年越し
いそいそなんかしとらん、と言う喜代美ちゃんの顔は、オレが見たことのない顔だった。
――きっと草々のことを忘れられんままでオレんところに来るんやろな。
――そもそも、オヤジに入門した時も、あれだけ諦めの悪い喜代美ちゃんのこっちゃ、どんだけ崖っぷちにおるとしても、二番手でもなさそうなオレの手ぇを取ることなんか、あるんやろか。
そこまで分かっていたくせに、あの大掃除の日に、この先もし一緒に暮らしたら、万に一つ、オレを選んでくれる目もあるんやないか、と淡い希望を抱いてしまった。
草々のアホ、ドアホ、お前がさっさと告白しとけば、こんなややこしいことにはならんかったんじゃ。
心の中でどれだけ草々を責めても、内弟子修行中は恋愛禁止という表向きの話を鵜吞みにするようなあいつの性分では、どうにもならないことも分かっていた。
考えなしの草々は、オレを鼓舞するために良かれと思ってか、いつもいつも、軽々しく「若狭ごときに。」と口にするが、最後に入門して来たあの子が『徒然亭草若』の弟子として、あのちゃらんぽらんなオヤジの下でどれだけ頑張って来たか、あいつも本当は分かってたっちゅうこっちゃ。
あの子の辛いことは、オレのとこに来ることではなくて、草々の部屋の隣のあの内弟子部屋を出ることを言ってる、と。
心の中ではちゃんと納得しているけど、やっぱり、胸にグサッと来るな。
草々だけがアホなんとちゃう、アホなのは、オレも同じや。
好きな女の子の誕生日にフラれ、この下り坂の人気が戻ることもない。
来年にはきっと、あのマンションは売りに出すことにもなるだろう。
だから、奢りますよ、と四草が言った時、オレに断るという選択肢はなかった。
マンションにひとりで戻って、オレの一生はずっとこんなもんか、と布団を被ったところで、心の中に、こんなぐちゃぐちゃしたもんを抱えて寝ることは出来そうにない。
それでも、草々が破門になる前のように、みっともなく酔い潰れることは、今日はしたくなかった。
ふられてたオレは惨めだけれど、相手が草々ならしゃあない、と心のどこかで認めている自分もいる。草々のヤツがどれだけアホでも、あいつはオヤジにとっても、オレにとっても、それから、喜代美ちゃんにとっても大事なやっちゃ。
オレは今、底抜けに瀕死の小草若ちゃんや。
「おい、なんか美味いもん食わしてくれ。」
鯛のおつくりとかでもええで、と弟弟子の背中にからかうように声を投げると、四草は振り返って「僕が奢るの、きつねうどんだけですよ?」と眉を顰めた。
「そうやった、そうやった。」と言いながら、オレは口笛を吹く。
落語家なんかに、ならんかったらよかった、か。
「おい、四草、お前、家帰ってあの烏に餌やらんでええんか。」
「九官鳥です。……あれはただ寝床を出て行く口実ですよ。僕は朝までに戻れればいいです。」
「そうか。」
遠くから、パン、パパン、と音がする。
「爆竹か?」
「今、年越したみたいですね。あけましておめでとうございます。」
「おめでとうさん。」と言うと、四草は「寒いから、はよ店に入りましょう。」と言って歩く速度を上げた。
ここが一番入りやすいんで、と言って四草が選んだのは、駅前にある二十四時間営業の立ち食いそばの店だった。
表できつねうどんの食券を二枚買って暖簾をくぐると、中にはほとんど人がおらず、つまらなそうな顔をしたフリーターらしき男が麺を茹でていた。
テレビはもう、ゆく年くる年も終わってしまっていて、新年あけましておめでとうございます、という言葉が聞こえてくる。
きつねうどんふたつ、と食券を差し出すと、「きつねうどん、ふた~つ。」とやる気のなさそうな声が注文を復唱する。
セルフサービスの水は、コップに注ぐと果てしなく冷たい。
まんじゅうこわいでもないけど、普通の蕎麦屋に行ったら出てくる温い茶が恋しくなってくる。
「おい、四草。もっと他に店知らんのかい。」
「あるわけないでしょう、こんな時間に。ほとんどの蕎麦屋、店閉めてますよ。」と四草は言う。
まあ、年は越してしまってるわな。
「小草若兄さん、奢られる立場の癖に態度でかいですよ。」
「兄弟子やからな。」
「知ってます。」
澄ました顔の弟は、立ち食いそば屋でぼんやり立っていても男前だった。
女が切れないと自慢してた割に、今年はこないして除夜の鐘も聞かずにオレに付き合うとるということは、ま~あ、クリスマスの一門会という日取りが祟って、直前に相手にフラれたか何かしたんやろうね。
ご愁傷様なこっちゃ。
「――何か言いました?」
「なんでもない。」
