どうしようもない男

 何か企んでる。絶対。絶対何か企んでる、そうに決まってる、瀬名泉は脳内で繰り返す。

 オーガニックの野菜をメインに使った色とりどりのデリ、糖質控えめで見栄えもいいパンや焼き菓子、上質な珈琲の香りとスローテンポなレゲエが満たす店内。センスのいいインテリアに快適な空調。そして向かいの席にはふたつ歳上の先輩、天城燐音。以上が今現在泉を取り巻く環境だ。途中までは最高。途中までは。

「おかしいでしょぉ!?」

 だん、握った拳で木目の美しいテーブルを叩いた。もちろん加減はしたつもりだ。
「まァまァ泉ちゃん、なんでも好きなの頼んでいいから。ここは俺っちの奢りっしょ♪」
「いや怪しすぎるから」
 二週間ほど日本に滞在することが決まって、最初のオフ。見計ったかのように連絡を寄越したのがどうしてかこの男だった。なんで? そこはHiMERUでしょ、俺そこそこあいつの世話してやったはずだよねぇ?
 そもそもの話、泉と燐音とはプライベートの連絡先を交換するほど親しい仲ではない。つまり何者かが泉のアカウントを横流ししたということになるのだが──考えずともわかる、犯人は十中八九あの男である。
「あ〜もう、HiMERUを呼びなよぉ! 挨拶に来るべきなのはあいつ! あんたはお呼びじゃない、帰ってくれる!?」
「きゃははひっでェ〜。いいじゃんいいじゃん、たまには燐音くんとお茶しようぜェ?」
 泉ちゃんの生活リズムに合わせて早起き頑張ったンだぜ俺っち。そんな殊勝な言葉を並べられても寄せた眉が更に寄るだけだ。頼んでない。というか不審すぎる。
 燐音が選んできた店はちょっと気持ち悪いくらい泉好みであったし、立地は日本での拠点からアクセス抜群、待ち合わせの時間までこちらの言いなりとあっては、裏があるだろうことに思い至らない方がおかしい。
 ……でもまあ、怪しんでるくせにきっちり約束守っちゃう俺も俺だよねぇ。正月早々人質に取られたとか言うかさくんのこと、とやかく言えないかもね。ふたりぶんの注文をし終えてそんなことを思う。
「オフにあんたといるとこを誰かに見られでもしたら俺の株が大暴落なの、わかんないかなぁ?」
「『Knights』の連中なら面白おかしくネタにしてくれるっしょ?」
「それがやなんだってば!」
 あんた絶対わかってて言ってるよねぇっ、チョ〜うざぁい! 流れるように吐く悪態にも向かいの男は顔色ひとつ変えない。こいつはあれだ、罵倒されることに慣れきってやがる。むしろいっそう笑みを深めた燐音に、何を言っても無駄だと悟る。暖簾に腕押し。奢り一回程度じゃ泉側にかかる心労とまるで釣り合わない。
「……で? なんなのぉ、俺に用って」
 泉は考えるのをやめた。早々に用事を済ませて帰ることにしたのだ。運ばれてきたアイスティーにストローを差し、何気なく相手の手元を見やる。燐音は意外なほど静かな動作でアメリカンコーヒーに口をつけていた。この暑いのにホットを注文する奴の気が知れないが、冷たいドリンクで身体を冷やすのも本当はあまりよろしくない。これだから夏は嫌いだ。特にじっとりと水気を含んだ日本の夏は。
「お礼」
「お礼?」
「うちのがいつもお世話ンなってます〜って」
「……ああ」
 からん。かき混ぜたグラスの中で氷が涼しげな音を立てた。なんだ、やっぱりあいつ絡みなんじゃん。
「それをわざわざ彼氏のあんたが言いに来たって? どういたしましてご丁寧にどうも、はいこれで満足?」
 HiMERUのことは、仕事仲間と呼んでやってもいい間柄だと思っている。得意分野が重なっていることもあり、同じ番組に呼ばれることもしばしば。クソ生意気だけど美意識やセンスはある程度評価しているし、『ユニット』の奴ら以外ならまあ、比較的話す方なんじゃない? と。
 だから泉は、HiMERUについては多少詳しいつもりなのだ。HiMERUと燐音がそういう関係だと、明言されなくとも言葉の端々から汲み取ってしまうくらいには。バレてるからねぇ、との意図を込めた泉の皮肉を受けた燐音は、くちびるの端をすこし持ち上げただけだった。食えない奴。
「それだけじゃねェよ。ちょ〜っとアドバイスもらえねェかなって」
「は? なんの?」
「あいつの誕生日」
「いよいよどうでもいいんだけどぉ」
 夏は嫌い、先程そう頭を過ぎったばかりだ。太陽のぎらぎらと照りつける七月、あのいまいち夏の似合わない男の誕生日は、もうすぐ。
「それならなるくんに聞いたら? 同室だったし俺よりあいつのこと知ってるんじゃないの」
「〝鳴上さんの連絡先を横流しするのはちょっと〟ってメルメルが渋った」
「あいつシバく」
 俺のならいいってことぉ!? 聞き捨てならないんだけど! 憤る泉を燐音はどこか微笑ましげに眺める。何笑ってんだ、ていうかその顔、なんだ。
