燗付け


ガコン、ドコンと音がした。
積もった雪の塊が、重力に従って屋根から地面に落ちるその音に驚き、譲介は目覚めた。
診療所の古い家屋は断熱性が皆無と言っても良く、譲介の足先には、ほとんど外気と変わらないのではないかと思われる冷え冷えとした空気が流れ込んでくる。
部屋の寒さのがこれほどはっきり分かるのは、さっきまで付けていたストーブがすっかり消えてしまったからだった。
いや、さっきじゃない。
時計を見て、譲介は頭を抱えたい気分になった。
「……またか。」
夜のシャドーを終えて一日の復習をするつもりが、すっかりうたた寝をしていたらしい。
開きぐせが付いてしまったページに書かれた病名を見て、譲介は誰に見られているわけでもないにもかかわらず、慌てて、寝入ってしまう前に読んでいたページを開き直した。
ノートに書き写していた文字は、最後の方はミミズのようにのたくっている。
はあ、とため息を吐く。
冬場に福沢地区まで往診に行く日は、いつもこうだ。
集落の人数が多い分、交代で車を出して貰えるとはいえ、降雪による孤立状態を警戒しながら色々なお宅を回り切ると、机に向かっていたはずが、電池が切れたようにこんこんと寝入ってしまう。
K先生に付いて往診に回るようになってから、もう随分と経つというのに、身体が疲労に負けてしまうのだ。
気が付けば次の月、そしてまた、次の月。
季節は廻り、日々は瞬く間に過ぎ去っていく。
とうとう、長らく部屋の隅に縛って置いておいた、かつて共に暮らした人との生活の未練の塊ような受験用の赤本やテキストを暮れにまとめて処分してしまったので、今、譲介の机の上には、先生から借りた医学書とノートがあるばかりだ。机の上に乗らない本は、床に積み始めた。
必要なら、もう使ってない部屋からひとつ棚を持っていけと先生に言われたのは紅葉が始まった頃だ。そもそも、その使っていない部屋の棚が、こうした医学書で既に半分は埋まっているのだった。その部屋から取って来る本は、丁寧な字でいくつもの書き込みがあり、下線が引かれているものもあった。そもそもは誰の蔵書だったのか、裏表紙の内側には、研究の研、と書かれている。最初はどこかの大学の研究室から払い下げられたものだろうか、と思ったが、もしそうであれば、こんな風に誰か一人の字で書き込みがあるはずもなかった。
先生には、あの部屋の書籍で必要なものがあれば、最新版を買うように、とも言われている。だから譲介は、読み終えた分は、いつか元の部屋に戻せばいいだけとそう思い、大掃除が終わった今も、床に積んだままにしているのだった。
日中、家々を往診している間に先生や麻上さんとの受け答えで頭に入れた内容は、TPOによっては、都度都度メモに取れる場合と取れない場合があるので、記憶の海の中でうやむやになっていこうとする前に書けるだけノートに書き取ってしまい、頭に浮かんだ質問があれば、先生に尋ねる前に、こうして医学書と首っぴきで知識の継ぎ足しをしておく。
そうやって独学で自習をした後には、翌朝必ず先生か麻上さんに質問をする。
ときどきはイシさんや村井さんから、あるいは、診療に行った先の患者であるはずの村の人から答えが返って来ることもある。
彼らの知識が、刷新されていないと判断した場合には、話を聞いた譲介が、そこで訂正する必要があった。先生は、譲介に対して言われた言葉に限っては、その場、その瞬間には絶対に口を挟まない。譲介がちゃんとそれに答えるか、あるいはそれをスルーしたと分かったタイミングで、今はこうだ、と話す。
指摘された人は、さすが先生、と感心し、こいつはもうちょっと勉強せねばならんな、という目でこちらを見る。
時には、お前はまだまだ一也ちゃんに比べて足らんとこが多い、と叱られることもあり、時には、帰り際に、イシさんが買ってくるような煎餅や飴を持たされることもある。
人によっても日によっても、その時々で対応が変わる。
譲介自身、貰った飴を舐めながら反省する日もあれば、厳しく叱られる方が、逆に慰めになる日もあった。
そんな風にして、ここでの勉強を積み重ねていく。
毎日が実践だった。
テキストを開いて机に向かってさえいれば良かった高校時代よりも、ずっとハードだが、村の中では不思議と、どれだけ叱られても、プライドは前ほど傷つかなかった。それに、両手いっぱいに持たされる飴は、いつも甘かった。
師の前で、あるいは年上の男女の前で「頭が良く、使える子ども」を打算的に演じる必要はないということは、これまでの人生で譲介の肩に掛かっていた重荷を少しだけ軽くした。


