泊瀬


 大典太が得度して間もない頃の話である。
 師匠の使いで初瀬に詣でた。春の盛りのことで桜は爛漫とし、春霞に山楼は薄紫に靄がかっている。人気は絶えて、遠くから朝の勤行の声が低く聞こえるばかりであった。
 ぶらぶらと散歩をしていると不意に呼び止められた。
「そこの坊主、一つ頼まれてはくれないか」
背の高い、目の覚めるような美丈夫である。
「これを供養してやって欲しい」
巾着袋を差し出された。手に取るとずしりと重い。開けて良いか尋ねると男は鷹揚に頷いた。
 中から出てきたのは粉々に砕けた刃の欠片であった。鈍く輝く鋼は錆の一つもなく、不用意に触れれば皮膚を裂くだろう。
「この刀の未練が取り憑いて離れないのだ。ここで会ったのも観音菩薩の思召しだろう。一つ経を読んではくれまいか」
断る理由もなかったので、その場に腰をおろす。男も真向かいにどっかと胡座をかいた。
 破片に丁重に手を合わせた。男はなぜかじっと大典太を見つめ、その鋭いまなざしに内心たじろいだ。ぼそぼそと念仏を口ずさみながら懐に忍ばせていた線香に火を点けると、白檀の香がほのかに漂う。細く煙が立ち上った。経を読んでいるうちに男の視線も気にならなくなっていた。
 大典太は誦経が上手いわけではなかったが、朝に夕に無心で勤めをするのは性に合っていた。朗唱するほどに体内の澱が洗い流されていくようで心地よい。経の響きに身を委ねてしまうと己という個がなくなる気がした。仏の教えを体得できたなどと傲慢なことは思わないが、心を無にして唱えていると教えの一端を掴めたような気がするものだ。
 砕けた鋼に真っ白な花弁が散り落ちている。低い読経の声が煙に乗って空へ昇る。
 色即是空。
 花は必ず散り、一切は無常である。称名の最後の一音が消えるまで手を合わせ続けた。
 漸う顔を上げると男と目が合う。線香はすでに灰になっていた。
「手間をかけたな」
「いや……」
「それは埋めるなり燃やすなりしてくれ」
そう言うと男は身軽に立ち上がった。黒い洋装から花びらがはらりと落ちる。不思議なことに薄紅に燐光を発していた。ぼんやりと人ではないのだと思った。
「世話になった」
未練もない様子で男は背を向ける。潔いことだ。今思えば、大典太よりもこの男の方が悟りに近かった。あるいはあまりに人間臭いから、大典太は人に生まれ変わったのかもしれない。
「大包平……!」
堪らず呼びかけていた。本当は始めから男の正体は分かっていたのだ。知らぬ振りをしていたが、耐え切れなかった。大包平は大典太に会いに来てくれた。
 大典太の呼びかけに大包平は振り返った。拈華微笑である。大典太の迷いを理解しているに違いない。大典太に引導を任せてくれたのだと悟った。
「礼を言う」
そうして行ってしまった。折しも谷から風が吹き上げ、ごおっという風の音ともに大包平の姿は搔き消えるように桜霞に埋もれてしまった。




 大典太が刀の付喪神であった頃、大包平とは恋仲だった。
 顕現された時期がほぼ同じということもあって、良き好敵手であり、良き相談相手だった。性質は正反対だったが、不思議と馬が合った。決して浮ついた関係ではなかったが、甘ったるい仲というよりは肌を許す親友のような間柄だった。
 だがその大包平は折れた。遠征先で奇襲を受けた末のことだった。大典太は生き残った部隊の面々から末期の様を聞いただけだったが、弁慶もかくやというほどの壮絶な最期だったらしい。全身に傷を負い、片腕吹っ飛んだまま奮戦したのだと涙ながらに語られた。確かにそういう奴だったと容易に想像がついた。