隙間風がどれだけ入ってこようと、立ち食いそば屋の店内は、流石に外よりは暖かい。
ぼんやりしているうちに、あつあつのうどんがやってきた。
湯気が立っていて、今夜の最後の客にサービスと言わんばかりに葱が盛られている。
「おい、四草、ここのうどん、ちょっと出汁黒ぉないか?」
「照明のせいでしょう。この席で見るとふつうですよ。」
そうかあ、と言いながら箸でうどんをたぐる。
安いうどんや。
そんでも、今日はどんなうどんでも、有り難いような気がした。
あつあつのうどんを啜っていると、横で出汁の染みた甘い味のお揚げを齧っていた四草が、ふと思いついたようにして、そういえば、と言った。
「一門会の日に、若狭が年季明けたらって話が出た時のこと、覚えてますか。」
「あれから一週間も経たへんやないか。」
そのくらい覚えとるわい、と言うと、四草はふ、と口元を緩めて、「小草若兄さん、年季明けはどうやって乗り切ってたんですか。」と言った。
「あの日ぃに、草原兄さんが話しとったやないか。お前、ちゃんと聞いてたんか?」
「そやから僕は、あの時は悲惨やった、って印象しか聞いてないですし。」
「いや、ホンマには乗り切れてへんかったから、悲惨や、て言う話になったんやろが。仕事がない、金がない、暇だけはある……電気代が掛かるから、長いこと部屋にはおれん。そんでも、仕事の電話は待たなあかん。居るときは、電気は付けんと丸くなっとる。毎食インスタントラーメンに卵に干からびた葱。オレも草々も、稽古の後で、オヤジが外で飲んでくる~、言うてふらふら遊びに行った時には、おかんに夕飯食わせてもらったり、母屋で風呂借りたりしてたわ。」
なっつかしいなあ、とおかんの顔を思い出していると、水を差すようにして四草が「はあ、それで。」と気の抜けたようなことを言った。
「それで、てなんや。」
「師匠のことですから、分かってて外飲みに行ったんちゃいますか? あの頃の通ってた女の話も、僕は眉唾やと思ってますけどね。あの頃は、おかみさんからのお小遣い制だったでしょう、師匠の財布。」
「さあなあ。……おかんが生きてる間も、死んでからも、通ってる女なんてほんまにおったんかどうかなんて、よう聞けんかったわ。」
第一、金のない自分のこと棚に上げて、こいつもよう言うわ。
まあ、今この場で、『オヤジは、オレと違って女にモテるからな。』と言うのも業腹やな。
「……小草若兄さん、うどん伸びてますよ。」と四草は言った。
自分も箸の手ぇ止めて話してたくせに。
「今年も新しい話を覚えて、そのうち草々のヤツをあっと言わせてやるで。」
「それなら、今からどこか行きますか?」と四草が携帯電話を開いて時間を確かめた。
「どっかて、どこやねん。」
「どこって、お参りでしょう。」
元旦ですよ、と当然のような顔をして四草は言った。
「神頼みみたいなもん、一生縁がなさそうな顔をしといて良う言うわ。大体、なんでオレとお前で初詣行かなならんのじゃ。」
「あちこち行けば、ひとつくらいは奇特な神様が小草若兄さんの願いごとを叶えてくれるんじゃないですか?」
「お前はもう……新年早々減らず口やな。」
「で、行きますか、どうします。」
「お前も烏の面倒あるやろ、いっちゃん近いとこだけでええわ。」
「決まりですね。」と四草は言った。
その声が、いつもの賭けを提案した時の声と同じトーンに聞こえる。
さっさと切り上げて寝るで、と食べ終えたうどんの器をカウンターに下げると、四草も自分の器を下げてから「五百円玉投げたいときは言って下さい。僕が両替しますんで。」と言った。
「四草、お前~~~。……ほんまにセコいやっちゃな。」
丁度いいところにある四草の首を抱えてヘッドロックをすると、しれっとした顔で「散歩の付き合い賃です。」と言った。
散歩て何や、オレは犬か。
「その付き合い賃払ろたら、どこまでも付き合ってくれんのか?」と言うと、四草ははあ、と大きなため息を吐いて「今年は真面目に稽古してくださいよ。」と言った。
答えになってない。
「おい、四草、」
ちゃんと返事せんかい、と言いかけてから、元旦から説教でもないか、と口を閉じた。
「何ですか?」
「お前も稽古に付き合え。」と言うと、澄まし顔の弟は、何を当たり前のことを、と言わんばかりに大きく眉を上げた。
立ち食いそば屋を出ると、空はまだ暗かった。
梅田の駅の周りは星のひとつも見えず、代わりに明るいネオンが輝いていた。
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