LAPIDARIUM - 愚者の黄金
【黄鉄鉱】
淡黄色の金属光沢をもつ鉱物。ハンマーなどで打つと火花を発する。金に似て非なる鉱物のため「愚者の黄金」と呼ばれた。
【金】
美しい金属光沢をもつ鉱物。きわめて薄く延びることができ、古くからさまざまなかたちで加工されてきた。
【琥珀】
植物の流す樹液中の樹脂が固まった化石。摩擦すると静電気を発する。可燃性で、燃やすと良い薫りがする。
***
地球は岩石惑星だ。地殻は花崗岩質岩と玄武岩質岩。マントルはカンラン石などのケイ酸塩鉱物から成り立つ。この星をスライスしてみれば、まるで卵の黄身を覆うかのように大部分を鉱物が構成しているのが分かるだろう。
よって地上の支配者も鉱物である。意思をもち、知性を秘めた「生命」としての鉱物だ。
誰も知らないほど昔、地中でとある石が言葉を発した。その声は地震よりもはるかに小さな震えだったが、確かに伝播し、あまねく地下に響きわたった。さざめきはすべての石に広がる。鉱物は言葉を覚えた。
知恵を得た鉱物たちはさらに長い年月をかけて、マグマに流され、あるいは地層の隆起に乗り、地上へと現れた。おしゃべりな石はひとところに集まりやすい。やがて集落ができ、文化ができた。目まぐるしく流転する地上の花や虫や鳥たちを尻目に、鉱物たちは気の遠くなるような時間をかけて、国を作り上げる。はじまりの声から幾星霜が経ったころ、地球上はすっかり石ころの国で埋め尽くされていた。
鉱物の国は気が長く、呑気だった。天敵のいない鉱物にとって、地上は楽園である──はずだった。
***
鈍く光る鉄色の雲が、重く山あいに垂れ込んでいる。常緑の木々は黒々と葉を茂らせ、間も無く訪れる厳しい冬への静かな警戒を枝の間に充満させていた。
木々の開けたところ、白く光る土地がある。空を渡る鳥が見下ろせば、そこは乳白色の泉のように映っただろう。降り立ってみるとしかし、それは本当の水面ではない。白い砂利が広大な土地に敷き詰められている。そのつぶては一つ一つが小さな光を宿した石英だった。一面に広がるさざれ石の上には熊手を引いたような凹凸が表れ、動かぬ石の湖面をまるで水の流れのように見せていた。
均一な縞模様が広がる秩序だった世界に、不似合いな太い道が引かれている。そこだけは何かを引きずったように砂利が乱れていた。水晶の粒はてらてらと光り、粘液によって糸を引く。無軌道に描かれた一本道の先に、「それ」はいた。
桃色の塊だった。肌は柔らかく、重力に逆らえない。いくつもの皺を鳴動させながら内部の筋肉を収縮させ、かろうじて砂利の上を這っている。皺の合間から見える目がきょろきょろと動き、瞬きをするたび睫毛が扇子のようにひらめいた。表面にはトンネルのように盛り上がった血管が走り、一定のリズムを保ちながら脈を打っている。肉の隙間から突起に覆われた舌がはみ出し、地面に擦り付けられ唾液をこぼしていた。肉塊は、生き物と呼ぶには余りにも不恰好だった。より正確に言うならそれは、依って立つべき骨をもたぬ存在だった。
骨なきものを、離れた雑木林の斜面から見据える者がある。木々の落とす薄暗闇の中で影は帽子のつばを直し、用意した得物……ホイールロック式の銃を構えた。慣れた手つきで燧石の取り付けられたアームを下げ、ホイールに当たるように調節する。火蓋を開け、引き金を引いた。
刹那、火花が散る。ぼやけた暗がりの中、小さな星屑のように鋭い輪郭のスパークがきらめく。閃いた橙色は、次の瞬間にはまた闇にさらわれ消えている。それと同時に、山間には空気そのものが破裂するような音が轟いた。
骨なきものの表面に赤い花が咲く。血液とともに何だか分からない組織液が肌を伝い、地面の水晶を濡らした。肉塊は痛みを感じるのか、空気の漏れ出る音を鳴らしながら身をよじる。不快な刺激を避け、かろうじて方向転換した先は石英庭園の奥。小さな黒い庵が立っている方角だった。
「ったく、よりにもよって面倒な方向に逃げやがる」
射手は地面に置いていた二挺目の銃を構える。火薬と弾丸を詰め、火皿にすでに点火薬を入れておいたものだ。アームを下げ、火蓋を開ける。引き金を引くのとほぼ同じ瞬間だった。
「──何だ!?」
斜面の上方から、木々の枝をへし折りながら何かが転がり落ちてくる音がした。同時に轟音。二発目の弾が骨なきものに当たったか否かも確認せず、背後を振り向いた。
落ちた枝や枯れ草を粘液で巻き込みながら、桃色の塊──もう一体の骨なきものが、斜面の上から転がり落ちてくる。まるでスライムをピンボール台に放り込んだように滑稽な動きで、しかし間違いなく意思をもってこちらに向かってきていた。木々にぶつかるたび、柔らかく間の抜けた音を立てている。
「畜生! お友達のお出ましかよ!」
三挺目の銃を担ぎ、四挺目・五挺目は両脇のホルスターに。林野を走り、石英の海へと飛び出す。
そのとき、重く垂れこめていた雲に気まぐれな切れ間ができた。傾いた陽光が差し込み、純白の庭園を照らしだす。太陽光線は駆けだした射手にも降りそそいだ。その身体は黄金色に光を反射した。五角十二面体の身体と立方体の頭部が、かすかに金属音を鳴らしながら軋んでいる。日差しに気づいた金色の撃ち手は、焦りを隠すようにその反射を揺らめかせた。
「気が利いてるじゃねえか。主役の登場に合わせてライトアップとはね」
