あんたと並べるのは俺くらいなもんですよ、本当、感謝してほしいくらい」
 常ならば考える前にさらさらと出てくる憎まれ口は、これが限界だった。嬉しかったのだ、選んでもらえたことが。
「……ん。ありがとう」
 アイドルとしてしか生きられない俺達は、目的を失った時、同じだけの喪失の悲しみを抱えた。俺の痛みがわかるのはおまえしかいないのだと、互いに感じている。共に在ってほしいと願っている。庇護の対象ではなく対等な相棒として、だ。
 ──唐突に、深夜のハイウェイで天城が発した言葉が、頭蓋の中に響いた。風の音に邪魔されて受け取り損ねたと思っていた言葉。
 あの時彼は、「おまえで良かった」と言ったのだ。
「ッ、ぅ……」
 咄嗟に手で口を覆って声を殺した。泣きたいわけじゃない。心配させたくもない。それでも聡い彼にはすぐに気付かれてしまった。
 大きな掌がわしわしと頭を撫でた。「危ない、運転に集中しろ」と出掛かった苦情を飲み込んで、俺は静かに涙を流した。





 目的地の岬に着いたのは夕方の五時近くだった。日が落ちかけていることを差し引いても、赤い、赤い空だった。この世の終わりは『天城燐音というアイドル』を象徴するかのような苛烈な色をしているのだと、知ったところでどうしようもないことを記憶に焼き付けた。
「綺麗ですね」
「そうかァ? 流石にちょっと禍々しいっつーか、毒々しいっつーか……?」
「綺麗だと思います」
 本当に美しい、茜色だ。それはもう、何も思い残すことはないと思えるほどに。
 俺達はもう一度ベイビーブルーのベンツに乗り込み、天城がハンドルを握った。海に向かってアクセルを踏み抜いた車は急加速し、崖を飛び出す。空を飛んでいる間、彼の逞しい腕が俺をがっちりと抱き寄せた。
 車は数十メートル下の海面に頭から突っ込んだ。着水の瞬間物凄い衝撃にエアバッグが開き、視界も頭も真っ白になる。ああ死ぬんだ、と考える間もなく意識が遠のいていく。全身が水に浸る気持ち悪さをどこか他人事のように感じる。
「……」
 唇の隙間からごぼりと漏れ出た酸素を閉じ込めるみたいに、熱いものに塞がれる。水中だと言うのに、天城の香水のにおいが鼻から抜けた気がした。
 最期にこじ開けた目に映ったものは、暗く冷たい海の中でなお爛々と輝く碧い星──そしてその色彩越しに、まばゆい光を放ちながらゆっくりと開いていく天国の門を、俺は確かに見たのだった。

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