朝食


久しぶりに、朝、すっきりと目が覚めた。
疲れで早寝をしたせいか、空腹も感じる。
「……六時半か。」
枕元の時計が示した時間は、遅くもなく早くもない。
この間まで付き合うてた女が、先に起き出して食事を作り終わってたのがこのくらいの時間やったな、と思い出した。
朝飯を食べてた頃のことを思い出すと、今が食べどきやと言わんばかりのタイミングで腹がぐうと鳴いた。
布団から起き上がって流しで顔を洗っているうちに、表の道からは、通勤するために車や人が移動する音が聞こえて来た。
腹は減ってはいるが、冷蔵庫の中に食えるもんがない。
延陽伯の賞味期限切れギリギリの冷凍餃子で凌いでいられたのが、昨日までのこと。
こちらのとっときの分を、なんやお前んとこに食うもんないかとやってきた稼いでいるくせに妙に不景気な顔をした兄弟子にかっさらわれて、すっかり空になってしもた後で、何も買い足してへんこっちが悪いといえばまあそうやねんけど。
この世は何でも金で回ってると言う割には、こちらにおこぼれがないのが悪い。この先もまともに稽古を続けたところで、寝床での落語会の木戸銭は、出演料より先に師匠のつけに消えていくことになっている上に、師匠が天狗に後ろ足で砂を掛けるような真似をしたことを考えれば、まともな落語会の話は入って来そうにない。出費を抑えることを考えたら米かパンかうどんか、と迷いながら、結局朝食を抜いてしまうこともある。
まあ先に着替えてしまうか、と長袖のシャツを羽織ってズボンを穿き、ベルトを締める。
浴衣は昨日持ち帰ったまま、風呂敷に包んであって、そろそろ洗い時というところだった。
このところは、朝は牛乳飲んで、昨日習った話を一通りさらってみて、勤め人が道をうろつく通勤ラッシュを避けて移動をして、師匠の家に寄る前に駅前できつねうどんの一杯でも引っ掛けられる金があれば良しというところだった。そんな風に思い返してみると、別にいつもの時間より早く稽古に行ってもええかという気分になった。
考えてみれば、落語家に復帰してからはずっと、稽古と言うよりは、弟子のめいめいがいつもの稽古場に集って、草原兄さんを師匠の代わりに据えて稽古の真似事をしつつ師匠の動向を伺うことを続けていたから、草原兄さんの時間に合わせて出て行くことにしてたけど、今はもう、いつ稽古に行ったところで師匠がその場にいるのが分かっているわけや。
師匠本人から、内弟子やった頃のように毎日――でもないか、まあほぼ毎日やな、そういう頻度で稽古を付けて貰えるという状況が、今でも現実のこととは思われへんというか。
「……夢、」
と思ったタイミングで、兄弟子が洗いもせずに出しっぱなしにしていった白い丸皿が目に入って来た。

――なんで女は皆、草々みたいな恐竜頭のアホがええんや。オレかて、ええとこくらいあるし。

あれはまあ、夢とはちゃうな。
しょうもない愚痴を垂れ流しながら、僕に焼かせた大量の餃子を、一階で金払って作らせた海老炒飯とスープでかきこんで、酒の一滴も飲まずに帰って行った三番目の兄弟子。
昔っから稽古嫌いの男だった。どれだけ考えたところで、僕が思い出せる美徳は、今の金離れの良さ、ひとつきりしかない。
これから稽古頑張るし、と口では殊勝なことを言うてたけど、あれはまあ、若狭がキャアキャア言うて持ち上げるような余禄でもなければ、あっという間に三日坊主で終わってしまうやろうな。
昨日かて、今更『時うどん』ですか、と言うたら、こっちの当てこすりには気付いたのか、不機嫌な顔でやけ食いして。そもそも、今をときめく小草若や、とか何とか云って芸能界に泳いでるコバンザメみたいに持ち上げて貰えると思って僕のとこに来たわけでもないやろうに……。
勝手にこっちの頭に浮かんで来る不機嫌そうな男の顔は、確かに、おかみさんが亡くなる前の七年前よりは大人びたのは確かだ。それでも、ほとんど毎日のように顔を突き合わせていた内弟子時代と何も変わらない、今でも人の言うことをひとつも聞けへん、甘ったれのごんたや。

――おい四草、朝からそんだけ腹立ったら、一人稽古では集中出来へんのと違うか?

僕のときと違って妹弟子にはそれなりの猫を被ってる筆頭弟子の顔が思い浮かんで来た。ほんまに、ちょっと早起きしたと思たら、白昼夢みたいに次から次へと……。小うるさい兄弟子たちの顔を順に思い出してため息を吐いていても、仕方がない。草々兄さんの顔が思い浮かんでくる前にと、布団を畳んでさっさと押し入れに仕舞い、小草若兄さんの食べ終えた皿を洗って、さて。
このままさっと部屋を出てどこぞに朝飯でも食べに行くか、というタイミングで、昨日の師匠の言葉を思い出した。

――草々がおらへんでも、あいつの味噌汁、それなりの味になってきたで。

師匠が言いたかったのが、草々兄さんが不在のときには普段と違う二人前の味噌汁の分量にしようとして若狭が失敗するのか、それとも、食べさせたい相手がおらへんと自然と手抜きになってたことを言うてるかは、僕には分からなかった。
おかみさんと一緒に生きる気力を亡くしたような顔をしていた頃とは違う、生き生きとした表情の師匠の、その口から、またあの日常のしょうもない雑感を、あの飄々とした声で聞けるようになったのは、嬉しくないわけでもない。
また七時前か。
善は急げ。まあ、妹弟子の作った朝飯を師匠の家までたかりにいくのが善い行いと言えるかどうかはさておき、内弟子が五時起きで庭の掃除をした後で作り始める朝飯に、今から出れば間に合うやろうな、という時間やった。
師匠がもう起きてますように、と思いながら、ジーンズの尻ポケットに財布を納め、稽古着の浴衣を脇に抱える。
ドアを開けると、部屋の中には冷たい秋の風が吹き込んで来た。

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