男子高校生の日常 その9



雨が降った次の日はいつも風が冷たい。
十月の夕暮れ。
徹郎の家からほど近い商店がいくつか軒を連ねる通りのひとつに肉屋があり、空腹に耐えかねた徹郎がちょっと寄り道してコロッケパンを買ってくか、と言った。
人の家の畑の間にある狭い石段、小さな墓地の並ぶ坂道、どこかから金木犀の香りのする住宅地。いつもの徹郎の家に続く道とは違う、まるで猫の散歩道のような狭い路地をふたりで歩いて行くと、やっとのことでいくつかの店の並ぶ通りに出た。目当ての店は、テレビで良く見かける都会の商店街や市場の店とは違い、正面に扉がある普通の店構えの肉屋だった。譲介が徹郎の後ろをついていくと、狭い店にはガラスのショーケースと冷蔵庫に調味料を並べる棚が所狭しと並んでいるだけで、店員は誰もいない。壁には牛の部位を書いた色褪せたポスターと揚げ物のメニューを書いた大きな短冊が貼られている。
賞味期限が近いのでご自由にお持ちください、と書かれた箱の中には塩コショウが置いてある。
ガラスケースの前に立った徹郎が、奥に向かって「おっちゃんいる?」と声を掛けると、奥から白い服を着た背の低い中年男がのそりと現れた。
「真田のうちの次男坊か、見ないうちに背ェ高くなったの。」
男は徹郎に向けてニヤッと笑いかけると、「こないだ来たばっかだろ。もうボケたのか?」と徹郎も気安い口調で笑っている。
「おっちゃんが今日の晩御飯当ててやろうか。」
「いい、どうせカレーだ。」
(オフクロが先に来てたっぽいな。)と徹郎が譲介に耳打ちをする。
「牛コマ買ってったから、肉じゃがだろう。」と肉屋の店主。
「じゃ、牛カレーだ。このところ、金曜はずっとカレーなんだよ。」
決まりだ、と譲介を見て徹郎は笑った。
「あ、オレは今日コロッケパンふたつね。」
「隣の兄ちゃん、新顔だな。この辺の子じゃなかろう。」
「高校のダチ。譲介。」
あさひ学園のある駅名を徹郎が言うと、肉屋の男はこちらを見た。
「和久井です。」と名乗って小さく頭を下げると、男は目をすがめて「おっちゃんのいとこの子がその辺りに住んどるわ。今から揚げるから、ふたりでそこに掛けて待っとれ。」と譲介に向かって言った。
焼肉のたれと鍋用の出汁パックが並んでいる棚の前に背もたれのない丸椅子が三つ置いてあり、譲介と徹郎は鞄を置いて待った。
「コロッケパン用のパン。」と徹郎が指を差す方を見ると、冷蔵庫の上にある総菜が置いてある一角に、きつね色のパンが山盛りになっていた。
「近くのパン屋のやつ。あっちでも売ってるけど、コロッケは揚げたての方が旨い。」
ソースはかけ放題、と徹郎が付け加える。
パンまで売っているから、こうして炭水化物に揚げ物を挟んだ最強の間食が出来上がるわけか。
店内を見回すのにも飽きて隣の馬鹿面でも見るか、と思って顔を向けると、徹郎の前髪が妙に目にかかっているのが気になった。
夏が終わってからというもの、徹郎は床屋に行ってない様子で前髪も襟足も伸び放題になっている。テストが終わったら切りに行くつもりかと思っていたら、そうではないらしい。そのうちリーゼントにでもするつもりだろうか。
元から成績が優秀だったが、譲介にいくつかの科目を教え始めてからというもの、最近は二十番台から更に上位になっているので、教師も遠巻きにして何も言わないでいる。
「コレ、伸ばしてるのか?」と譲介は徹郎の前髪を引っ張る。
「あー、なんとなく。」と言って徹郎はパッとこちらから顔を逸らした。妙に反応が早いなと思ったら「お前が切れっつうなら切るけど?」と振り返った徹郎がちらりとこちらを見た。その様子が飼い主の様子を伺う犬のようで、譲介は、ふ、と笑ってしまった。
もっと年上に見られたいとか舐められたくないとか、何か理由があって伸ばしているのだろうに、こんな風では全然格好が付かない。
「僕は別にどっちでも。第一、こういうのはお前が決めることだし、まあそのうち見慣れるだろ。」
