宴会
隣の部屋からは、カニなんて久しぶりやのう、旨いのう、と言う小次郎おじちゃんの声と、小次郎、はしゃぎすぎやで、と奈津子さんが窘める声が聞こえて来る。
どこで聞きつけて来たのか、草若兄さんのひとり落語会というので奈津子さんと一緒に小浜までやってきて、今日はふたりで近くの旅館に泊まるのだという。
いや、大阪と小浜往復するお金があったらちょっといいカニ買えるがな、とは思うけど、越前蟹のいいのはこっちまで来ないとなかなか手に入るもんでもないし、まあええんやろか。
最近の奈津子さんは、草原兄さんが落語の講座を受け持っているカルチャーセンターと同じところで、ブログを書くための文章教室やら、映りのええ写真教室を掛け持ちして持っている。『人生って分からんもんやね。もし喜代美ちゃんの本が仰山売れてたらこんな風に仕事受けられなかったんじゃないかな。』と言われて、なんかちょっと複雑な気分だけど、このご時世、女性向け雑誌の仕事量が山あり谷ありになっている代わりに、昔と同じように忙しくしていることはいいことだと思う。
勿論、私の隣でこないして立っているこの人も。
「すいません、草若兄さんも最近えらい忙しいのにこないして来てもろて、片付けまで。」
「いや~、そうかて腐っても『小浜好きやで観光大使』やからな。小浜のためなら底抜けに何でもやったるで! ましてや、今日は若狭のお母ちゃんの頼みやからな~。」と草若兄さんは食べ終わった皿を洗ったのを片っ端から布巾で拭いてくれている。
今をときめく草若兄さんにうちまで来て貰って、演じて貰うのがなんと「寿限無」。
『なんや、小草若ちゃんの顔テレビで見てたら、あのじゅげむじゅげむいう落語、久しぶりに聞きたなってきたわ。』と言うお母ちゃんの頼みを正平が私に伝えて、私が丁度いいタイミングで日暮亭の高座に出てくれてた草原兄さんにそれとなく伝えて、それでこのところは連絡が付かないことの多い草若兄さんの二つ目の携帯電話に連絡が行ったのだった。
寿限無やったら、事前の稽古いらんし、身一つでええのやったら、これから行ったるで、というので来て貰ったのだ。
私も、週末にログインしたので、仕事のある草々兄さんを大阪に残して、オチコの手を引いて、どんぶらこ、どんぶらこと電車旅。
毎年、年度末の確定申告の後はなんやかんやで貯めてた仕事が忙しくて、例年、母の日にも父の日にも電話以外は何にも出来なくなってるから、秋になって、空いた時間にこうして来れるのは嬉しい。そんな私に輪を掛けて忙しくしてるのが草若兄さんだ。
なんと、草若兄さんはかつての底抜けブームにリバイバルの波がやって来ていて、今やテレビとラジオで二本ほどレギュラー出演の番組を持つお笑いのスターに返り咲いてしまったのだ。テレビも、関西限定ではない単発の仕事も徐々に増えてきているらしい。
この間なんか、たまたま収録してた番組終わったところに、なにわ放送局のBS番組用の掃除機のテレビショッピングにゲスト出演したら、その映像がなぜか幻の底抜け掃除機とか言うおかしなキャプションがついて配信サイトにアップされたせいで、番組終わった後でじゃんじゃん掛かって来た電話でめちゃめちゃその掃除機が売れてしまったとかで、スポンサー企業から報奨金のようなものを貰ってしまったらしい。
その話を聞いた私は、掃除機が蟹に化けた、てなんか海老で鯛を釣るみたいな話で面白いな、と思ってしまった。今度そのネタでひとつ新作でも書いて、草々兄さんにまた掛けて貰おうかな。
まあ、草若兄さん本人は、『昔みたいな昼帯とか夕方の時間帯とはちゃう、深夜の番組やねんけどな。』とこないして謙遜してはるけど、それにしたって、今でもこうして仕事のオファーが来ること自体が凄いな、と思う。
見上げたこちらの視線に気づいた草若兄さんからは、にっこりと笑った顔が返って来る。私の前で格好付けたふりするのを止めた草若兄さんは、不思議やけど、昔よりずっと可愛らしく見える。
後からは、お母ちゃんが、オチコちゃん落語上手やねえ、と言う声が聞こえて来る。
お囃子さんの代わりの手拍子の調子を聞いてると、どうもあの子が調子に乗ってタコ芝居してるところをみんなで笑って眺めているみたいな気配がする。
「楽しそうやなあ。」
「草若兄さんも、ここはもうええですから、あっち戻って休んでください。」と私が言うと、ええねん、ええねん、と兄さんは手を振った。
「こないして手伝いするのも、オレが好きやからしてることや。たまには喜代美ちゃんのお母ちゃんも、あないしてお母ちゃんでいるの休んだらええやん。」と茶の間を振り返っている。
その腰からじゃらじゃらと下げてる車の鍵は最新のリモコン操作タイプで、日暮亭のロビーで売れてる底抜けクリアキーホルダーに、いくつかの鍵と一緒になって付いている。
それにしても、鍵、ちょっと多いような気がするな?