ふわ、と欠伸をする。
もう少し続けるか、それとも、今日は寝てしまおうか。
明日の午後は、村外からの患者の受け入れを予定していて、臨時の休診が決まっている。
冬になる前から、食事の内容が少し変わって来ているせいか、これから勉強を続けるにしても、小腹が空いて集中できないような気がした。
譲介の偏食に合わせて、長らくイシさんが作り続けてくれていたカレーだが、今は、鍋や湯豆腐といった身体を暖めるための冬の料理をメインに、副菜でタンドリーチキンやカレー味のおかずが付き、譲介はその副菜で食事を済ませるか、あるいは具沢山のコンソメスープを譲介の分だけ取り分け、カレー粉を入れてカレーの体裁を整える、という日々が続いていた。
譲介が診療所に来る前のイシさんは、冬場は良くシチューを作っていたらしい。
譲介は、蓮根や大根や葱がたっぷり入った冬野菜のカレーを黙々と食べた。(茄子やトマトはこの時期、町まで買いに行かないと手に入らないが、大根や葱ならタダ、という理屈だ。)
冬は身体が資本だから、少しづつ、葱や根菜と言った食べ物も薬と思って口にして食養生をするようにという先生の命で、ちょこちょこと出汁で煮た人参や大根も食べるようになったが、カレーでない日は米を食べる量が自動的に減るので、こんな風にして、夜に空腹を感じる日が多くなってきていた。
冷蔵庫に、確か牛乳があったはずだ。
カフェオレでも淹れようか、とは思ったが、時計の針は十時半を回っている。その時間を見て、あと三十分で寝なければ、という意識が反射のように頭に浮かんでくる。
(煮詰まったコーヒーを淹れ直そうかと尋ねたら、大人しく寝ておけ、と保護者のような顔をして笑っていたっけ、僕を捨てて行った人は。)
一日、一時間を、おろそかには出来ない。
そう思うのと同じ強さで、さっさと忘れたらいい、と思う。
折り目のついた本のページに書かれた病名が目に入って来るたび、そう思うのだ。
舌打ちをしたいような気分で頭を掻いていると、引き戸ががたんと開く音がして、譲介は出入り口を振り返った。
「起きてるか?」
「あ、はい。」
そこにいたのは、K先生だった。
電気が付いているのに気配がしないことを不審に思われたのだろうか。
用件が夜間の救急対応であれば、もっと切羽詰まった声になっているはずで、シャドーを終えてから次の朝までは、風呂の番を告げるためと急患が出た夜以外で、こんな風に先生がこの部屋まで足を運ぶことは稀だ。
先生は、今日も一応風呂には入ったはずだ。
今、譲介の目の前にいる人は、風呂上がりらしく頭から湯気を立てている。
もしかしたら週末の風呂掃除が雑だったとか、そういう苦情めいた話だろうか。
いつも譲介に先を譲り、その後、先生が仕舞い湯を使うことになっていて、毎日ざっと掃除をするのは先生が担当するが、週末に、バスタブや排水溝の消毒などをするのは譲介の仕事だ。
(受験勉強中はほとんど順番が逆だったけれど、冬場は、仕舞い湯の方が風呂場は暖かい。あの頃の先生から、少なからずの配慮を受けていたのだろう。)
朝に着ていた服から白衣を脱いで、その上にちゃんちゃんこを羽織っただけのような格好になった先生に気付いて、譲介はふと、この人もあまりパジャマを着ないのだろうか、と思った。
春、夏、秋。
それまでは自分もほとんどパーカーにだぶついたボトムスという格好でいたので、パジャマを着ていない先生を見ても何とも思わなかったが、考えてみればこの人が部屋着らしい部屋着を着ているところを見たことがない。
もう寝るところか、と問われて、譲介は物思いから離れて立ち上がった。
何と返事をしようかと口を開きかけたところで「寝られないなら酒でも飲むか?」と言われた。
「………え?」
すいません、もう一度、と言う暇もない。
先生は、後ろ手に隠していた一升瓶を譲介の目の前に翳し、どうだ、と言った。
この人は、こういうことをする人だったのだろうか。
診療所の外でびょうびょうと吹く風の音を聞きながら、譲介は瓶に貼られたラベルの文字を読む。
山の風は嵐だ、と譲介は思った。


