もしかして:犬
その違和感に気が付いたとき、司は死にたくなった。
夜鷹のマンションの玄関は下手なワンルームより広々としている。加えて夜鷹は物を置くタイプでもないのでなおのこと広く見える。
その玄関を入ってすぐ、正面の壁のところにそれはあった。
「純さん……」
「何?」
何じゃないですよ、という言葉はどうにか飲み込んだ。この状態にしておいて平然としているのが信じられない。
絶句している司に気が付いたのか、夜鷹はああ、と同じように司の視線の先を見た。
「これ、あるといいんでしょ?」
夜鷹はごく普通にそう言った。小首を傾げるなんて可愛らしい仕草もつけて。
普段だったらそんな仕草もレアだ、と浮かれていたかもしれない。しかしそんな余裕は今の司にはなかった。
だって夜鷹の家の玄関に大量のペットシーツが置かれている。
確かに言った。汚してすみません。言った。
事後足腰立たない自分に代わってグチャグチャに汚れたシーツを引っぺがして洗濯機に突っ込んだのは夜鷹だった。テキパキと動く夜鷹のひっかき傷のついた背中をただ見つめるしか出来ないでいた司は、いろんな意味で申し訳なさすぎて死にそうだった。憧れの金メダリストに何をさせているんだ自分は。
何度も謝ったけれど、そのやりとりがあったのは昨晩ーーと続きの今朝だ。まさか半日足らずで用意されるとは思いもよらなかった。
司は改めて積み上げられたペットシーツに向き直った。水色のパッケージにお座りをしたコーギーがつぶらな瞳でこちらを見ている。
「よかったね、これで潮も吹き放題だよ」
夜鷹の言葉には皮肉もからかいも含まれていない。つまり百パーセントの善意だった。こんなに受け取り方に困る善意もなかなかないだろう。少なくとも今の司にあるのは戸惑いと動揺だ。
「……吹かせない方向で、調整は出来ませんでしょうか」
「無理でしょ。君すぐ汁塗れになるし」
思わずギャッと悲鳴が漏れた。誰だ夜鷹純に汁塗れとか言わせたやつ! 俺!
「夜鷹純は汁塗れとか言わない!」
「今言った。というか君は僕にやめてというけど、僕が何もしなくたって君が勝手に、」
「わあああああ! ごめんなさい!」
「何で謝るの。気持ちいいんでしょ」
「ごめんなさい……」
とにかくいたたまれない。しかし善意だ。しかし受け取るかどうかは悩ませて欲しい。
マットレスを汚さないための工夫は必要だ。分かる。ペットシーツを敷いてみよう。そうだね。だから山が出来るくらい大量に買おう。それはちょっと待って。
今まで使ったこともないのに、いきなりこんなに大量に買わなくたってよくないですか、と思うわけだ。一回試して見てから、とか、まずは一袋から、とか、そういうやり方もあったはずだ。
例えばもしこのペットシーツも足りなかったらどうしよう、とすごく嫌な方向の想像も浮かぶ。全ての液体を吸収出来なかったので返品します、なんて返品理由が認められるはずがないし。そもそも想定されている使い方をしていない自分たちが悪いのだし……。
しかしこのペットシーツは一体何回分くらいあるのだろう。浮かんだ疑問の生々しさに更にいたたまれなくなった。そんな司を大量のコーギーたちが見つめている。想定されているだろう使い方をしなくてごめん。司は思わず謝りたくなってしまった。ついでに夜鷹純のパブリックイメージにも謝りたい。夜鷹純の家にペットシーツを置かせてしまってごめんなさい。
今の司に出来るのは現実逃避だけだった。だって今朝まで抱かれていたし、そのまま仕事に行ったし、もうクタクタで帰ってきたところにとどめのこれだ。何をやっているんだ自分たちは。
そんなことを考えていたから、背後の気配に気が付かなかった。
「もう敷いてあるよ」
背後から声を掛けてきた夜鷹は、そのまま司の腰を抱いて歩き出した。リビングを通りすぎてそのままバスルームへ。
「全部綺麗にしてきてね」
ゆっくりと司の下腹を撫でながら軽くキスをしてきた夜鷹は、司を脱衣所に置いて寝室に向かった。
その背中を見送った司はハハ、と自嘲した。撫でられた下腹はもうじんわりと熱を帯びている。自分は犬だったのかもしれない。
*
夜鷹の家に資料を借りに行った鴗鳥慎一郎は、玄関を入ってすぐにその違和感に気が付いた。
シックな作りの玄関に大量のペットシーツが積まれている。水色のパッケージのそれは、部屋の中で明らかに浮いていた。
「純くん、ペットでも飼い始めたのかい?」
それにしては室内に生き物の気配は感じない。電気が付けられていないリビングもいつも通りひっそりとしている。そもそも夜鷹は生き物にそれほど興味を持っているようには思わなかったけれど……。
「ああ、躾のなってない犬をね」
「躾のなっていない犬」
「今しつけ中なんだ」
珍しく微笑んだ夜鷹に、鴗鳥はそれ以上聞くのをやめた。いくら友人とは言え深く突っ込まない方がいいこともある。
友人が楽しそうにしているならよし。
玄関に居座る違和感も何もかも全て見なかったことにして、本題の話を切り出した。
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