お母ちゃんは、テーブルでお酒を飲んでいるお父ちゃんと、オレンジジュースをちょいちょいと飲みながらにこにこ笑ってるうちの子に挟まれて、みんなの話を聞いている。
おばあちゃんも逝ってしまって、正平も仕事が忙しいのか、いつまで経ってもお嫁さん貰う気配がないから、今の和田家はお母ちゃんが年を取って昔みたいにちゃきちゃき動けない分、――こないな風に言うのはちょっと嫌やけど――リソースとしての『女手』が足りないことになっている。おばあちゃんが逝ってしまってから、エーコのお父さんもがっくりと気落ちしてしまって、うちからちょっと足が遠のいてる代わりに、時々はエーコがうちに来て、師匠であるお父ちゃんの顔を見に来るついでに家事をちょっと手伝ってくれるて聞いてるから、後で菓子折りでも持っていかんとあかんなあ。
「そういえばエーコって。」
まだ結婚してないよなあ。
まあ、うちの正平もやけど。
もう、エーコも地元では名物社長さんて言うか、小浜の企業とか産業のカンバンになってるから、地元で釣り合うような人がいよいよいなくなってしまったのだ。竹谷さん伝手に、他所から婿養子ていう話がゼロでもないとは聞いてるんやけど、やっぱり本人が蹴ってるんやろか。
「え、エーコちゃん?」
あ、草若兄さんが『小草若兄さん』の顔になって狼狽えてはる。
「あ、はい。なんや、おばあちゃん亡くなってから、ちょくちょくうちに顔出しに来てくれてるらしいて、さっき正平から聞いてて。」
「そうかあ。若狭塗箸製作所の社長さんしながら、この家のことも、ちゃあんと気に掛けてんのやろうな。……あの子らしいわ。」と草若兄さんはお父ちゃんのお箸を拭きながらしみじみと言った。
あ、お箸の先っぽのところ、もう漆が剥げてる、……やのうて。
「私が頻繁に顔を見に来られんから、有難くて。」
「日暮亭がほとんど年中無休ではしゃあないやん。」
「そうは言っても。」
今そういえば、草若兄さんとエーコてどうなってるんやろ。
一時なんやいい感じになってるのかな、て思ってたんやけど。
「草若兄さん、あの。」と切り出したところで、電話のベルが鳴った。いや、もうベルやないんやけど。
うちの電話も、私が気が付いた時には、いつもの黒電話からファックス機能のある電話に変わっていた。
小浜観光協会で、毎年春になると、記念日ごとにお箸を新しく、て趣旨のキャンペーンを張っていて、父の日、母の日、新学期、若狭塗箸買ったら、レシートか領収書でお米や海産物が当たるというそのキャンペーンの宣伝効果もあって、お父ちゃんへの仕事の発注も、春先はコンスタントに入るようになったのはホントに有難い。
「はい、和田です~。」とその電話に出たのは小次郎おじちゃんだ。
「草若兄さん? ああ、小草若の方の草若さんなら、今喜代美と一緒になって台所にいてるから呼びますわ。ちょっと待っとってください。」
「小次郎おじちゃん、草若兄さんに電話て、誰からなん?」
「……シーソー、て言うてる。目付きの悪いアイツやろ。」
おじちゃん、もう~~~~!