「……」
 はたと口を噤んで見返すとつり目がちな碧い眼が大きく丸くなった。猫みたい。そのまましばらくじいっと見据えてみる。今日初めて燐音が居心地悪そうにしだした。泉はほんのすこしだけ溜飲を下げた。
「ちょ、なァに〜? 見すぎじゃねェ?」
「いや……天城先輩って、俺がHiMERUのこと雑に扱うと嬉しそうにするよねぇ」
「そォ? 俺っちそんな顔してた?」
「してた」
 指摘されて更にとろける目尻、泉の目線の先で大きな手のひらが口元を隠した。なんか、ああ、むかつくな。
「ん〜、嬉しい、の、かも。メルメルって外面ばっか良くてわかりづれェし、でも泉ちゃんはあいつのクソ生意気なとこも知ってて可愛がってくれてンだろ? 感謝してるンだぜェ、これでも」
「うっざ、べつに可愛がってなんかないから」
 元々ろくに知らないし興味もなかったこの先輩の、大事なひとに向けるやわらかなまなざし。珍しいものを見せてもらった、とはいえこんなもんじゃ到底アドバイス代には足りないけれど、すこしは真面目に話を聞いてやってもいいか。そう思い直した泉はようやく目の前のシーフードとパプリカのサラダに着手した。
「それで? 俺にアドバイスもらうからには何か考えてるんだよねぇ?」
「うん? まァ、ウン」
「自信は?」
「ねェからこのあと買い物付き合って♡」
「ハァ〜〜〜〜ったく……この貸しは高くつくからねぇ」
「オーケイオーケイ、倍にして返す」
「それ当てになんないやつじゃない?」
 事実。泉はHiMERUを可愛がっていたし、プロ同士仕事に真剣だからぶつかり合うことも珍しくないけれど、ゆえにこそ彼と臨む仕事が好きだった。こんなことは断じて言ってやらないが。
 それでちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、あの気位の高いHiMERUが隣を明け渡す相手とはどんな男なのかと、興味が湧いたのだ。
「……あんたらさぁ、付き合ってどのくらい?」
「あ〜……四年くらいだな」
「へぇ。毎年誕生日祝ってるんだ」
「おう。お互い忙しいし、年に一度くらいはなんとかしてェじゃん?」
 サラダをつつきながら、あの天城燐音と普通の友人同士みたいな会話をしている。変なかんじだ。向かいの男はオリーブの乗ったフォカッチャに齧りつくところだった。
「付き合いが長くなってくるとさぁ、だんだんプレゼントのネタ切れてくるよねぇ」
 皿の上に残してある最後の海老に狙いを定めた泉に燐音は、ん〜言いてェことはわかるけど、と苦笑してみせた。
「俺っちはそうは思わねェかなァ。あいつには、俺の持ってるモンならなんだって与えてやりてェもん」
 海老が落ちた。泉のフォークを逃れて、テーブルの下へと転がり落ちてゆく。目を見開いて哀れなその様を見守っていた泉は、だから聞き返し損ねた。
「……は?」
「つっても俺っちもアイドル屋さんだし? アイドルに捧げちまった魂の一部はもう、やれねェんだけどさ。それ以外ならなんだって、髪の毛一本だって血の一滴だってぜんぶ余さずあいつにあげる」
「……」
 泉は黙ったままテーブルの下の闇を見つめていた。そうせざるを得なかった。燐音が喋っているあいだ海老に集中していたからその表情を窺えてはいないのだけど、見ていなくて良かったとすら思った。だって重すぎる。
 果たしてそれは愛なのか? エゴなのか、執心なのか、それらすらも一緒くたに呑み込んだ何かバケモノじみたおぞましいものが、顔を上げたら対面に座っているんじゃないか。そんな馬鹿げたことを夢想した。
「あン? どしたァ泉ちゃん、海老逃げた?」
「……逃げた。あんたのせい」
「ぎゃはっ、なんでだよ」
 彼は至極穏やかに、いつも通りに食えない笑みを浮かべてそこにいた。皿が空っぽになってしまったから、仕方なく氷の溶けきったアイスティーを口に運ぶ。味などほとんどしなかった。
「HiMERUは、……」
「ん?」
「なんでもない。買い物、どこ行く気?」
 薄い紅茶と共に飲み下したのは心からの憂慮。〝HiMERUは可哀想だよねぇ、どうしようもない男に捕まっちゃってさぁ〟。今言ったら洒落にならない気がした。



 七月七日。あまり気乗りしないけれど、おめでとうのメッセージくらいは送ってやるとしよう。店の窓から差し込む強すぎる陽光が白い板張りの床に落とす、黒々とした濃い影に何気なく目を留め、思う。泉もあのクソ生意気な後輩が可愛いのだ。





(2024年HiMERUバースデー)

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