高校時代と言うのは、何もかもが雁字搦めだ。
髪の長さくらい好きにさせろという徹郎の気持ちは分からないでもない。
短い方が徹郎らしい、とは思うけれど、譲介はそれを口にするつもりはなかった。
譲介も、徹郎と出会ったこの春から変わってしまったからだ。
これまでの暮らしと地続きの、面白くはないことばかりの人生を歩むと思っていた。
「そういえば、春か、お前とここ来るかっつってたの?」と徹郎はポケットをごそごそと探りながら言った。
考えていたことを見透かされたようで、譲介は言葉に詰まる。
指先で器用に単語帳を回しながら「あっという間だったよなあ。」とページを捲る徹郎に、そうだな、と譲介は相槌を打つ。


夏の終わりに、徹郎と海へ行った。
譲介が母親に捨てられた場所に似た無人駅で下りた。
まだ夏だと思わせる日差しが照り付ける中、空には季節の終わりを思わせる鱗雲が浮かんでいた。
広い砂浜の前、徹郎は、生き別れた母親を思わせる自然な手つきで譲介の手を引いて、波打ち際へと歩いて行った。
そうして、海を目の前にした譲介の前で、自分の役目は終わったとばかりに、手を離した。
その時に感じた既視感を、どう表せばいいのか。
目に焼き付いた晩秋の風景。
よそ行きの服を着て首にスカーフを巻いていた若い母。
あの日、母さんの手を繋いだまま離さないでいたら。
もう忘れてしまいたいと思っていた大きな後悔が、波の音と共に譲介の気持ちを攫って、そして砕けた。
他人の前でなど泣くものか、と思ったが、目の端には勝手に涙が浮かんでくる。
譲介の変調に気付いた徹郎が、なぜか譲介より先に涙をあふれさせて、泣き顔を隠すためにか、身体にしがみついてきた。
こちらを抱き寄せて慰めようと思わせるような手つきであれば、きっと突き飛ばしていただろう。
徹郎は、譲介の肩口に顔を埋めて声も出さずに泣いていた。
雨でもないのにTシャツの肩が湿っていくので、仕方なく肩を叩いてやるうちに、譲介の涙はどこかへ引っ込んでいった。
短いハグを終えて身体を離し、並んで波の音や海鳥の鳴き声を聞きながら、いつものようにくだらない話をしていると、気持ちは凪いだ。
徹郎は、膝と一緒に寂寥を抱え込んだ譲介の隣で、こちらが落ち着くのを待っていたようだった。
それは、譲介が経験した今までの人生では、かつてないことだった。帰り際にカレーを食べて、くだらない話をしながら帰った。
海に行ってから、自分を捨てた母親のことを、譲介はあまり考えなくなった。
今まで、朧だった母親との記憶にしがみつくなんて弱い人間のすることだ、と努めて思い出すまいとしていたけれど、毎日のように心にささくれを残す出来事があって、そうすることは難しかった。辛い出来事のあった夜は、慰めを求めて心の底に仕舞った記憶から数少ない思い出を取り出したこともあった。絵本の読み聞かせ。共に囲んだ夕食。
夏が終わり、新学期が始まった。
あの日を忘れたような顔をしている徹郎と共に時間を過ごし、毎週のように椅子を並べて暖かいカレーを食べていると、これまでの古い記憶はどんどんと後ろへと遠ざかっていくのが分かる。
安閑とぬるま湯に浸かったような生活を送っている自覚はあった。いつかこれまでにして来たことのしっぺ返しを食らうぞと問いかける声は聞こえて来るけれど、譲介は、それまではしたいことをしていようと思った。


学ランを襟元まで留めた徹郎と並んで、揚げたてのコロッケを挟んだパンを食べる。
冷たい風に吹かれているせいか、、カレー味でもないのに、妙に旨く感じられた。
用水路の傍の道を並んで歩くと、まだコロッケパンを咀嚼している徹郎が用水路を指さして「ふぉふぉで昔、ふぁぃがにふっへた。」と言った。
「……は?」
食べながら話すな、とは思うが、ふたり並んで食べ歩きという行儀の悪い行為をやらかしている自覚はあるので「まず食って、それから話せ。」と言うに留める。
