24時のいたちごっこ
目深に被ったキャップのつばが視界を遮って、前を歩く彼の背中が見えない。
HiMERUは名の知れたアイドルだから、たとえ今が深夜の0時を回っていたとしても、ほんの数分「ちょっとそこまで」の外出だったとしても、一応は変装をしておきたいのだ。どこで誰が見ているかわかったものではない。
なのにこの男ときたら。
そんなHiMERUの憂慮は何処吹く風で、帽子はおろかマスクもサングラスも身につけずに平気で外へ飛び出していくものだから、毎度焦るのはHiMERUの方だ。自分がどれだけ目立つ容姿をしているか理解しているのだろうか(過去に苦言を呈したら「堂々としてりゃ騒がれることもねーっしょ」などとほざいていた)。
ふと視線を感じてつばを持ち上げると、案の定燐音が振り返ってじっとこちらを見ていた。すぐに進行方向へ視線を戻してしまったけれど、その口許は薄く笑みをたたえていて。HiMERUは少し歩調を早めて燐音と肩を並べた。
真っ白な蛍光灯が煌々と灯る店内に、無機質な電子音が鳴り響く。夜とはいえまだまだ残暑が厳しい。まとわりつくような外気から一時解放され、HiMERUは知らず小さく息を吐いた。
「コンビニに行きたいならそう言えばいいでしょう。いきなり何も言わずにふらふらと玄関に向かうから毎度驚くんですよこちらは」
「つってもよォ、この時間に行くとこなんてコンビニくらいしかねーっしょ? 実際」
燐音の気まぐれに付き合わされるのにはもう慣れっこだから、事実、それほど驚いてもいない。とはいえ一言断りを入れるくらいの気遣いはほしいものだ。今だって燐音の後を追うために慌ててそこらに散らばっていた衣服を掴んで身に纏ったものだから、うっかり自分のものよりもひと回り大きな燐音のTシャツを着て出歩く羽目になってしまった。
――まあいい、せっかく来たのだから、とHiMERUは燐音に続いてドリンクの棚へと近づく。燐音は手に持った買い物かごに缶ビールやら酎ハイやらを次々に投げ入れているところだった。「飲みすぎないでくださいよ、身体が資本なんですから」と軽く釘を刺そうとして、かごの中にコーラのボトルを認めたHiMERUは言葉を飲み込んだ。この男のこういうところが、憎たらしくて堪らない。
「メルメルゥ〜、アイス買うっしょ? 白玉が入ってるヤツあるぜェ〜」
HiMERUは燐音の間延びした声を無視した。そして日用品が置かれている棚へと向かい、床に近い場所に陳列されている箱を見つけると、一瞬の逡巡ののちひとつを乱暴に引っ掴み、燐音のもとへずかずかと歩み寄った。無言のまま手に持った物を買い物かごへと雑に突っ込む。
「おおいメルメル無視すんじゃねェよ、さびしーだろ〜? って、んお?」
「……アイスは、燐音の奢りでお願いしますね」
驚いた様子の燐音にそれだけを告げると、HiMERUはすぐに背を向けて自動ドアへ向かった。らしくもないことをした。顔が熱い。まだ追いかけて来ないでくれよと信仰してもいない神に祈りつつ、自宅への道を足早に歩き始める。
「メールメル」
数メートル後ろから燐音の声だ。HiMERUは歩く速度を緩めない。悔しいが歩幅は燐音の方が大きいため、すぐに距離を詰められてしまう。追い付いた燐音は、先程HiMERUがかごに突っ込んだコンドームの箱を、見せびらかすように手に持っていた。
「随分情熱的だねェ、ダーリン? 今宵はもう一戦ってことでイイかァ?」
「――さっきのが、最後のひとつだったでしょう。それを買うために出掛けたくせに、ぬけぬけと」
「おっと気付いてたか。HiMERUは推理が得意ですので〜ってか?」
緩む口許を隠そうともしない燐音に、HiMERUは苛立つようなむず痒いような複雑な感情を覚えた。行動を起こしたのはHiMERU自身だが、揚げ足を取られたようで気分が悪い。
HiMERUはわざとらしく溜息を吐くと、今のばつの悪さを上書きするべく、翌日の過ごし方へと思考を切り替えた。
――明日はふたりともオフだ。帰ったらもう一度セックスして、昼までに起きればいい。食事をとったら録り溜めていたお互いの出演作のチェックをしよう。ついでに観ておきたかった映画があるから、並んでソファに腰掛けて鑑賞しよう――などと。
久しぶりにふたりで過ごせる休日に思いを馳せているうち、HiMERUの機嫌はすっかり上向いていた。我ながら単純だと呆れ返る。だが、どうせ隣の男も似たようなことを考えているはずだ。そうに違いない。だってそんなことは口に出さずとも、HiMERUの髪をくしゃりと撫でる掌のあたたかさから、向けられる視線に滲む愛おしさから、感じ取れてしまうのだった。
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