庭園を見渡す。小島のように鎮座する花崗岩に目星をつけると、躍り出て役者のように飛び乗った。
「よお骨なしども! ゴールデンタイムはこれからだぜ!」
背後の雑木林が揺れるのを感じつつ、反対側の骨なきものに狙いを定める。オレンジの火花が散り、破裂音が響いた。弾丸は庵に向かっていた骨なきものにめり込み、その肉をえぐった。桃色の標的は痛みに鳴きながらこちらに方向転換する。射手の金色を認めるや否や、先ほどまでの鈍重さが嘘のような勢いで肥満した体躯を揺るがし、向かってきた。
「来いよ、ほらどうした、俺はここにいるぞ」
ここで、骨なきものをまじまじと見つめてしまったのがよくなかった。悪寒が走る。焦りが判断を鈍らせ、引き金を引いてしまう。空虚な爆音を立てて弾丸が撃ちだされ、骨なきものの表面を掠めた。馬鹿、何やってる。あと一挺。必死で手の震えを抑える。赤く一筋の線を垂らした骨なきものが、猪のように迫ってきていた。焦るな。引き付けろ。狙え。——今だ。
視界に星が散る。舞台演出のような煙が噴き出す。弾丸はターゲットの中心を真っ直ぐに貫き、彼方へ消えた。核を穿たれた肉塊は、水風船のようにその組織を撒き散らして破裂する。粘着質な音と同時に、背後で砂利の軋む音がした。休んでる暇なんかないぞ、もう一体だ。装填済みの銃はもう、ない。振り向けば桃色の肉塊は、転がり落ちた衝撃で引っくりかえっていた。芋虫が身じろぎをするように蠢き、姿勢を今にも取り戻そうとしている。
銃士はその表面を鈍く光らせると、金属片——銃のゼンマイを回すキーを取り出した。弾切れになった銃のゼンマイをキーで巻き上げる。槊杖で火薬と弾丸を銃口から詰め、燧石のついたアームを上げた。点火薬を入れる。さざれ石の擦れる音と生肉の揉みくちゃになる音が、すぐそこまで迫ってきていた。アームを下げて火蓋を切る。銃口を上げたそのとき、樹枝状に広がる血管が拍を打つのが間近に見えた。
「この、食らいやがれ!」
ゼンマイが銃のホイールを回し、燧石を擦る。摩擦から生まれた火花は視界いっぱいに飛び散り、刹那の星空を作った。音が世界から消えた。肉の焦げる匂いがする。次の瞬間、赤い花が咲いたかと思うと生ぬるい雨が全身に降りかかってきた。飛散した組織が金属質の身体にぶつかり、形を失って地面にこぼれ落ちていく。静謐な秩序に支配されていた石英の砂紋は、今や泥遊びをした後のように乱され、鮮血で穢れていた。
未だ硝煙を吐き出す銃をその場に放り投げる。顔に付着したゼリー状の何かを拭い、帽子のつばを直した。力を失ったようにその場に崩れ落ちると、花崗岩の薄紅色と灰色のまだらの表面は黒く変色していた。懐を探り、一筋の光を取り出す。それは金色の鎖だった。冷たい感触を握りしめ、誰にともなくつぶやく。
「見たかよ。的中だ」
やがて両手を膝について立ち上がる。重い足取りで向かったのは、庭園の奥。陽を受けてちろちろと輝く、黒い庵だった。
***
「Au」——金の国は鉱物たちから愛されていた。眩い光沢は言うにや及ばず、どんな加工にも耐えうる全能性、そして腐食を受け付けない永遠性。金の民はごく限られた数しかいなかったが、あらゆる周辺国が金の国の庇護を申し出た。同時に金がもつ力を頼る鉱物もまた少なくなかった。すべての石から敬愛され、崇拝される金属の王者。選ばれし民が慎ましく身を寄せあう地が、小国にして絶対の聖域とされる金の国だった。
金の国といえど、そのすべてが黄金に輝いているわけではない。石英の庭園の奥には、小さな庵——数寄屋造りの平屋があった。木造ではなく黒い御影石で造られた建物が、長い時間を過ごした建造物特有の静謐な威容を放っている。過ごした歳月を誇るかのように、壁のところどころには「稲妻模様」が走っていた。射手はきらめくひび割れを見るたびに、苦い思いを胸の奥で抑えこむ。やけに低く作られた入口をくぐり、柔らかな砂の敷かれた邸内へと入った。
部屋と部屋は障子で仕切られている。紙の代わりにはめ込まれた薄い雲母が、午後の光を白く拡散していた。回廊を巡り反対に回ると、ひときわ大きな部屋がある。戸を開けて足を踏み入れると、そこには工房が広がっていた。壁際に棚が並べられ、へらや筆、油の瓶が所狭しと並べられている。反対側の少し背の低い棚には、器類が整然と収まっていた。そのいずれにも、建物の外壁にあったような「稲妻模様」が走っている。部屋の中央にある大きな机の上に、ひび割れた器がそっと置かれていた。その脇に佇むのは、金色の幽霊だった。
黄金色に輝く薄いベールがその裾を引きずりながら、宙に浮いている。それはまごうことなき金、意思をもって漂う薄い金箔だった。少しでも鋭利な刃物で触れれば今にも裂けてしまいそうな光るカーテンが、まるでクラゲのようにひだをたなびかせている。端をよく見れば筆を巻き取っていて、割れた器の縁に黒いペーストを塗り込んでいた。そのきらめきが、ふとこちらの姿を認める。
「おかえりなさい、パイロウ。大変だったみたいだね」
呼びかけられると、同様に金色の光を纏う射手——パイロウは、演技がかった仕草で一礼した。
「楽勝です、我が主」
「嘘つき。危なかったんでしょう?」
「心外だな。俺がしくじるように見えるかい?」
「そうじゃなきゃ、そんなひどい有様では帰ってこないでしょう。それに」
