男子高校生の日常 その5


かつて、この辺りに住んでいた詩人が、ふるさとは遠きにありて思ふもの、と言ったらしい。
「なあ、僕たち、ここで何してるんだ?」とカレーパンに齧りつきながら譲介が言うので、徹郎は、今それを言うか、と呆れてしまった。
「シサクとか?」と言って、その辺で買って来たコーラ缶のプルタブを開けた。炭酸の弾ける音がする。
シサクか。自分で言っておいて、なんだっけ、と思う。
思索、詩作、あるいは、他に何かあっただろうか。
まあ、譲介と話していると、脈絡はなくても会話は続く。
なんとかなってるだろう、という気がする。
周囲には人がほとんどいない空間で、目の前の石畳と流れる水、川縁の風景を眺める。
隣には譲介がいて、遠くから人の声がする。


遠足である。
博物館、美術館、文学記念館。徒歩あるいはバスの乗り継ぎで教師が事前に設定したいくつかのポイントのうち二つのスタンプを押して、後は自由時間。
兄さんから修学旅行はないという話は聞いていたけれど、それは進学校だけの話だと思っていた。
底辺でもないが一流でもない、偏差値で入れるだけの高校に入学した春、どこの高校に行こうが、私学にでも進学しない限り、宿泊込みの修学旅行はないという話を親から聞いて、酷くがっかりした。(ちなみに、こんな田舎では、私立の高校に進学する奴といえば、スポーツ推薦狙いか入試の落伍者しかいない。)
高校生にもなって、遠足、と気落ちする徹郎とは違って、中学の修学旅行を仮病で休んだ譲介には、然したる感慨もないようだった。

――どうせ半日の話だ。近い席でグループを作って親交を深めろ。
遠足の一か月前、担任はそう言って、その場の勢いでパズルよろしく席順で組を決めたが、譲介と徹郎は生憎、というか、運命のいたずらとでも言うのか、三人班二組の中に別れて組み込まれた。
とはいえ、二人が班に入った後の四人は、それなりに穏当でそれなりに物わかりのいい人種に属していた……わけではなかったが、三人いて均等に話すのって無理だろ、という流れに話が転がっていき――勿論、徹郎は話がそういう方向に向くように必死で誘導した――二人班で三組に分けるかという話になり、スタンプラリーは適当に割り当てをこなして後は駅前のメシ屋でだべってる、あるいはその辺で服でも見てから、駅から離れた繁華街の喫茶店で、集合の一時間前に落ち合うという話で手打ちになった。
当然ながら、徹郎は譲介と一緒にいるつもりだったが、当の譲介は、僕は人の少ないところでカレーパンでも食べてからその辺の図書館に入って来週の予習でもしてるからお前はどっちでも好きに選べ、と言う。
そんな訳に行くか、と言って、結局はどこに行きたいか言えば一緒に行くから、と土曜にやっている小洒落たパン屋をプレゼンして、やっとのことで口説き落としたのが一週間前の話だ。


梅雨が明け、夏も目前という季節で、川面を撫でるように涼しい風が吹いていた。
譲介は、徹郎の視線に気づいているのかいないのか、鞄から英語の副読本であるペラペラのシェイクスピアを取り出して眺めている。授業でなければ、居眠りをしない。
綺麗な面だな、と思う。
教室でもどこでも、譲介は人目を惹く顔をしている。
中学の頃はあれだけ彼女が欲しいと思っていたのに、この顔を見慣れてしまうと、余所見をする時間も馬鹿らしくなった。パッと見には冷たい人形のように見える譲介が、カレーを食べているときは人に見える。それを知っているのが自分だけだと思うのは、なかなかの優越感だ。まあ、口には出さないけど。