受話器覆ってないから、絶対四草兄さんに聞こえてる……。
(そういうとき、ちゃんと受話器押さえて!)と思ったら代わりにオチコがやってきて、大きな声で話を始めてしまった。
「あ、シーソー師匠、こんばんは! 私、誰やと思う? 草若ちゃんとちゃうよ!」
「あの、草若兄さん。区切りのええとこで電話取ってくださいね?」と私がのんびりお伺いを立ててる間にも、大阪育ちで誰と話すにも屈託のない子どもは、座敷の電話を手に、機関銃のように話し続けている。
(もう黒電話やのうてコードレスなんやから、早うこっち持って来て!)と一生懸命台所からジェスチャーしても目に入ってる様子がない。
なんや、隔世遺伝とかあるし、あの子も、見た目はおばあちゃんと小次郎おじちゃんに似て、頭は正平に似ててもええんとちゃうやろか、て思ってたんやけど。高望みが過ぎたかもしれへん……。ほんまに、気の利かんとこだけは私と草々兄さんに似てしもて。
あ、なんや泣きたくなってきた。
「……うん、うん、シーソー師匠も、ふたりで一緒に来たらええのに。焼き鯖もほんまに美味しいから食べてほしい! 今日な、晴れてて、ほんまに海綺麗やったんで。お母ちゃんと草若ちゃんと私で一緒に散歩したん。あの浜にな、昔、五木ひろしが来てたんやて。お母ちゃん、あの時色紙に名前書いてもらわれへんで、って今でも言ってるの。」
デリカシーないとこは糸子おばあちゃんそっくり……。
「カニもあるで~。」と電話を隣で聞いていたおじちゃんが……ああ、何でもかんでも言ってしもて。
あかん……これ、絶対後で四草兄さんに恨まれてしまう。
大阪戻ったときに何言われるか……考えたら怖い~~~!
「オチコ、四草兄さん、誰に電話やて? ちゃんと聞いて。」と精いっぱい『よそいきのお母ちゃん』の声を出す。
いや、隣で、毛を逆立てた猫みたいにしてる人もいてるし、誰に電話て聞く必要ないて、私も分かってんのやけど。
「あ、草若ちゃんに代わるの?」
四草兄さんがわざわざ電話掛けてくる相手なんて、他に誰がおんの。
「草若ちゃん、はい、どうぞ。あんな、電話って、お金掛かるから五分以内にした方がええで。」と子どもが電話を差し出した。
あんたが五分のうちの四分分を使ってしもたんでしょうが……!
言いたい、言えない……。
電話口から四草兄さんの吹き出した声が聞こえて来るのが、せめてもの救いというか。
子どもから電話を受け取った草若兄さんは、紺色の布巾を流しにおいて、一段声を落として話し始めた。
「あ~、若狭のお母ちゃんが寿限無聴きたいて言うからな。……そうかて、ちゃぶ台に手紙残して来たやろ。……いや、おい、怒るな、て。」
草若兄さんは、そろそろと泥棒のように足音を忍ばせてゆっくりと縁側に出て行った。
「お姉ちゃん、僕手伝うで。」と正平が腕まくりしてやってきた。
あの子は……電話が終わったら、糸が切れたタコみたい。おばあちゃんの隣でもう眠たそうにしてるなあ。海から戻った時にすぐ布団敷いとけば良かった。
「なあ、今の四草さんからの電話やろ。」
「うん。」と頷くと、正平は何やら考えるような顔つきになった。
「なんや僕、お姉ちゃんとお義兄さんの会話思い出してしもたんやけど……。」
「そない思う?」
「うん。」と正平が頷きながら湯呑をキュッキュッと拭いている。
「あのふたりって、もしかして一緒に暮らしてんの?」
うわ、ズバリ聞くなあ。
「そう。草若兄さんが、師匠の名前継ぐ前の、小草若兄さんだった頃から。」
「それは、あの頃ふたりともお金なかったからやてお姉ちゃんそない言うてたやろ。今、草若さんてお金あるよな。……あの車の鍵、ちょっとええ車のとちゃうかな。」と正平の鋭い観察眼が炸裂したところで、「おい、シノブ。切るなて、おい。」という慌てた声が聞こえて来た。
「……もうあないなってるから、しゃあないんとちゃうかな。」
「そうかあ。」と正平は言った。
ふたりのことは、他愛ないのう、とは言わんのやね。
ちゃんと草若兄さんが四草兄さんのこと宥めてくれたらええんやけど、と思いながら、私は洗い桶の底に残った、子どもの小さな短い赤い塗り箸を取り上げて、きらきらしたそれをスポンジで磨き上げた。
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