「主」は、帰還した従者の帽子に残る赤黒い染みを見つめて笑った。まなざしは頭の上から足元に落ちる。
「その傷はどうしたの?」
「……おっと」
パイロウの脚には、傷跡が残っていた。先ほどから鈍い痛みがあると思っていたら、どうやら岩の上で崩れ落ちたときに擦ったらしい。傷口は金色ではなく、石墨で書いたような緑黒色をしている。それは、この黄金色の銃士が金の民とは似て非なる存在であることを物語っていた。淡黄色の鉱物——「黄鉄鉱」のパイロウは、不満げに光沢を揺らした。
「これは連中にやられたわけじゃない。ただ……」
「何でもいいけど、あんまり無茶な戦い方をしないで。『影武者』がいなくなったら、困るのは私なんだからね」
金箔の主は、できる限り意地悪い声を出した。この純朴な国の善良な主——金の国のマリーに影武者が必要な日など何億年経っても来るわけがないと、パイロウは言葉にせずに思った。
「あいにく、黄鉄鉱は『火』の石なんでね。この身を削れば削るほど火花が散る。その短い輝きに命を賭けるのが俺たちの生き方なのさ」
「馬鹿なこと言ってると本気で怒るよ」
パイロウが担いだ銃の燧石——黄鉄鉱をいじりながらうそぶくと、マリーは声を低くして言い放った。言葉とは裏腹に、声色には深い悲しみが滲んでいた。
「今朝、知らせが届いたんだ。金の国だけじゃない。琥珀の国にも出たんだって。あの怪物が」
「へえ。連中、どっかで殖えてやがるんだ。巣が見つかりゃ、火でも点けておじゃんにしてやるんだがね」
「琥珀の民が、襲われたらしいんだよ。国を守ろうとして」
「怖い怖い。あんなベットベトのグッチャグチャに巻き込まれたら、一生研磨しても忘れられねえな」
パイロウはわざとらしくおどけて言ってみせたが、マリーの深く沈んだ光沢は輝きを取り戻さなかった。いたたまれなくなった道化は次のジョークを探す。
「まあ何だ。今回もアンタにもらった『あれ』が効いたってとこだ」
「あっ、前にあげたお守り? まだ持っててくれたんだ。意外だな」
「これでもアンタに貰ったもんは大事にしてるんだぜ、俺は」
「どうかな。君は適当だからな」
マリーはふわふわ笑うと、手元の器と筆をふたたび動かし始めた。パイロウはからかうような態度で──しかし気づかれない程度に声色を落として──話しかける。
「アンタ……まだやってんのかい、その慈善事業」
「ああ、これ? そう。今度はよその国から持ち込まれたんだよ」
マリーは純粋な嬉しさを隠しもせず言ってのけた。作業している破片を置くと、その脇に置いてあった「修復済み」の器を愛おしそうに撫ぜる。その表面には稲妻模様が走り、金色にきらめいていた。
「金の国でも『金継ぎ』の技術を持ってるのは私だけなんだから。もう引っ張りだこだよ」
「よくやるね、飽きもせずに。せめて見返りでも要求すりゃいいじゃねえか」
「いいんだよ。好きでやってるんだから。それに」
マリーの裾がひらりと空気の流れに乗り、淡い光を反射した。パイロウはそれを眩しいと感じた。
「私たち金には、この星から授かった生まれながらの特性がある。そのギフトを使って役割を果たすのが、私たちの仕事」
「ギフトねえ。才能のある石はお高く止まってら」
「君にも特性があるでしょう、パイロウ。火花を熾して灯りをともすというギフトが」
「違うね。俺の火花は銃のためにある。弱いやつをいたぶって笑うためにあるのさ」
「すぐ、そうやって意地悪を言う」
マリーは笑いながら、また作業に没頭してしまった。パイロウは友の献身をやめさせる方法を見つけられないままその場に立ち尽くす。やがて肩を大げさに回すと、諦めたように言った。
「俺は一眠りさせてもらうぜ、我が主さんよ」
「お疲れ様。帽子はちゃんと替えて、身体も面倒くさがらずに磨くんだよ」
「どっちが世話役か分からねえな」
「私は君にお世話なんかさせないよ。それと」
手元に集中していたマリーの光の反射が、ふとパイロウの光沢に真っ直ぐ向けられた。
「今日も帰ってきてくれてありがとう」
「……ほかに帰るところもないんでね」
アンタのいるところ以外には、と心の中でだけ呟いて、パイロウはねぐらへ向かった。
***
黄鉄鉱が眠りから覚めると、すでに部屋は暗くなっていた。遠鳴りのような声が聞こえてくる。低い声、それも複数。邸宅の入り口の方から響いていた。パイロウは脇に置いていた帽子を手に取ると、頭の上に載せて喧騒のもとへ向かう。
「——分かりました。意識はあるのですか」
「ずっと気を失っています。光の明滅が弱い。早く手を打たないと」
「聞こえますか。痛みはありますか」
「何とかしていただけませんか」
狭い戸口は騒然としていた。明かりの下で邸宅の主マリーを取り囲んでいるのは、見慣れない集団だった。なめらかな輪郭をもつ透き通った金茶色の身体がとろりとした光沢を放っている。まるで花の蜜が意識を得て形をとっているような姿だった。
「……琥珀の国の連中」
「パイロウ、そこどいて。緊急事態だから」
「緊急って」
言いかけて言葉を失う。立ちはだかるマリーの背後、琥珀の兵士たちが運び入れてきた担架の上。そこには同じように蜂蜜色の琥珀——が、無残に砕けた破片が載せられていた。手足がときどき痙攣するように動くほか、生きている気配は皆無だ。本来なら生気を放つはずの透過光が、今は消え入りそうなほど弱々しく明滅している。