K先生は、くびれのある小さな花瓶のような容器に、器用に酒を空けている。
譲介は、洗うにしても衛生的な管理が難しそうなその容器を見ていると、どうにも不安になって来た。この家には、一応、ほうじ茶を冷まして入れておく細長いポット用のブラシはあるものの、夏以来ほとんど使っているところを見ていない。流し台はイシさんの管轄だと思って、見ないようにしていたけれど、それが仇になってしまったようだ。
「……先生、それ、ちゃんと洗ってあるんスか?」と譲介が問いかけると、先生はむ、と言って手を止め、押し黙ってしまった。
まさか図星ではないだろう、と思っていると、先生は譲介に向き合い、「どうせアルコールだ。」と言った。
「ハ……?」
突如として非衛生的な発言をかまして、ふたつめの容器に酒を注ぎ始めた先生の横顔から、譲介は、ほんの少しの浮かれた雰囲気を感じ取る。
これでは先生も、酒が飲めるぞ、と浮かれる宴会前のおっさん共と変わらないではないか。
「譲介、いつもの鍋にポットから湯を移しておけ。今は薬缶を使うとイシさんがうるさいからな。」
いつもの鍋、と言っても鍋はいくつもある。
粥を作る片手鍋に、うどんや蕎麦を茹でる金色の大振りの金色の鍋、煮物用のステンレス素材の焦げ付きやすい鍋に、鍋用の大きな土鍋。
流石に、土鍋のことは土鍋というだろう。
並んだ鍋をただ見ていても、目の前に答えが提示されることはない。
「あの、片手鍋でいいですか?」と振り返ると、「……そうか。」と先生は言った。
お前がいるときに呑んだことはなかったか、というひとりごとのような呟きに「そっスね。」と譲介は言った。
「やってみるか?」と言われて、譲介は逃げ場がない。
考えてみれば、白衣姿を見慣れてしまって特段の意識こそしないが、年のことだけを考えれば、この人も、周囲からはおっさんと言われるような年なのだった。
天を仰ぎたいような気分で、譲介は「あの、先生。訊いてもいいっスか?」と口にする。
「……何だ? 鍋なら、その片手鍋で構わないぞ。」
「いえ、あの……なんでさっきからその……酒入れてるのは何かと思って。……花瓶、スよね?」
「なんだと?」
まさか見たことがなかったわけでもなかろう、と先生は眉を上げた。
「いや、花瓶じゃないならいいんス。」と慌てて手を振ると、先生はため息をついてこれは徳利だ、と言った。
「トックリ。」
確か、襟足が長い服のことをそういうのではなかったか、と譲介は己の乏しい知識を探る。
「セーターっスか?」
「……連想ゲームじゃない。これが徳利だ。襟の長いセーターをとっくりと年寄り、」とそこまで言って先生は空咳をした。「年長者がとっくりと言うのは、徳利のこのくびれと似ているからだ。」
「そうなんですね。」と言うには言ったが、心の中で譲介は首をひねる。譲介には、それらがのふたつが似ているとは、到底思えないからだ。
この村にいると、自分がどれだけ言葉を知らないか、ということを思い知らされる。
T村の平均年齢はきっと五十を超えているだろう、それだけの人生を生きた人の語彙と、譲介の日常使う語彙には、大きな開きがあった。時には、会話が噛み合わないこともある。
先生の門前の小僧として長らく溜め込んだ医療の知識をさし挟んだ会話を交わすと――話しながらメモを取ると、なおさら喜ばれる。学生の頃からずっと、保護者であった人の話しをただ傾聴するだけの時間、というタスクを何度となくこなしてきたが、あの人との生活で培った経験の中でも、それが村での暮らしに役立つことになるとは思わなかった――譲介は何度も、医学の専門用語以外のことで教えを乞うことになった。
「これは、酒を温めるときに使うものだ。」と言われて、ええと、と譲介は言葉を濁した。
いわれてみれば、小さな水差しのようにも見える。
――水が酒になるんだから、酒は水のようなものだ。
人間の理性がたんぽぽの綿毛のように飛んでしまういつもの忘年会の時期、確か机の端にこういう花瓶のような何かを見たような気もしていたが、みんな、一升瓶から直接、お猪口だの升だのコップに開けてしまう。何に使うものにしろ、そこに注意を向けるような余裕がなかったので、すっかり忘れていた。
「見たことはあったかもしれないですが、意識はしていませんでした。」と譲介が言葉を濁すと、先生は「まあ、この村では、皆一升瓶から注いで飲むような人が多いからな。」と言った。
昔はそうでもなかったが、今は酒豪だけが残ってしまったようだ、と先生は寂しそうな顔をした。
「譲介、お前入れてみるか?」
「あ、ハイ!」
勢い余って返事をすると「今はオフだ、そこまで意気込む必要はない。使い慣れているようなら、普段からさっきの言葉遣いでも構わないぞ。」と言って、先生は少し笑ったようだった。