 大典太は取り乱すこともなく平静に過ごした。主の発案で通夜の真似事もしたが、格別心が揺れることはなかった。周りの気遣いに甘え、気落ちした様子を隠すことはなかったものの表向きは何も変わらなかった。起こしてくれる者がいなくなったから一人で起床し、出陣や遠征に明け暮れた。とはいえ敵に対して特別憎悪が燃え上がったということもなかった。淡々と仕事をこなした。非番や休みなどの二人で過ごしていた時間は兄弟や本丸の者たちが埋めてくれた。
 それでも日常の中で空虚さが紛れることはなかった。癖で二人分の布団を敷こうとしたとき、誰も着ることのない内番服を見てしまったとき、そのたびごとに大包平が折れたのだという事実は大典太の胸をずたずたに引き裂いた。
 何かの節目でもなかった。遠征帰りのある晩だった。慣れた手つきで布団を敷き、疲れた体を横たえた。
「あ……」
目尻に冷たい筋を感じた。涙を流していた。仰向けになっているので、涙が次々と落ちてこめかみに流れていく。自覚してしまうと止まらなかった。
「大包平……」
 どうして折れた。
 形見の一つも、言葉の一つも、残してくれても良かろうものを。大典太の知らないところで、役目を果たして逝ってしまった。なぜ傍にいない。寂しい。恋しい。慕わしい。
 気がつけば一晩中嗚咽も堪えず慟哭していた。そうして大典太は大包平の死を受け入れた。そのときすでに大包平が折れてから半年が経っていた。
 主は大典太が立ち直るのを待っていたらしく、程なくして二振り目の大包平が本丸に勧請された。審神者と相談した上で、顕現に立ち会ったのは大典太だった。新たな大包平が別の刀剣であると確認する必要があった。一振り目と混同しやしないか恐ろしかったのだ。
 花吹雪とともに現れた大包平は、当然だが大典太のよく知る姿だった。本性がそのまま人型を取ったような、すらりとして、それでいて堂々とした立ち姿である。朗々と男らしい声が口上を述べる。
 それを聞きながらこれは別の刀剣なのだと、そう思えることに安堵した。すでに練度が上限に達していた大典太には、顕現したての、まだ地に足がついていない大包平は新鮮だった。かつての大包平は人で言えば竹馬の友だった。大典太を追いかける存在ではなかった。
 だから二振り目の大包平は、始めの頃は大典太の目に幼く映った。天下五剣に突っかかる様は似ているどころか瓜二つだったが、応じる大典太の立場が違った。手合わせで不用意に打ちすえれば手入れ部屋送りある。手心を加えるわけではないが、配慮が必要だった。
 そのおかげで、大典太は一度として二振りを同じ者だと思うことはなかった。最期の日まで一振り目を忘れることはなかったし、二振り目とは気兼ねない同僚だった。主が審神者を引退する際に大典太は刀解を選んだが、一振り目が亡くなってからの約数十年の間、再び恋人をつくることもなかった。
 さて二振り目の大包平は、顕現してすぐに一振り目がいたことも、大典太と恋仲だったことも聞いていたらしい。それについてどう思っていたのか最後まで尋ねたこともなかったが、大包平も殊更何か言い立てることもなかった。他者を慮る心根の良さはどちらの大包平も変わらなかった。
 だが実を言うと、一度だけ二振り目と一線を越えそうになったことがある。あれは新たな刀が来た祝いの席だった。したたかに酔った大包平が部屋に帰るのに肩を貸していた。当時はそれぞれに個室が与えられていたから、障子を開けると誰もいない部屋は真っ暗だった。
 座布団に座らせて肩を揺すった。大典太も酔っていたから、布団を敷いてやるのは億劫だった。
「おい起きろ。部屋だぞ」
「ん、ああ……」
大包平がうっすらと目を開ける。このときになって顔の近さに気がついた。開けっ放しの障子から青い月光が射し込んで、切れ長の瞳が大典太を射抜いた。
 接吻しようかと思った。大包平も同じことを考えていたと今も昔も確信している。色のない鈍色の瞳はかつてなく深かった。暫し見つめあって、だが大典太はそっと視線を外した。