「私が何とかします。奥の工房へ」
「おい、アンタどうするつもりだ」
「君は邪魔をしないで!」
聞いたこともないマリーの鋭い声に、パイロウは気圧される。そのままマリーは琥珀の兵士たちを連れて回廊の奥へと進んでしまった。
「決してこの障子を開けないように」
それだけ言い残すと、マリーは工房のなかへと消えていく。部屋の前には、琥珀の兵士二人が残っていた。
「おい! ふざけんな! アンタ何を──いぎッ!?」
パイロウが襖に手をかけたそのとき、視界が真っ白に染まった。全身が痙攣したかと思うと、力が抜け膝を床につく。
「黄金色の従者よ、申し訳ない」
「これは我らの国の一大事なのだ」
「無礼を許していただきたい」
自分を見下ろす茶褐色の光が視界に焼き付く。琥珀の兵士たちの腕にはホイール状の装備が取り付けられていた。車輪が擦りつけた部位、摩擦された箇所から、微弱な静電気がほとばしっている。パイロウ──高い導電性を誇る黄鉄鉱——は薄れる意識のなかで自身の知る最大限の悪態を探していたが、その光沢はやがてぶつりときらめきを失った。
***
「君にはね、私の『影武者』になってほしいんだ」
はるか遠くでマリーが言ったような気がした。パイロウは肩をすくめて答える。
「俺みたいな硬い石、アンタには似ても似つかねえだろうがよ。第一、影武者ってのは身代わりのためにいるもんだぜ。アンタ、誰かに狙われてるってのか?」
「ふふ。別にそういうわけじゃないんだけどね。ただ影武者っていうのは、影のようについてきてくれるってことでしょう」
そういう意味だっただろうかとパイロウが首をかしげていると、金色の幽霊は続けた。
「君みたいな石が国を出てふらふらしてると放っておけないんだ。だから私が君の光になる。君だけの金色の光、悪い話じゃないでしょう」
パイロウは狼狽した。この金は生まれながらにして、他者が言ってほしいことを理解している。すべて分かったうえで、柔軟な合金が形を変えるように、相手の心に入りこむ言葉を投げかけているのだ。感情を見透かすようなその光沢を表す単語を探しているうちに、「賢者」という文字が頭のなかをよぎった。
自分だけの金色の光。刹那に消え入る火花とは異なるその輝きを、パイロウは初めて心から「欲しい」と願った。
不意に手のなかの冷たさを感じる。見れば手のひらに金の鎖があった。
「お守りをあげるよ。君の光を見失わないように。だから、どうか」
長い、長い鎖が指に巻きつき、手のひらからこぼれる。その一筋の光を辿っていくと金の鎖はマリーに繋がっていた。いや、よくよく観察するとそれは、マリーのベールの裾がほつれてそのまま鎖になっているのだった。
「大切にね」
そう言った瞬間、マリーの形は綻びて一本の糸になり、輪郭が消えた。
***
酷い夢を見た。はっきりとは覚えていないが、パイロウの表面の光沢はどろりと滴った。どれくらい眠っていたのか分からない。障子は青く光る陽光を拡散させている。懐の鎖の感覚をそっと確かめると、パイロウは戸を開けて廊下へ出た。
マリーはどこにいるのだろうか。工房へ向かおうと足を踏みだした矢先、微かな音を感じ取った。柔らかな砂粒がそっと擦れ合う音。確かに質量をもった何者かの音だった。向かいの部屋に誰かいる。パイロウは音を立てぬように障子を少しだけ開けた。
部屋の真ん中にこんもりと清潔な真砂が盛り上がっている。その上で包みこまれるように横たわっているのは、いつか見た琥珀の兵士だった。運びこまれたときの弱々しい光とは打って変わって、今は穏やかだが確実に内部光を明滅させているようだ。しかし、問題はそこではなかった。表面のすべらかさとは裏腹に、琥珀の胸のあたりには痛々しく大きな亀裂がきらめいている。それはあの外壁や器の修復とは比べ物にならないほど、大規模な金継ぎの跡だった。
戸が叩き割られるのではないかという衝撃音でマリーは振り向いた。工房に大股で歩いて入ってきたのは、果たして黄金色の従者だ。
「ああ、起きたんだ。かなり長いこと寝てたんだよ。随分手ひどくやられ……」
「おい、テメエ」
パイロウは重い金属が擦れ合うような声を出した。それは少しでも友を怯ませるための試みだったが、マリーは光る輪郭を僅かに揺らしただけで動じない。突き刺すような光沢をぎらつかせてパイロウは続けた。
「どういうつもりだよ、これは!」
「どうも、こうも」
マリーはその場で一回転してみせる。その裾は床を擦ることなく宙をはためいた。かつて豊かなドレープを描いていた金色の箔はいつのまにかすっかり短くなり、襤褸の手拭いか何かのように空中に浮かんでいる。その身体の大部分が、かつてない大掛かりな金継ぎによって失われた痕だった。
「一仕事終えたあとだよ」
「ふざけるんじゃねえ!」
のらりくらりとしたマリーの声色がパイロウの心に摩擦を生んだ。見たまま幽霊のように、押しても引いても手応えのないのが余計に腹立たしい。そのまま火花を発するばかりに怒鳴り散らす。
「いい加減にしろ! 連中がアンタに何の関わりがある! 何でアンタがそうも身を削って助ける必要がある!」
「琥珀たちは私を頼ってきた。だから私は役割を果たしただけだよ」
