千年先も
カリカリと紙に何かを書き付けては、本のページを捲る。石像のように動かなくなり、暫くしてまたカリカリとペンを走らせてはページを捲ったり、何ページか戻ったり。
スンッとたまに鼻を掠めるのはインクの匂いだ。羊皮紙に羽根ペン、そして瓶に入ったインク。随分と古臭いモノの書き方をするものだと思った。鉛筆だとか、インクが予め充填されているペンだとか、世の中には随分と便利な物が溢れているというのに、このハートの船長様はたまにそうした、何百年と前に用いられたような道具を使ってなにやら書き写すのだ。
「面倒じゃねぇのか」
そう聞けば。男は笑って言った。
「味わいがあるだろう?」
効率重視の作戦だとか、無駄を省く事を好む男が、全く真逆の回答をしたもので驚いた。しかし、そう言えばとも思うのだ。この男は我が船に乗る考古学者と同じくどこか古臭いものを好むところがあった。歴史を語る古いコインだとか、その歴史そのものであるとか。
「知っているか、ゾロ屋」
「んん?」
「羊皮紙は適切に保存すると、千年以上綺麗なまま保っていられるんだ」
今普及している紙は容易に作られるし、安価だが、その分劣化しやすいのだと、男は語る。
「文字も読めなくなるし、ボロボロと崩れる。だが羊皮紙は長く保ち、文字も鮮明に残してくれる」
「へぇ?」
「馴染み深いものでいえば、宝の地図」
「お、なんかわかったかもしれねぇ」
「ふふ」
宝の地図。なるほど。海を渡るから多少の劣化は訪れるようだが、確かに数百年は前のものであろうと思われる羊皮紙に描かれた地図だってちゃんと読める。いや、読み方なんぞ分からんが、見れないということはない。
「長く長く残してくれるなんて、ロマンがあるだろう?」
「ぶはっ!お前がロマンとか、似合わねぇ」
「言ってろ。海賊だぞ?ロマンくらい語る」
ふんっと、不機嫌になったらしい男は、そしてまたなにやら書き連ねていく。
それは医学に関するものだろうか、この世の歴史に関するものだろうか。それとも航海日誌のようなものであるのだろうか。とにもかくにも時折その男は羊皮紙と羽根ペン、インクを持ち出してはつらつらと何かを書いていた。
その書き仕事をしている後ろ姿を眺めているのは、いい暇つぶしであった。
帽子を脱いだ男の後ろ姿。頭が悩むように傾いだり、なにか苛立ちを覚えているのか貧乏揺すりをしたり、ご機嫌な時はスルスルと手が動いて、その度に背中も僅かに揺れる。深く考える時は腕を組んでしばらく動かなくなって、と思ったら勢いよく書き始める。途中、インクが切れると舌打ちなんかしていて、いらちな癖に面倒な手法を取るからだと呆れてしまう。だが、見ていて飽きない。
いつしかインクの匂いが男の匂いのように感じられるようななり、男の手が、おれの顔に触れる時、そのインクの匂いがする時は少しばかり安心するようになっていた。この男の生活の一部を、感じられるものの一つだからかもしれない。
そのインクの匂いを感じ取り続けていると、違いがあるのだと、ある時気付いた。それを指摘すると驚いた顔をした後、嬉しそうに笑ったのを覚えている。
インクはあらゆる物から作られるらしい、イカの墨やら、貝から取りだしたもの、土からなんてのもあり、その為に匂いが違うし、色合いもまた違うのだという。用途で分けていると言っていて、そこはこの男らしいなと思った。
用途で分けているのであれば、きっと医学的なもの、歴史のメモ、考察、あとはもっと個人的なもの。そういうもので分けているのだろう。
几帳面だ。だがひとつ、男の事を知れたと、密かに気持ちを踊らせた。そんな些細な事にさえ、おれは喜んだのだ。
おれとこの男の時間が重なる瞬間は、短い。羊皮紙が千年持つのならば、自分達はその中のたった数年とも無いだろう。
そんな事を思ったからだろうか、思いついたそれは、おれらしくない考えだった。
「なぁ、おれもなんか書いていいか」
「あ?興味があるのか」
「ちょっとな」
「ふぅん?いいぞ、用意してやるが、何を書くんだ」
「……日記?」
「本当に、らしくねぇな」
でも男はおれの為に数枚の羊皮紙と、ペンと、インクを譲ってくれた。よく使い方が分からない為に、最初は簡単な言葉の羅列を教えて貰いながら試し書きして、慣れた頃にひとりでぽろりぽろりと言葉をこぼす様に羊皮紙へと文字を書き込んだ。面倒だなんておれ自身が言っていたというのに、いつ間にかその面倒さも、おれは慣れて、寧ろ心地よい気持ちにさせてくれた。男の行為をなぞるかの様で面白かった。
羊皮紙も、ペンも、インクも、きっと高価なものだろう。だというとのおれは、贅沢にもまるで子供の落書きのようにちょっとした言葉を、一日に数回、数文字だけ残した。日記、なんていうのはその時、口に出しただけのものであったが、一枚の羊皮紙が文字でいっぱいになる頃に読み返してみれば、日記というのは言い得て妙だと思った。
おれはそれをずっと続けた。何かを残すなんぞ、未練がましいと、不意に我に返ってしまうけれど、辞める事はしなかった。書こうと思ったのだから、それならば、書き続けてやろうと思ったのだ。