「帰るからな」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
部屋を出て、後ろ手に障子を閉めた。
 あれは恋心だったと大典太は断言できる。すでに恋人を失って十年近く経ち、新たな愛情を大典太は見つけていた。ありがたいことにと言うべきか、大包平も憎からず思ってくれていたはずだ。だが結局、二人が恋仲になることはなかった。
 亡くなった恋人に義理立てていたわけではない。大包平は己が死んだ後に恋人が後添いを見つけるのを怒るほど狭量な太刀ではなかった。悋気の一欠片くらいは見せるかもしれないが、きっと笑って許してくれただろう。もしあのとき恋人と話せたなら、むしろ背中を押してくれたのではないかとさえ思う。
 大典太は忘れたくなかったのだ。あまりに粉々に折れた所為で、破片一つも残せなかった恋人との思い出を風化させたくなかった。小さくなったものの、決して消えることのない胸の痛みを抱えていたかった。大包平のことは好きだ。好きだが一振り目を忘れることも、思い出にすることもできない。
 恋人を思いながら大包平を愛せるほど大典太は器用ではなかった。後ろ向きだと詰られることは百も承知で、大典太は恋人を思う気持ちをそのまま保ち続けていたかった。二振り目への止みがたい恋心を自覚しつつ、それでも大典太はもう一人の大包平を選ぶことはできなかった。
 大包平は優しかった。大典太の選択を責めず、数十年の間友人であり続けてくれた。応えられない罪悪感や後悔がなかったと言えば嘘になる。不遜にも勝手に大包平の心中を量って心が重くなったときもあったが、共に出陣すれば不思議と気が晴れた。側にいるだけで満足だった。
 大包平は大典太と同じときに刀解を選んだ。大典太は最期まで恋心を抱えていたが、大包平には他に好い人がいたのかもしれない。それともずっと思ってくれていたのだろうか。もしあの夜口付けていたら、どうなっていたのだろう。だがもう大典太に知る術はない。




 桜の中に一人取り残されて、大典太は砕けた鋼を見下ろしていた。大包平は未練に取り憑かれたと言っていた。それは己への思慕だと自惚れても良いだろうか。苦く笑わずにはいられない。出家した身の癖に欲深いばかりである。どこに埋めようかと考えながら、散った花びらを一枚一枚取り除いていった。
 そうしているうちにふと気付いた。鋼は大包平の刀身だとばかり思っていたが、別の刀のものが混じっている。気付いたのは大典太もかつては刀だったからであろう。少し趣の異なる破片を手に取る。忘れもしない。この刃紋は大典太のものだ。それを見てゆるゆると溜息をついた。
 大包平の悟ったような微笑の意味を理解した。大典太が弔ったのは大包平だけではないのだ。大包平は二人分の惑いとも未練ともつかぬものを昇華させるために現れた。彼のことだから己の分のけりくらいつけろと叱咤しに来たに違いない。怒声の一つもなかったのだから、随分と丸くなったものである。
 鋼はもう一度だけ線香を供えて読経をし、山楼の外れに埋めた。目の前には鬱蒼とした森が広がっている。寺院の裏手、泊瀬の山は死者の地なのだという。あえて墓標も立てずに適当な木の根元に埋めた。その場を離れれば大典太もどこに葬ったのか分からなくなるだろう。
 人知れず土に還れば良いのだ。
 空即是色。
 花は散りゆくことでこの世に存在し得る。命も感情も、万物は同じことである。湿り気を帯びた土は日射しに照らされ、ほのかな温もりがあった。
 穏やかな春の朝である。山間を紫雲がたなびいていた。

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