「アンタは誰にでもそうだ! 誰彼構わず一番喜びそうなことを言って、実際にその通りにしやがる! こっちがどれだけ──」
「ごめんね、パイロウ」
だしぬけに謝られて、今度はパイロウが怯んでしまった。マリーのなめらかな光沢が、パイロウの五角十二面体の胸を射抜く。
「君は私の影武者だものね。怒るのも当然。心配させてごめんね」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ一つ、お詫びをしようか」
揺れる空気に乗ってマリーはパイロウに滑り寄ると、囁くように言った。
「影武者だけに、とっておきの私の秘密を教えてあげよう。それで手を打ってくれない? パイロウ」
影武者と呼ばれた黄鉄鉱は立ち尽くした。ここにきてパイロウは、金という存在の特性を痛烈に味わされていた。その展性。どんなに打撃を受けても破壊されず、限りなく薄く広がる性質。その延性。どれだけ引っ張ったとて千切れず、形を変えて延びる性質。金というものは無意識にしなやかで、したたかなのだ。金属の塑性というものがこれほど性格に表れるものかと思い至ると、パイロウはくらくらする感覚に襲われた。
顔の横を押さえるパイロウの心持ちを知ってか知らずか、マリーは続けた。
「金にまつわる古い古い言い伝え。君は聞いたことあるかな」
「知るかよ……」
「その昔、金はもっとも貴い金属といわれた」
その声は、若い結晶に絵物語を読んで聞かせるような調子だった。懐かしい昔を話して聞かせるかのようにマリーは語る。
「数多くの命が金を求めたし、金の重さで命の価値が決まることもあった。金はこの地球の支配者だった。そして」
言葉を切ると、ベールをなめる光沢が少し沈んだように見えた。
「金を巡る争いで、多くの命が失われたとも言われてる。遠い、私たちの知らない時代に」
従者が主の真意を図りかねて光沢を明滅させていると、不意にマリーは振り向いて笑った。
「これが金の国に伝わる、真偽不明の昔話。ひどいよね、眠る前に毎晩こんな話を聞かされるんだよ」
何がおかしいのか、金色の幽霊はひだをぱたぱたと揺らした。マリーはひと呼吸置いて言葉を続ける。
「私はずっと、悪いことをして生きてる気がしてた。遠い時代、まだ生命にもならなかった時代の私たちが、どこかで誰かを傷つけてたかもしれない。そう考えるといてもたってもいられなくて、誰かの役に立ちたいっていつも思うんだよ」
だから、とマリーはつややかな箔をひらめかせた。
「私は、金を頼る石がいたら喜んで身を差し出す。壊れた器は直すし、石だって治す。そう、いつか……」
「いつか?」
「骨のない怪物だって、金が何とかしてみせる」
「馬鹿言うな」
パイロウは冗談をいなすように言ったが、マリーの声色は真剣だった。もはやこの友をどうはぐらかしていいか分からず、パイロウは言葉を探した。
「そういうのはもっとこう……そう、硬い石の仕事だ。アンタみたいなヤワな金属が連中をどうできるっていうんだよ」
「それは、分からない、けど」
初めてマリーの光沢が揺らぐ。それでもその金色は真っ直ぐパイロウを捉えた。
「これから分かるよ。私が見つけるから」
予言者のように宣言する主を前に、従者はただ立ち尽くすしかなかった。工房の空気は冷え込み、正午の陽光が冴え冴えと部屋のなかに拡散する。元は何だったのかも分からない細かな粒子が空気中を舞うのを眺め、しばらくの沈黙ののち、ようやくパイロウが口を開いた。
「分かりました。分かりましたよ」
いつも通り舞台演劇のように大仰な身のこなしで数歩歩くと、マリーに背を向けてパイロウはわざとらしく嘆息した。
「アンタを止めてもどうせ無駄ってこったな。だったら俺は俺で我が主の力になりますよ」
「パイロウ」
金色の従者は、振り向きざまに手を差し出した。
「俺が、アンタの無茶しないように動いてやる。だから、馬鹿な真似はすんなよ」
マリーは向けられた手のひらをしばらく見つめたのち、ふわりと空気を切って裾を重ねた。
「ありがとう。君が手伝ってくれるなら、とても嬉しいよ」
パイロウが心から納得したというふうに頷いてみせると、マリーは安堵したように笑った。従者が言葉に出さずに「俺なりのやり方で、な」と付け加えたのには、さしもの賢者も気がつかなかった。
***
黒い御影石の数寄屋は、常に光と影の境界が曖昧だった。障子の雲母越しに入ってくる日差しは床に敷き詰められた白く清潔な砂に吸収されていく。茶色い透過光を眺めながら琥珀の負傷兵は、疼痛の走る胸の傷をなぞっていた。部下の二人はまだ黄金の君と今後の打ち合わせをしているらしい。
不意に戸が開けられる。声がかけられなかったので訝しんで見ると、入ってきたのは金の家主ではなく淡黄色の見知らぬ鉱物だった。
「あの、貴方は?」
「ようよう琥珀のお客様! 傷の調子はどうだ?」
「え。いやまあ、おかげさまで何とか。まだ痛みが酷くて歩くのは困難ですが」
「そうかい。俺はあの金継ぎ師の用心棒だよ。アンタと話がしたくてな」
「はあ……」
琥珀の兵士から多少の警戒を受けながら、パイロウは断りなく隣に腰を下ろした。
「聞いたぜ。骨なしに食われた後、連中を破壊した衝撃で割れちまったんだってな。不運な事故だ」
「我々琥珀は靱性をもちませんから。もとよりこうなることは覚悟の上での兵役です」