桜の並木の傍にある何の変哲もない用水路は、譲介の暮らすあさひ学園の近くにもある。どこも似たような田舎道だ。
「ここで昔、兄貴とザリガニ釣ってた。」と徹郎は言った。
「ザリガニ?」
「コンクリで固める前は雑草が茂ってるただの水路だったからな。棒の先にタコ糸を垂らして、家にあるソーセージとか煮干しとか糸の先に付けて水の中に入れて、待つんだよ。暫くすると引きが来る。」
そういえば、先月アルバムを見た時に、歯の欠けた子どもだった徹郎がザリガニを持って笑っている写真を見た気がする。
徹郎のアルバムには、三歳上の兄と並んで映っている写真が多かった。
徹郎の百倍は賢く、同じくらい神経質そうな顔つきをしていたが、弟がじゃれついているときには笑っている顔も多かった。
姿はともかく似たところのなさそうな兄弟で、どちらかというと譲介の方が似ているのかもしれなかった。
徹郎が年を重ねる様子は、桜を背景にして撮った徹郎の中学の入学式の写真がほとんど最後だった。
真田家で多く写真が多く撮られていたのはその時期までだったらしく、高校の入学写真はなかった。
「焼いて食うのか?」と疑問を口にすると、徹郎は笑って「なわけねぇだろ、」と笑って、コロッケパンを包んでいた紙を畳んでポケットに入れてから、平たくした鞄で譲介の背中を叩いた。
「ただ釣って、青いバケツに入れるだけ。釣ってる間に逃げてくし。」
「それって、面白いのか?」
「オレがうるさいガキだったから、兄貴も持て余してたんだろ。ザリガニ釣るときは静かだから。」
譲介は、いつまでもしゃべり続ける幼い頃の徹郎が、小さな竿に見立てた棒切れを持って小川の縁に座っているところを思い浮かべる。
――徹郎さんも、昔は兄さん兄さんってね、武志さんにべったりで、そりゃあ可愛かったのよ。
自分の子どもをさん付けして、昔の思い出を話す徹郎の母親の優しい声。
こんな風に育つ前の、青と緑の縞模様のTシャツを着た、小さな子どもの丸い背中の写真。
「こうしてコロッケパンが食べられてるのは、その頃のうるさいお前を川に突き落とさなかった兄貴のおかげか。」
感謝しなきゃならないな、と皮肉交じりに譲介が言うと「……オヤジもおふくろも兄貴も、みんな、オレがガキの頃のが優しかった。」と徹郎は妙に拗ねたような声で言った。
いきなりそんなことを言い出した徹郎に、譲介は笑いそうになった。
誰にでも悩みはあるものだ。
譲介にすれば、圧倒的に恵まれている環境にいる徹郎にも。
お前は家族に欠落のない家に生まれたのに、と思うが、悩みの大小というのは、環境とは関係がないものだ。
「家族に優しくされたいのか?」と譲介が含みを持たせて聞くと、別に、という返事が返って来る。
本格的に拗ねてしまったようだ。
「お前は、僕に優しくしてればいいんだよ。」
「は?」
「この年にもなって、シルバーシートに座りたがる爺さんみたいに人に優しくしてもらおうなんて考えるな、ってこと。」と言ってにやっと笑うと、譲介は自分の鞄で、徹郎の背中を叩き返した。
バン、と冗談みたいな音がして、そういえば今日は和英辞典を入れていたのだった、と思い出した。
「譲介~~~~~~! お前なあ、ちょっとは手加減しろ!」と徹郎が耳を引っ張る。譲介は腹を肘で突いた。
場外乱闘のゴングの気配がしたところで、徹郎の家が見えて来た。
「続きは後だ、」と譲介が小声で言うと、並んで歩いている徹郎は足を止めて、腹立ち紛れにか顔を赤くしている。
一足先に入って門扉を開けるのは、いつも徹郎の役目なのに。
「おい、早く来い。」と譲介が言うと、徹郎は舌打ちをして、後で後悔するなよ、と言った。
後悔、ね。
きっと、愛の鞭だと言いながら難易度の高い問題を出してくるに違いない。
怖い怖い、とからかうように言いながら、譲介は徹郎の顔を見上げて口角を上げた。

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