一緒に/風邪

「あ、洛軍!」と、魚蛋妹が燕芬とつないだ手の先から声を上げた。
 つられて上げた視線の先で、デニムジャケットの裾が翻る。と、二人が歩く道の数メートル先を横切っていった陳洛軍が、魚蛋妹の声に引かれて戻ってきた。巻き戻されたビデオテープの中の人物のように、一歩、二歩、三歩。それが面白くて、燕芬と魚蛋妹は、お互いの目と目で「見た?」「見た!」とお喋りをする。その瞬きの会話が終わる前に、もう洛軍は二人の目の前に立っている。
「魚蛋妹。社長」
 こんばんは、と洛軍はしかつめらしい顔で挨拶をした。
 洛軍は燕芬のことを魚蛋工場で働き始めた頃から「社長」と呼んでいて、それは彼が城砦に戻り、週に数回ではあるが働き続けている今も変わらない。工場に勤めている姐姐たちが彼女を呼ぶ「社長」に感化されたものらしい。幼い頃からの知り合いの姐姐たちの軽口めいたものとは少し違う、真面目で硬質な響きを燕芬は気に入っていた。
「すごい量だねえ!」と魚蛋妹が、洛軍が両手にぶらさげているビニール袋に触れる。幼児がすっぽり入りそうな袋が二つだ。それらを軽々と持ったまま、陳洛軍は立っている。
 彼の右手側に透けて見えるのは、粥にスープにいくつかのパン。反対側には大きなガラス瓶とおそらく果物がいくつか、上の方にはカップも見える。容器に入った糖水だろうか。
 仲間内の飲み会にしては腹にたまるものばかりだし、一人分の夕飯にしては余りに量が多すぎる。
「皆で麻雀をするの?」
 魚蛋妹の指が、袋からはみ出ているコーラの大瓶の王冠を弾いた。彼女はその食料が、洛軍の遊び仲間たちのものだと見当をつけたようだ。確かに彼の仲間たちは大食漢ぞろいである。
 洛軍が口角を少し引き上げたので、おそらく明日、彼女はぴかぴかの王冠が手に入るだろう。城砦の子どもたちの間では、凹みの無い大瓶の王冠のレートは良い。
 魚蛋妹も微笑み返した。
「あたり?」
「いや、これは、麻雀ではなくて……、その、あー、そうだな……」と、洛軍が言いよどむ。彼は魚蛋妹のような子どもに対しては、驚くほど嘘がつけないのだった。その癖、大人が持ち込む面倒ごとは、あの手この手でするりとかわす。このビニール袋は彼にとって、余り喧伝したくないものらしい。
「風邪でもひいた? それともひきそう?」
 かわされないように、燕芬がビニール袋を無遠慮に眺めて言えば、目を瞬かせた洛軍が「…………風邪をひいたんだ」と沈黙のあと答えた。
 よくよく見れば、量はともかくとして、身体に良さそうなものばかりだ。極めつけは、コーラの横にあるレモン。
「洛軍、風邪なの? まだ元気そうだから、ひきはじめ? じゃあ明日はちゃんと休まなきゃ。はやく寝て、水分をたくさんとるといいんだよ」
 魚蛋妹が彼女の母を彷彿とさせる口調で言った。燕芬は繋いだ幼子の手のひらを、強く握って揺らす。
(そうだね、本当にね。あの子にも、あんたの母親にも、そう言ってやれれば良かった。そうできるだけの働き口を一緒に見つけてあげられれば良かった)
「洛軍、明日は出てこなくていいよ」
 浮かんだ面影を瞬き一つで消し、燕芬は言った。
 明日が出勤日の男に頷いて見せれば、洛軍は「……いや、おれじゃなくて信一なんだ」と苦笑した。
「信哥が? あんなに元気だったのに」
「なあ、あんなに元気だったのになあ」
 城砦福祉委員会の定例会で、集会所の利用権で揉めだした住民たちに「いいからくじを引いて、利用簿に名を書け!」と怒鳴っていたのはつい先日のことである。
「どうやら、その、外での仕事で長いこと海風に吹かれたらしくて。ここのところ寒かっただろ?」
「そうだねえ。びっくりするくらい急に寒かったね」
 私も眠れなくて足をあっためてもらったもん。魚蛋妹が頬を少し赤らめた。冷えたシーツに耐えかねた魚蛋妹の小さな足を、隣のベッドから足を伸ばし、包んで温めてやったのは燕芬だが、それを洛軍に知られるのは背伸びをしたい年頃の彼女には恥ずかしいことらしい。
(そんなに急いで大人にならなくてもいいのにね)
 燕芬は気がついてないふりで、洛軍の持つビニール袋をさらに覗き込んだ。底の方には城砦外にある甘味屋の糖水が、二つ並んでいた。透明なプラスチックの蓋にはびっしりと水滴がついており、ほの白い梨と白木耳が浮かんでいる。
「信一は、その糖水は好きじゃないでしょう。そんなに甘くないものね。中身は林先生のアドバイス?」と笑いながら言えば、「……糖水の種類までは指定されなかったから」と洛軍は気まずそうに目を逸らした。
「洛軍、信哥をだましたんだあ」
「嘘は言っていない。お気に入りの店の糖水を買ってくるのと引き換えに、休んでもらう約束なんだ。ちょっと働きすぎていたから、ゆっくりするくらいでちょうどいいと思う」
 あとはホットレモンコーラを作る。香港では風邪をひいた時の定番だと聞いたから。
 そう言って洛軍はコーラの瓶を揺らして見せた。
(海風ねえ……)
 どうせまた、信一はろくでもないことをしてきたのだろう。
 城砦取り壊しの方針が決まったからといって、そうすぐに行政の面々は動かない。ルールを決めねば、まずはルールだと囀るばかりで、歩みはそこらの阿爺より遅い。それを逆手にとって、幼馴染はこの城砦に纏わるすべてを軟着地させようとしている。城砦の最後の子どもとして。それには後ろ暗い部分も多分に含まれていて、洛軍はそれを魚蛋妹に悟らせたくなかったに違いない……もしくは他の住人たちにも。まだまだ弱みを見せられる状況にないのはわかる。人の不安は容易く伝染して、うねりになって、何もかもを壊すことがある。
 ホットレモンコーラ? ホットレモンコーラ! 苦いよね! 甘いだろう? 信哥、嫌がるかもよ。 それは困る……。
 きゃらきゃらと笑いあう幼子たちを眺める。
 そんな燕芬に気がついた洛軍が、すいと大人の顔になり「秘密にしてくれ」と目で念を押した。わかっている、わかっている。燕芬はひらひら手を振った。
「それじゃあ、二人とも、また明日」
「またね!」
「また明日」
  洛軍が再生ボタンを押されたかのように、先ほどと同じ歩幅で去っていく。彼にしては少しぎこちないその仕草。
  その光景を眺めたまま、いっこうに歩き出さない養い親に、魚蛋妹が首をかしげる。その様子が可愛らしくて燕芬はにっこりと笑った。
 さて、一つやることができた。
 
