雑煮とおせち
「雑煮出来たで~。」という草原兄さんの声が辺りに鳴り響くと、その場にいた全員の顔がにわかにしゃっきりした。
吉田家の食事をするちゃぶ台が置かれている畳の間は、いざとなったら冠婚葬祭が執り行える広さで、徒然亭草若門下の弟子全員の力を合わせて間の障子を取り払ってしまい、普段置かれている棚や電話を置く台などを全て稽古場に移動させることによって、普段にはない空間を作り出していた。
家具がなければここまで広いかという座敷にはあちこちの隅に埃が溜まっていたので、一から大掃除のやり直しとばかりに、その埃を掃き清めて雑巾がけをし、普段押し入れにしまってある座布団を総動員させるなどしているうちに、気が付いたら日が暮れてしまっていた。
どこに置いてあったのか、師匠の前の代までは使っていた祝いの膳のための小さなお膳台も出してしまったので、後はこのちゃぶ台も仕舞って当日を迎えるのみとなっている。
「この部屋、こんなに広かったんか。」
「そうですね。」と三角巾を取っていつものふてぶてしい顔に戻ってしまった四草が感慨深い声を出した。
「ていうか、今日ここまでせなならんかったんですか、師匠。」
「まあ、明日は明日でやることが出てくるやろ。そういえば、菊江はん、年始は一日からどっか旅行に行くて言ってたな、小草若、お前連絡しとき。」と師匠から返事が返って来た。
「オレも固定電話しか知らんから、明日番号を磯村屋さんに聞いてみますわ。」というと、四草があの、と手を挙げた。
「一応磯村屋さんには、今電話した方がええんとちゃいますか。あの人、草々兄さんの復帰公演の段取りしてくれはったんでしょう。」
それを聞いた若狭が、隣で(さすが四草兄さん!)と言わんばかりの顔をしている。
「喜代美ちゃん、それ気ぃついてへんかったんか。」
「まあ誰呼ぶかとか言う話になるとなあ、若狭の方の親族と数合わせなならんからな。」と師匠が頷く。
「草々兄さんの方の親族、誰もおらんから、ここにいる僕ら全員が出席するとしても、多少は頭数増やしてもええでしょう。」
って四草、お前底抜けにストレート過ぎんで。
このタイミングではオレでも流石によう言わんぞ。
「それもそうか。」
ってオヤジ……、そこ突っ込まんのかい……。
まあ、四草も係累たらい回しにされた草々ほどやないけど、家族には縁ない人生送って来たみたいやからな。
「僕が電話掛けといてもいいですけど、皆めでたい報告は若狭と草々兄さんの口から直接聴きたいんとちゃいますか。」と四草の気を回してんのかサボりたいんか、その両方なんかも分からんような発言に「そうやな、四草、ありがとうさん。」と草々も素直に礼を言っている。
「……どうしなったんですか、小草若兄さん。」
「いや、素直な草々て気色悪いなと思て。」
「おい、小草若ぅ!」
「お前らやめえ! 雑煮の餅固なってもええんか! 小草若、お前ぼさっとしてんとさっさと運びに来い。」と草原兄さんに叱られてしまった。
「はーい。」
「おい草々、お前のせいで正月早々草原兄さんに叱られたやないか。」と草々を肘で小突くと「ほとんどお前のせいやろが。」と小突き返された。
「小草若兄さん、私も手伝います。」と喜代美ちゃんがすっと立ち上がる。
「ええねんて、喜代美ちゃん、主役は座っとき。」
「いえ、ほんとは手持ち無沙汰が怖くて。考えることたくさんあるはずやのに、今は何も思い浮かばんのです。」
やっぱりウェディングドレス着たかった、とここに戻って来る電車の中で泣きじゃくってたらしい喜代美ちゃんの目はちょっと腫れぼったくなってる。
「それは……ちょっと分かるわ。」
草原兄さんの雑煮の味はすまし汁がベースで、口を付けるとおかんの味がした。
丸い麩と小さくて薄い蒲鉾。ご近所から分けて貰って来た三つ葉が浮いている。
オヤジに金がなかった時代に完成したおかんの雑煮には、ほとんど具が入っていない。
「そうやったそうやった。」
この味や、と師匠が目を見開いている。
「草原兄さん、うちの雑煮の味覚えてはったんですか。」と尋ねると、それがなあ、と返事が返って来た。
「結婚する前におかみさんに教えて貰ったんや。この先はオレのうちの雑煮は緑が作るんやろうな、と思ったけど、元旦の後で残った餅食いたなったとき、オレはピザ風とかそういう今風のアレンジの食べ方はあんま好かんからな。いくら稼ぎの少ない落語家と言うたかて、正月の餅くらい、自分が好きな風に食べたいやないか。」
「草原兄さん、ほんまに美味いです。」と草々も感激した顔をしている。
「おかみさんの味かあ……草原兄さん、私にも後で作り方、教えてください。」
「ええでええで。」と正月早々褒められた草原兄さんは、まんざらでもない顔で鷹揚に頷いている。
「直ぐにこんな風に作れんかもしれんけど。」と言う喜代美ちゃんの横で草々がぎょっとした顔をした。
(おい草々、お前、今ちょっと結婚早まったかもて思ったやろ。)
(んなわけあるか!)