きれーな顔してるよな、と。
徹郎は一度だけ、本人の前で言ったことがある。
あれは確か五月の日暮れどきで、兄の部屋の一回り大きな勉強机で数Ⅰの例題を解く譲介の顔に夕日の茜色が映えていた。
それは譲介に聞かせようと思って言ったわけでもなく、まして、冗談めかして譲介をからかおうと思ったわけでもなかった。ただ独り言が口を突いて出て来ただけの話だったのだけれど、譲介はにっこりと笑って勉強道具を片付け始め、またな、の一言もなくあさひ学園へと帰って行った。徹郎はその後、譲介から一週間無視された。
全く話さなかったわけではない。譲介は、元からさして饒舌ではないが、事務的な話し口調はこちらが嫌になるほど身についている。明らかに社交辞令だと分かる微笑みを浮かべた譲介から、真田君おはよう、と言われると、背筋が寒くなった。朝の一言のその後は、一切の言葉がない。徹郎を遠ざけるために譲介が築いた新しい壁は、名前を呼び合うようになる前に譲介が周囲に張り巡らせていた壁よりも、一枚も二枚も厚かった。
没交渉を余儀なくされたその間、徹郎はいつもの屋上から締め出され――出入りする窓は内鍵だが、譲介がここから先は入るな、と言って出入り口を身体でふさぎ、身体を持ち上げようとする徹郎の頭を、来るなよ、と言葉には出さず竹の物差しでつつくので降参した――四日目になってやっと天岩戸が開いたので、学食のカレーパンを供えて土下座して謝罪したが敢え無く無視され、放課後に待ち伏せをして母親行きつけのパン屋で揚げて貰った暖かいカレーパンを捧げ、もう絶対に譲介が嫌がる言葉を言わないと認めた誓書を渡した。そのどれに効き目があったか、あるいは譲介が徹郎のしつこさに負けたのかは知らない。
次の週明け。
――顔のことは金輪際言うな、そうでないと、僕はお前といる自分が許せなくなる。
底冷えのする声と共に休戦協定のラッパが鳴り、徹郎は、分かった、と頷いた。
初対面で言葉を交わした日からずっと、譲介が、こちらのことを、医者の家に生まれた苦労知らずの坊ちゃんと見ているのは分かっていた。ボンクラだが、それなりに使い道があるボンクラ。分かっていたけれど、話してみたかったのだ。その冷たい表面の中に、どんな人間がいるのかを知りたかった。
それでも、ただ相手のことを知りたいと思うだけでは、それは好奇心の発露でしかない。
徹郎が、父親の目を盗み、パソコンを使って興じるビデオゲームと変わらない。
譲介のことを全て知りたいと思うのと同じくらいの強さで、譲介がオレに見せたいと思っている面だけを見せている。その顔だけを見て譲介を分ったつもりで接した方が、おそらく、譲介の気持ちはずっと楽なのかもしれなかった。
それは徹郎にとっては余りに寂しい寂しい考えだったけれど、こんな場所にいると、遠きにありて思ふべき故郷から、この先も離れられない、そうでなければ、就職のために遠く離れた場所でひとり暮らすことにもなりかねない譲介のことを、ふと考えてしまうのだ。

考えていても仕方がないことに思考を巡らせたせいか、譲介の隣でパンをやけ食いしたせいか、段々と眠くなって来た。固すぎないメロンパン、苺をカスタードクリームで挟んだクリームサンドに、生ハムとチーズを挟んだ小さなバゲットは、どれもそれなりに美味しかった。
ふわ、と大きく欠伸をすると、また夜更かししたのか、とでも言いたいような声の後「寝たいなら寝てろ。」と譲介は言った。
じゃあ遠慮なく、と徹郎はリュックを枕にして、アスファルトの上に横になる。
見上げれば、千切れた棉あめのような雲と青空が見える。
入道雲や積乱雲が空を彩るのは、もう少し先のことだろう。
まあ、夏休みがまだ先だと思っているうちに、終業式が来ちまうんだろうな、と思っていると、隣でリュックを倒す音がして、「僕も寝る。」という声が聞こえて来た。
お前が寝たら、誰が起こすんだよ、と思ったけれど、ままよ、と思って徹郎は目を瞑った。



ね、寝れねェ~~~~~~~~。
いや、授業で寝てるときはどいつもこいつも見てるからな譲介の寝顔、と思ってはいるけれど、妙に気になってしまう。さっきまでは川の流れるせせらぎの音しかしねえ、と思っていたのに、馬鹿みたいに心臓がうるさい。
「……徹郎、起きてるか?」
「何だよ、」平静を装って答える。
「そういえば、………いや、いいか。」
せえの、で目を開けるとこちらを見ていた譲介と目が合った。「休みの間にカテキョどうするかって話か?」
「まあ、そうだな。」
「夏、休みの間はどうせ暇だろ。どっか行こうぜ。」
「……暇じゃない。」と譲介が言った。「午前中はあまりあそこから動けない。下の学年の宿題を見てやる必要があって。」
ジーザス、お前もか。
「それならオレがお前のとこに遊びに行ってやるよ。図書館で待ち合わせでもいいし。」
「図書館?」
「感想文苦手なんだよな、オレ。苦手なものほど後が辛くなるから、先にやっとくわけ。」
「なるほどな。」と譲介は言った。
その返事はオーケーなのか?
そもそもお前の方から何かないのか、譲介。
隣で涼しい顔をしている親友の首根っこを掴んで揺すりたいような気持ちと戦っていると、オレも大人になったもんだ、と思う。
休み明けに他人みたいな面すんなよ、というと、お前は本当に馬鹿だな、と言って、譲介は笑った。

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