「お国のためってわけかい。名誉の負傷だな」
「大したことではありません。内なる羽音が囁いただけです……民を守れと」
負傷兵はそう言うと頬のあたりを撫ぜた。へえ、とパイロウが覗き込んでよく見ると、ちょうどその辺りには樹脂に巻き込まれた羽虫が封入されている。「あまり他者に見せびらかすものではありません」と琥珀は顔を背けた。
「聞かせてくれよ、骨なしがどんな様子だったか。アンタの土産話に興味がある」
「申し訳ない。こういう話はまず、誰にも漏らさず上に報告書を書かなくてはならないのです」
「そう言うなって。共生関係は鉱物の基本だろ?」
「羽音が言っています。特に軽薄な輩には話すべきではないと」
琥珀の兵士はあからさまに胡散臭いまなざしをこちらに向けていた。パイロウはこれ見よがしに肩をすくめると、傍らから何かを取り出す。それは手のひらに収まる小さな黄鉄鉱の欠片だった。
「自己紹介が遅れたな。俺は黄鉄鉱のパイロウだ。アンタ、どんな石だか知ってるかい?」
「知りませんよ」
嘘か真かにべもない返事をよこす琥珀の負傷兵を見ると、パイロウの光沢がぬらりと光った。
「そうか。だったら覚えとけよ。黄鉄鉱は……こうやって叩くと!」
そう言うとパイロウは、両手に持った黄鉄鉱を思い切り打ち鳴らす。その瞬間、部屋の翳りの中に強烈な光を放つ火花が生じた。橙色の星は床の砂に落ちて吸い込まれる。あるいは、すぐ横にいる琥珀の膝の上に落ちた。それは、普通の鉱物であればちょっとした無礼に過ぎない行為だった。が。
「びゃあっ!?」
負傷兵はだしぬけに叫ぶと、飛び上がりそうなほど痙攣した。火花が落ちたその脚——可燃性の琥珀の身体は、石の表面とは思えないほど黒々と焦げている。そこから香を焚いたような独特の薫りが立った。部屋中が甘い芳香で満たされる。
「ハハッ! さすが、琥珀は龍涎香モドキなんていうだけあるじゃねえか! いい薫りで燃えやがる!」
「きっ──貴様! 一体何を!」
「おっとっと、危ねえ!」
動けない琥珀の兵士は片腕に装備したホイール式の静電気発生装置に手をかけた。パイロウは飛びのいてその場を離れる。と同時に、何かの小袋を不自然に取り落とした。黒い粉が、床に敷かれた純白の砂の上でまだらに飛散する。
「二度と同じことをするな! さもないと!」
「お得意の静電気かい? 怖いねえ、でもちっとよく見ろよ」
パイロウは仰々しく両手を広げてみせた。
「今の事故でうっかり火薬をこぼしちまった。ここでまたビリビリを放ったり、火花を熾したりしたらどうなるかなあ、琥珀さんよ?」
「は……なっ──!?」
「あっという間にドカン、メラメラ燃えてアンタはこの部屋の消えない薫りになる」
パイロウは兵士に歩み寄り、真砂の上で膝をついた。甘ったるい薫りが燻ぶるなか、指で琥珀の頬を撫ぜる。
「この羽虫ごと、な」
「!! それだけは……それだけは、やめろ!! 一体、何が望みだ!」
「そりゃあもちろん、面白いオモチャを探してんだよ」
パイロウが顔の下をしゃくると、琥珀の兵士は絶句した。それを見たパイロウが呵々と笑う。
「ハハ、冗談だ! さっきも言ったろ? 土産話が聞きたいんだよ。あの骨なしどもについて、知ってることを全部話せ。俺はこの家の最終防衛ラインとして興味津々なんだ」
「ぐ……む……」
負傷兵はしばらく腕組みしてパイロウを睨みつけていたが、やがて観念したように脱力した。
「……知っているといっても、大した情報はない。連中の巣だの何だのが分かっていたら、初めから苦労はしない」
「へえ、じゃあアンタはお上への報告書に『何にも分かりませんでした』って書くつもりなのかい? 大したもんだ」
「そういうわけではないが……ううむ、どこから話したらいいか」
琥珀の兵士は、隣で胡坐をかくパイロウに向き直った。
「まず、骨なしは鉱物ではない」
「知ってるぜ」
「骨なしはおそらく、我々が『動物』と呼ぶ生物分類に属するものと思われる」
「そうだな」
「で、動物は常に、外部からエネルギーを取り入れる必要がある」
「お前、わざと話を引き延ばしてないか?」
コツコツコツとパイロウが黄鉄鉱を打ち鳴らす。
「わーッ!! ちゃんと最後まで聞け!! ……それでだ。動物がエネルギーを外部から取り入れる行為を、『捕食』という。これすなわち」
「ん?」
「骨なしの連中が鉱物を襲うのは、『捕食』なのではないかと私は考えた」
琥珀の輪郭が部屋の光を映して反射した。パイロウはその光沢を揺らめかせると、話を促す。
「……何でそう思ったんだ?」
「我々、琥珀の国は生体鉱物だ。生物学はそれなりに研究が進んでる」
兵士はいつの間にか、身振り手振りを交えて語るようになっていた。話は進む。
「骨なしどもには、開口部が多数ある。だが今回私が巻き込まれたのは、『口腔』と呼ばれる器官だった。消化管の最前線。これは私しか知らない事実だ。あの『舌』に巻き取られたのは私だけだから……」
当時を思い出したのか、琥珀の光沢がたらりと滴った。そこで言葉を切ると、顔に手を当てながら話を締めくくる。
「というわけで私は、骨なしと捕食の関係性について報告書を仕上げて、国に提出する予定だ。……これで満足か、石でなし」
「……うーむ。その報告書、もしかしたら」
石でなしは、手元の黄鉄鉱を放り投げてキャッチすると呟いた。