一升瓶を片手に持ち、とくとくと酒を注ごうとしたが、なかなかうまく行かない。
瓶が傾き過ぎて調節が難しいので、譲介は諦めて片手を添えることにした。
先生は簡単にやっているけど、これは――。
重い医療鞄を両手に提げて先生の後を付いて行くようになってからこちら、多少は鍛えられたと思っていたけれど、この一升瓶の重さもまた、譲介の片手には余った。
先生は横で、譲介の様子を見つめている。
診療をしているときのように真剣だが、それを嫌だとは思わなかった。
「入れすぎて零すなよ。」と言われるに至っては、村の酒好きで通っている誰彼の顔を思い出してしまう。
「笑わせないでください。手元が震えます。」と反射で言えば、「お前が笑わなければ済む話だ。」という。
理不尽過ぎる。
高校の頃の自分であれば、交代しても構いませんか、と口にして、さっとこの場を離れていたところだ。
大人になった、という訳でもないが、自分に、何かを伝えようとする相手のことも、こんな風にして見守られている自分のことも、いつの間にか受け入れられるようになった。
ポットの湯を片手鍋に入れて、ガス火に掛けると「そう言えば、それは雪平鍋というらしい。」と先生が言った。
「ゆきひら。」と譲介が馬鹿のひとつ覚えのように反復すると、先生は多分だ、と言って「明日イシさんに聞け。」と付け足した。
少し待つぞ、と言われて、いつもの食卓に向かいあって腰かけると、キッチンスペースに来たタイミングでは寒かった部屋も、少しずつ暖まって来ていた。ことことと、雪平鍋の中で沸いた湯が立てる音を聞いていると、ひどく落ち着いた気持ちになる。
灯油ストーブは本当に優れものだ。
部屋からノートを取って来て、今日の質問をしてもいいだろうか。
そんな風に考えていると、そわそわしながら燗付けの鍋を見ている先生の気配を感じて、この場を中座していくのが、なんとなく惜しいような気持になった。


徳利を傾けて、酒をお猪口に入れた。
湯煎で暖められた酒は、喉を通って胃に滑り落ちていく。
「どうだ?」
「悪くは、ないです。暖かくなって来た。……大人は皆、こういう気持ちを味わうために酒を飲むんスね。」
無論、そんな大人たちばかりでないことを、譲介は知っている。
知っているが、知らないふりで目を瞑るのを覚えたのも、大人になるということなのだろうか。
燗付けをされた酒は、さして美味しいものでもないが、足のつま先から冷えた譲介の身体を、ぽかぽかと暖めてくれた。
診療所で先生と飲むとき、山の風を暖めるのには、薬缶ではなく、雪平鍋を使うこと。
頭の中のノートにそう書き留めて、譲介は、つまみはないか、と流しの下を探し始めた人の大きな背中を眺めた。


















2024.1.26 Fuki Kirisawa

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