ぽろり、ぽろりと、言葉をインクに乗せて、羊皮紙へと運ぶ。それだけの事。インクの香りを鼻で感じる度に、男を想った。
その内、男とはなかなか会えなくなって、とうとう、永遠に会えなくなってしまう瞬間が訪れて、それでもおれはずっと書き続けた。書こうと想ったから、書き続けた。
ちゃんと保存すれば千年、綺麗なまま残るんだそうだ。千年後なんて、正直自分には関係の無い途方もなく先の未来の話だけれど、まぁ、残してみようじゃないか。
どうせ誰も読みはしないだろう。ちゃんとした保存だって出来やしないし、読めるような綺麗な字でもない。残ったとしても、きっとまともに読めやしない。男の几帳面な文字が、懐かしく恋しかった。
最後に書いたのはなんだっただろう。
朦朧とする意識の中で、今際の際で、それどころじゃないってのにそんな事を思った。最後だと、馬鹿げているな。でもきっと最後になってしまった。
さて、なんて書き残しただろう。バラバラと崩れる意識の中で思い出そうとしたけれど、結局おれは思い出す事が出来ないまま。
出来ないままに、おれはおれの生涯に幕を閉じた。
それは雑に束ねられた一冊の本だ。冊子と言った方が良いかもしれない。
遥か昔、千年も前に存在したある男の詩集だった。詩集と言うには日常的すぎる内容だが、日記と称するには散文すぎる。まとまりがなく、ただ言葉を載せただけのようなそれは歴史的に見ても価値が無く、保存状態もあまり良くなかったのか所々文字がボケていたり、羊皮紙が破れていたりする。
だがおれはそれがどうにも気になって、安価で譲り受けた。
詩集と言うには日常的すぎて、日記と称するには散文すぎる。だがおれは敢えて詩集と呼んでいた。
内容は書き手である男の、日常を呟いたものと、それから、その時代では珍しく、同性の、男相手への恋慕を綴ったものだった。もしかしたら、この書き手の男は恋慕なんて思いで書いていないのかもしれないが、おれにはそう見えた。
ああ、であればこれは詩集ではなく、渡されることのなかった恋文とでも言えば良いのかもしれない。
古い時代の文字で、歴史家の友人に文字を習っていなければ読めなかったそれを、おれは就寝前に読むのが日課だった。あまりに何度もページを巡るのは紙に良くないのだが、おれは読まずにはいられなかった。取り憑かれていると、誰かが心配して言ってくれたことがある。言い得て妙だと思った。確かにおれは取り憑かれているのかもしれない。この恋文を書いた、男に。
ある時は書き手は相手の男を酷く罵っていた。顔色の悪さを誹り、言う事を聞かぬと憤慨している様子であった。
かと思えば男の手を褒めるような事を書いている事もあった。細やかな動きをする指先に目を向けては男の器用さを誉めそやしていた。
小言が多いだの、しみったれているだの、頭が固いだの、罵る言葉も多い。さて恋文とは、と思われるかもしれないが、紛うことなきそれは恋文であった。
遠く離れると思い出す匂いがあるという。海の香りにたまに混じる匂いが男を思い出させると。
道行く他人の後ろ姿に、その男の影を見つけては、違う者であると思い直し落胆することもある。
噂話を聞けば息災かと嬉しく思い、良くない話を聞けば胸が傷んだ。
言葉には出せぬけれども、言葉を尽くすには中々に難儀な性格をしている己だけれども、それでも間違いなくこの気持ちは預けてある。と。
この書き手の男は、恐らく先にその想い人を亡くしているのだろう。会えぬ会えぬ、もう二度と。冊子が終わりに近づくにつれて、沈痛な想いが溢れているのがわかった。
日常の中に、落とされる想いをのせた言葉の数々。何度も読み返し、その男へと知らず知らず想いを馳せる。
そして最後は、恐らくはこれで終いにするつもりは無かったらしい言葉で終わっていた。
いつかお前の生まれた海に行こうと思う。らしくないなどといつかの時のように思われてもおかしくないが、そう思った。
そこで暮らしてみるのも悪くは無い。寒いらしいが、なに、おれは平気だ。
お前の痕跡を見つけてみたい。交わる時の短さが、そう思わせるんだ。
「……誰なんだ、お前」
ただの冊子に、名前なんぞ無い。
古ぼけて、保存状態が悪く、たまに読めない文字が歯痒い。気になって仕方ないが、知る術は無い。
何某がの、何某がへ宛てた恋文を、覗き見るのは多少の良心が痛むが、気になって仕方ない。おれができる唯一は、他のものにこれを渡さぬ事だ。
これはきっと、この男と、相手だけが知るべきもので、おれはそれをひっそりと抱え込むしか無かった。
おれが住むこの国は、年中通して寒い。
冊子を大切にしまいこんでベッドの中へと潜り込む。
お前本当に平気か、本当に寒いんだぞ、薄着でなんて居られないからな。
頭の中でボヤいて、その言葉のおかしさに笑う。まるでおれが書き手の想い人にでもなったつもりか。でも、不自然な程に自然に、そんな気持ちが沸いた。
まぁ、寒がったら、笑ってやろうか。それから、暖かくしてやろう。部屋の中を過ごしやすくしてやろう。それから、それから。
すとんと、眠りに落ちる。
夢の中で誰かが笑って頷いてくれた気がした。
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