「もしかすると、共著者の名を書いてもらうかもな」
「は?」
***
「それは、妙だね」
マリーはその表面の光沢を瞬かせ、ふわりと笑った。工房には夕方の柔らかな翳りが落ちている。得意になって「新情報」を報告したパイロウは、訝しげに光沢を揺らした。
「何がおかしいんだ?」
「あのね、パイロウ。私たち鉱物は、骨のない怪物たちが消化できるようにできてないんだよ。動物が必要としてるのは、もっと柔らかくて分解しやすい別の生物」
「消化。分解」
パイロウが若い結晶のように言われた言葉を繰り返すと、マリーは微笑した。
「つまりバラバラにして吸収するってこと。でも、骨なきもののなかに鉱物を圧砕する器官はない。だから、怪物たちが『捕食』のために鉱物を襲っているというのは、考えにくいね」
教師は解説を終えると、理解を促すようにまなざしを生徒に向ける。パイロウは思わず両手を後頭部に当てた。
「何だよ、空振りかよ……!」
「でも嬉しいよ、パイロウなりに考えてくれたんだね」
間髪入れずにマリーがねぎらったおかげで、パイロウの「あの馬鹿あとで燃す」という毒づきはかき消された。柄にもなく落胆する友の姿を見て、金色の賢者はくすくすと笑う。そして何気ない言葉を発するように、遠くを見やった。
「発想は面白いと思うけどね。でも骨のない怪物はものを食べられるようにできてないと思うよ。そもそも怪物たちには食物を嚙み切るための『歯』すらない、し」
マリーは言葉を切った。沈黙。パイロウがふと顔を上げて見つめると、友の面持ちからいつもの知性が消え、呆けたように空中を見つめていた。
「……おい。おーい? 主さんよ?」
「あっ……ああ、ごめん」
パイロウが手を正面でひらつかせると、マリーは夢から覚めたように意識を取り戻す。
「そうそう。だから怪物の『捕食』説はとりあえず、なしかな」
「ケッ、つまらねえなあ。賢者サマは何でもお見通しかよ」
「でもすごく参考になったよ。それは本当。ありがとうね、パイロウ」
そこで会話を終えると、マリーは手元の作業にまなざしを戻した。金継ぎのために漆を塗る作業がいつもより少しだけ不正確になっているのに、パイロウは気がつくことができなかった。ただ、この季節の工房はやたら冷え冷えする。もう数寄屋の外の日は落ち、晩秋の夕闇が庵のなかに染み入り始めていた。マリーはあと数刻で消え入る光を、静かに反射していた。
***
長い一日だった。パイロウは自室の柔らかな砂を踏み締めると、糸が切れたようにうつ伏せに倒れ込んだ。全身の結晶体が重い。長いこと休んだはずなのに、思い返せば骨なきものと対峙したときからずっと働き続けてきた気がする。とにかく今は眠りたい。寝て、明日からのことはそれから考えよう。マリーの無茶を止める方法も。パイロウの光沢は、最後に点々と輝きを残したかと思うと、きらりと部屋の闇のなかに消えた。
それからたった一瞬のことのように感じた。庭先から、砂利の軋む音がする。小動物でも迷い込んだのだろうかとぼんやり考えていたが、小石の擦れる音は断続的に聞こえてきていた。続いて雷の爆ぜるような音。誰かの低い叫び声。
パイロウは跳ね起きると、部屋にある装填済みの銃を確認して拾い上げる。両脇のホルスターに一挺二挺、左手に三挺目と右手に四挺目。自室を飛び出し、マリーの居室へ向かった。
「おい、奴さんが来やがった。俺が相手してくるからアンタは……」
戸を開けながら言い放ったパイロウは、押し黙った。マリーはその部屋には影も形もなかった。廊下を走って回り、工房を訪ねる。やはりもぬけの殻だ。邸宅内のどの部屋にも友の姿はない。自身の明滅が次第に早くなる。最後の最後に、やけに低く作られたあの出入り口を確認した。にじり口は予感の通り、夜の闇に向けて開け放たれていた。
「冗談よせよ、主さんよ」
焼け付くような感覚を覚えながら、庵の外へ飛び出す。今日は満月だ。水晶の庭園が明かりを受けて光の花を咲かせている。その上で踊るように粘液をきらめかせながら、肉塊が蠢いていた。一つ二つ三つ、それ以上は数えたくない。肉塊の下に、よく見れば二つの結晶があった。琥珀が月の光にきらめく。
「──逃げろ!!」
「──助けて!!」
声が重なり合うと、茶色い透過光は桃色に呑まれて消えた。
骨なきものの一体が、全身の筋肉を収縮させながらのたうち回って向かってくる。鳴動をつぶさに見たパイロウは無意識に激しく光沢を明滅させたが、胸の辺りを占める強大な不安が恐怖よりも勝った。右手の銃の火蓋を開けると、これまでのどの瞬間よりも冷静に照準を定める。引き金を引くと月の光より遥かに明るい火花が起こり、弾が骨なきものの中心を貫いた。黒くきらめくゼリーの爆弾は、その場で破裂する。撃ち終えた銃をその場に投げ捨てた。残り三挺。
手前の同類が弾けて消えたことで、奥にいた肉塊もパイロウの存在に気づいた。その数、四体。うっかり数えてしまった。「すでに足りねえじゃねえか」と言葉に出さずに悪態をつく。桃色の塊が押し合いへし合い、庭園を奥まで見通すことができなかった。探している金色の光が見つからない。
「邪魔だ! どけ!」