強がりもいい加減にせえという顔をしているうちに、目の前のおせちが、オレの隣に座っている遠慮のない四草の腹の中に消えていくのが見えたので、草々への反論を止めて口を動かすことにした。
雑煮をすっかり食べてしまった後は、喜代美ちゃんがひとり大掃除の前から作っていた、数の子抜き、ほとんど芋で作られたきんとん入りの、懐かしいお重に入った三人分のおせちに、今はめいめいが箸を付けている。
三日分と考えて量を作っていただろうに、今日一日ですっかりのうなってしまいそうや。
そんな中、師匠は何か考えている顔つきだった。
「師匠、明日またオレ、緑の作った分ちょっと家から持って来ますわ。」
「……うん、悪いな、草原、いつも。」とオヤジが顔を上げる。
オレが知らんかっただけで、去年も一昨年も兄さんがオヤジのとこへ持って来てもらってたのか。すんません、兄さん。
「師匠、おせち食べへんのですか。」
今年の若狭のおせちの出来も悪かったんか、と草々も気をもんでいるようだが、オヤジはその草々の様子には気づかずに「ん、ああ。」と言葉を濁している。
「若狭、あんな。」
「はい、何ですか、師匠。」
人参に箸を付けて「やっぱりしょっぱい……。」とくよくよしている入門四年目になったばかりの喜代美ちゃんが顔を上げる。
「お前、三日の晴れ着どうするつもりや?」
「明日、うちにあるのを持っておかあちゃんが一日先にこっち来て、って段取りになってます。皆と一緒に三日の朝一番やと、そこから着付けしてたら間に合わんかもしれんし。」
「そら、難儀やな。」と腕を組む。
「貸衣装屋さんもブライダルサロンも、明日はまだ開いてませんから。ホテルならありそうやけど、そこで式上げるわけでもないのに使わせてもらうわけには。」
「それなら、うちにある白無垢着て出てくれるか?」
「ええ!?」と喜代美ちゃんは飛び上がった。四草も目を剥いている。
「いや、あんたも知ってると思うけど、志保の着た白無垢がそこに取ってあるねん。背丈がちゃうけど、着付けでどうとでもなるやろ。」
「ええんですか、師匠!」と草々が近所に響くほどのデカい声を出したので「ええてええて。」と師匠は手を振った。
「それなら小浜のお母ちゃんも慌てて明日出てこんでも済むやろ。毎日のぬか床の面倒見る必要もあるやろうしな。」
「良かったな、若狭。」
「はいい。」と見つめ合っている夫婦になりたてのふたりを見て、師匠はやっと、若狭の作った芋と人参の煮物に手を付けた。
「今年の煮物も、しょっぱいなあ。若狭、お前、ちゃんと味見て作ったんか。」
「はいぃ……。」
喜代美ちゃんは穴があったら入りたいという顔になっている。
「毎年上達せんなぁ。あんたが美味い煮物作るの待ってたら、草々の頭も白髪かごま塩頭になってまうかもしれんな。」
「師匠……。」
さっきまで笑っていた喜代美ちゃんと草々がふたりしてしょげている。
「……ま、おせちは日持ちさせるために作るもんやから、正月はこれでええか。」と言って、師匠は本当に楽しそうに笑っている。
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