 *****
 洛軍は開け放された扉を見てため息をついた。今日も冷えるというのに、扉を閉めていない。いくらこの城砦内では日当たりの良い部屋とはいえ、もう陽はとっくに落ちた。寂しがりなのはわかるし、それを見せる相手が少ないのも知ってはいるが、こういう時ぐらいは身体の方も労わってほしい。心だけではなく。
「信一、ただいま」と声をかければ、しっかりとしたフレームのベッドの上でブランケットに何重にも包まっていた男が「ろっぐわあん」と掠れた声を上げた。
 荷物をテーブルに置く前に、ブランケットを引きずりながら抱き着いてくる。
「キスはだめ。酒もだめだ」
 洛軍の頬に唇を寄せつつ、抜け目なく冷蔵庫を開けようとしたその手を握って止めた。荷物のせいで片方しか止められなかったため、キスは甘んじて受け入れる。頬なら四仔が言っていた「控えるべき過度な接触」ではないだろうと洛軍は思った(後にこれを聞いた四仔は「俺が悪かった。半径1m以内に近づくなと言っておくべきだった」と嘆いていた。時は既に遅かったが)
「ええー、酒で身体をあっためれば、風邪なんかすぐ直っちまうのに」
「喉が腫れて熱が出るのならば、あたためてはいけない……らしい。四仔が言っていた。輸入ものの梨を買ってきたんだ。剥くから食べよう」
「……おい、お前、油麻地まで行ってきたんじゃないだろうなッ……ッハ、え、げっほ」
「ほら、そんな喉で酒は無謀だ。お望み通り、佐敦の店の糖水も買ってきたからこっちにしろ」
「……白きくらげのやつじゃん。いや食べる、食べるけど。甘くないじゃん……」
「もう一つ、甘い方もある。温かくて芒果が入っている。食欲があるなら食べるか?」
「んー、いいよ。そっちは洛軍が食べな」
 白い頬をゆるませ、信一が握られた手を、指と指が交差するよう組みなおした。
「……? 両方とも信一に買ってきた」
「う~ん、でも、洛軍さ、今朝からあまり飯食ってないだろ?」
「そうだったか?」
 確かに数日前、油麻地の一部に架勢堂と出張っていったあの時、潮風に吹かれて彼らの暴力を見ていたあの時、その前夜に四仔たちと夕食を取ったのが、腹いっぱいに食べた最後かもしれない。でも腹が減ったという感覚は洛軍に無かった。
「そう、あの馬鹿どもの残党狩り。結局お前に着いてきてもらった割には、特に何もなかったけど……、あの後、おれがこんな感じになってから、お前あんまり食べてないじゃん」
「うん? うん……そうか、な?」
「そうだよ。おれが心配だった? 夜はおれが寒がるからひっついて寝てくれたし、咳をしたら背中をさすってくれたし、優しい恋人でおれはしあわせだなあ」
「……でも酒は駄目だ」
 わかってるよお、と信一は語尾を伸ばして、組んでいた手を離し、洛軍の腰を両腕で抱きしめた。
「俺も今日休んじまったから、明日まで休んでもどうせ仕事の山は変わらないんだ。明日もずっとひっついていようぜ」
「俺は明日は仕事だぞ」
「それはどうだろうなあ」
 首になついた信一の頬が、くふくふ動いた。
「だってたぶんお前が食欲無いのって、おれのことが心配だったってだけじゃないと思うよ」
 今度はおれがお前の足をあっためてやる。そう言って信一は洛軍の足の間に足を差し入れる。
 信一は時々よくわからないことを言うなあ、と洛軍は思い、まあ具合が悪くなさそうで良かった、と真意を探ることを諦めて、とりあえず彼を背中にくっつけながら、台所でコーラを温めることにした。レモンは後で切ろう。レシピ的には間違っているかもしれないが。
 傷つけないよう、慎重にコーラの大瓶から王冠をはずす。
 ホットレモンコーラ! と信一が嬉しそうに耳元で叫ぶ。 

 *****

 首を傾げたままの魚蛋妹に、燕芬は「少し寄りたいところがあるんだけどいい?」と問うた。
 仕事のついでとはいえ、久しぶりに二人きりで外食(清湯牛腩河粉は美味しそうに食べていたが、芥蘭は燕芬の方に押しやってきた)をし、待っていてくれたご褒美にとチョコレートを買ってもらい、帰り道に弟分にも会えた魚蛋妹は、「もちろん」と鷹揚に頷いてくれる。今日なら、もっと大変な頼み事も聞いてあげますよ、と魚蛋妹のつやつやの頬が言っている。
 そんな魚蛋妹の気持ちを過たず受け取った燕芬は「ありがとうね」と言って、自宅へと通じる道の一つ手前を曲がり、小規模な工場が集まるなかでも比較的小奇麗な、危険なものを取り扱っていない一角へと歩いていった。
 自宅からもほど近いそこは、一年ほど前に燕芬が前の持ち主から機械ごと譲り受けた改衣屋である。前の店主は賭け事での借金がかさみ、ほとんど引きずられるようにして城砦外に住む一人息子に引き取られていったが、店の金には手を付けておらず、帳簿は綺麗なものだった。彼女も彼女なりにこの店を愛してはいたのだろう。あんたが続けてくれるなら、と売値は相場よりもほんの少し安かった。果欄の簒奪者たちが居座っていた頃も、このあたりは場所がそこまで良くなく、無理矢理奪われはしなかったし、従業員たちもそのまま勤めてくれているので、燕芬改衣店の経営は順調だ。
 カラフルな糸が積まれた棚が壁に沿って並び、直し済みの服が何着も何着も天井から吊るされている。数人の従業員が手許のミシンに集中していた。ジャケットの濁流を潜り、ズボンの森を抜けたところで、燕芬はここのまとめ役をしている姐姐に声をかけた。
「お疲れ様。順調そうで良かった」
「燕芬姐! ありがたいことにね。工場から来てくれたあの子、良い感じだよ。こっちの方が向いてるよ」
「やっぱり? 彼女も改衣店の仕事の方が好きそうだもんね。今後もこっちメインでやってもらうか……でも、ごめん。明日は彼女に魚蛋工場の方に出てもらってもいい?」
「今のところ、特急扱いの仕立ては無いから大丈夫なはずだよ。卓琳! 燕芬姐が明日は魚蛋工場の方に出勤してもらいたいんだってさ。急ぎの頼まれものはある?」
 奥の台で派手な柄のジャケットの肩回りを手縫いで直していた卓琳は顔を上げ「特にはないかな。皆が大丈夫ならいいよ」と言った。途端にあちらこちらから「オッケー」「大物は終わった」「明後日に大口の客が来るまでは暇」などの声が上がる。卓琳は良い仲間に囲まれているようで、元店主がここを最後まで手放さなかった理由がわかるような気がした。
「でもどうしたの、燕芬姐。明日は城外への納品があるけど、その分、人も増やしている日でしょ」
「うん。洛軍がね、ちょっと風邪をひいたみたいで、明日はお休みなんだ」
「あら、めずらしい」
 燕芬が「確かに」と打つ相槌に、「あらあら」「大変」「あの頑丈な子が」「明日は雪だよ」のおしゃべりが被さった。洛軍は仕事仲間に評判が良い。
「それじゃあ、行かざるを得ないね。頑張らなくちゃ」と腰に手を当てる卓琳に、よろしく、と頷いて、燕芬と魚蛋妹は手を振って店を出て帰路につく。
 魚蛋妹は物言いたげに、つないだ手をゆらゆら揺らした。

  *****

 今日の夜も、香港にしてはめずらしく寒い。
 燕芬は、魚蛋妹を自分のベッドに引き入れて、足を足で温めてやっている。幼子の身体は温かく、シーツの中だけは楽園のようだ。お高いマンションやホテルには暖房器具なるものもあるらしいが、年にそんなにない寒さのためにだけに、わざわざ手間ひまかけるなんて、金持ちの贅沢はよくわからない。違うところに金をかければいいのに。
「ねえ、寝ちゃった?」
「起きてるよ、なあに? 寒くて眠れない?」
「ううん……」と足をもじもじさせた魚蛋妹は燕芬の胸にもぐりこみ、「どうして、洛軍が風邪なんて言ったの?」と聞いてきた。気になって、気になって、眠れない……と顔を見上げ、落ちそうな瞼で問いかけてくる。
「嘘をついた訳じゃないよ。たぶん、明日、洛軍は風邪をひいてお店には来られない。何なら元気になった信一がそれを言いに来ると思う」
「信哥が?」
「もし、あんたが風邪をひいたなら、」と燕芬は続けた。
「私は側にいて看病をする。ホットレモンコーラも作る。レモンは少し控えめにしてね。それから今日みたいに一緒の布団で一緒に眠る。咳をしたら横を向かせて背中を撫でるし、熱が出ていたらタオルで冷やす。あんまりあんたの熱が高かったら、私は眠らないかもしれないけど。ずっと隣で見張ってる。そうしたらどうなると思う?」
「私とずっと一緒?」
「ずっと一緒にいるよ」
「咳をする時も、熱が出ている時も?」
「うん」
「……そうしたら、風邪がうつっちゃう?」
「そうだね、そうなると思う」
「そういえば、洛軍、ちょっと目が赤かった」
「あー、確かに潤んでいたかもしれない」
 それなら、もう既に手遅れだ。
 洛軍はなまじ体力があるせいで、自分の身体の不調に気づけないことがある。変なところで自分の身体をもて余す様は(だって力の用い方という点では、洛軍は素晴らしく完璧に身体を使いこなす)、魚蛋妹と変わらない。
「確かに、信哥も、足をあっためてもらいたがる気がするねえ……」
 眠りの国へと足を踏み入れた魚蛋妹が、とろとろと言葉を口からこぼす。
 燕芬は魚蛋妹と洛軍を重ね合わせたが、魚蛋妹は信一の方に親近感を抱いているらしい。いつまでたっても燕芬たちは城砦の子どもだ。
「あいつ、ひっつき虫のところがあるからね」
「ふふ、ひっつき虫……ふふふ。じゃあ洛軍にも風邪がうつっちゃうねえ……」
「そう思うよ。ほら、もう寝なさい」
「はあい」
 この城砦をを統べる男、この城砦を閉める男。そんな男が幼子に笑われているのはきっといいことだ。そんな人間の傍に洛軍のような人物がいて、ひっつきあって、固まって、一緒に風邪をひいている。それはとてもいいことだ、と燕芬は思い、ベッドの中の楽園で瞼を閉じて──次の瞬間にはもう眠りに落ちていった。
 
 

powered by 小説執筆ツール「arei」