苛立ちが光沢の震えを抑えた。左手の銃の火蓋を開け、狙いを定めて引き金を引く。オレンジの星空が生まれ、熱と音が炸裂した。残り二挺。雨のような音を立てて肉塊が爆ぜるのと同時に、別の桃色が突進してくる。間に合わない。パイロウはその場に倒れ伏すように転がった。黄鉄鉱よりも硬い石英が容赦なく身体中を擦り、緑黒色の傷をつける。同時に粘着質な身体がすぐ側を掠った。後のことを考えている余裕はなかった。全身の痛みを忘れ、ホルスターから次の銃を取り出す。銃口が触れるのではないかという距離で弾を撃ち出すと、爆音とともに肉塊が張り裂けた。
残り一挺、と数える前に身体の脇から突き飛ばされ地面に倒れ伏す。その上に桃色の質量がのしかかってきた。右手で肉塊を押しのけるが、脂肪が指の隙間からこぼれ、腕がめり込むだけだった。骨なきものの舌がパイロウの金属光沢を舐め上げる。透明な糸が月の光を反射して光った。
何とか脇に逃れようともがくと、突然上からの圧力が倍加した。さらにもう一体の骨なきものが、重なるようにのしかかっている。「捕食」。初めてその言葉を聞いたとき、漠然としたイメージしか湧かなかった。石ころであるパイロウには、なぜこの生き物がこうも必死に標的へ喰らいつくのか分からない。天敵のいない鉱物にとって、初めて自らを「餌」とするイレギュラーの存在は、絶対的に理解の及ばない恐怖そのものだった。
もはや月の光も届かない柔らかな地獄に押し潰されて、パイロウは必死に過去の経験を思い起こした。何か突破口はないのか。マリーと話したこと。琥珀の兵士を脅したこと。初めて数寄屋に来た日のこと。国から国へ彷徨ったときのこと。走馬灯は一番嫌な部分まで辿り着いてしまった。黄鉄鉱の国で、まったく馴染めなかった歩兵隊のこと。もう何でもいい。肉を押しのけ、ホルスターから最後の一挺を取り出す。薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めながら、身体を記憶と同期させた。構え。狙え。──撃て。
離れて見れば、それは蓮の花のようだった。二体の骨なきものを貫通した弾が、桃色の薄片を飛散させながら夜空に飲まれる。硝煙が辺りを覆い、しばらく石英の庭は群雲の世界だった。そのうち月明かりに閃いて、淡黄色の影が立ち上がる。そのまなざしは庭園の奥へ向けられていた。
これまでの苦労を笑ってしまうような光景だった。たった今撃ち殺したよりも二倍、三倍と巨大な骨なきものが庭園の奥に蠢いていた。そしてその傍らに、探し求めていた黄金色の光がある。しかしパイロウにはそれが何だか分からなかった。
金色の幽霊の姿はそこにはない。代わりにあったのは、宙に浮かぶ歪な金塊だった。極限まで圧縮された、金属の塊。鉱物のパイロウにはそれが何を模ったものなのか分からない。しかしその密度から、おそらく今日の日没から時間をかけて仕上げたのだろうと、場違いな思考が頭のなかをよぎった。ただの物質にしか見えないそれが語りだす。
「ずっと不思議だった。君たちがなぜ鉱物を無差別に襲うのか」
パイロウは目を離せないまま、銃のキーを取り出した。聞きたくない。あれは友の姿ではない。ゼンマイを素早く巻き上げ、火薬と弾丸を銃口に詰める。
「答えは違っていた。君たちは鉱物を襲いたいのではなかった。ただ、『食べたかった』んだ。生命の本能に従って。探していたんだ。己の『歯』にふさわしい石を」
燧石の取り付けられたアームを上げた。手が震えて上手く火薬を取り出せない。馬鹿が、何やってる。火皿を開けて点火薬を注ぐ。金属の箱は、聞いたこともないような明朗な声で叫んだ。
「聞け、牙をもたぬ獣の成れの果てよ! 私はいと貴き金の国のマリー! この身を歯と為し、果てなき悪食に終止符を打て!」
宣言に呼応するように骨なきものがぱっくりと口を開けた。巨大な金歯がその闇へ飛び込んでいく。パイロウは火蓋を開け、引き金を引いた。割れる声で叫ぶ。
「マリー!!」
火花が真昼の光よりもさらに赤く爆ぜる。一発の銃声が響いた。弾は肉塊の表面をなぞって消えていく。口がゆっくりと閉じられるとき、金色が最後に月の光を反射した。心底意外そうな、聞き慣れた声がした。
「——パイロウ?」
唇が蓋をする。赤子が食べ物を頬張るように、全身が胎動した。肉塊はしばし瞑目している。パイロウは引き金を引いた姿のまま固まっていた。いや、その手は震えていた。硝煙が風の流れに吹き消されていく。一瞬が一万年に、一億年にも感じられる時間が続いた。やがて骨なきものは、ゆったりと身じろぎをした。睫毛がひらめき、瞳が金色の射手を認める。
次の瞬間、パイロウは地面に倒れ伏していた。柔らかな脂肪はパイロウを突き飛ばし、口腔を開け涎を垂らしていた。骨なきものの本能は鎮められていない。まだその魂は、石を内部に求めている。
「……ハハ」
見上げるほど巨大な肉塊を前に、パイロウは笑った。その手から銃が滑り落ち、乾いた音を立てて砂利にぶつかった。残りゼロ挺。月明かりに照らされて光る桃色が、蠢きながら迫ってくる。
「ハハ、ハ、ハハハハハハ」
腹からの笑いが止まらない。金属質の身体がぬらぬらと光る。どうすればいいのかすべて分かっている気がした。取り出したのは火薬の小袋だった。
「そうかい、それがアンタの答えってわけかい」
小袋を宙に向けて放り投げる。漆黒の火薬が、月の光を汚すようにばら撒かれた。反対の手で黄鉄鉱の欠片を逆手に持つ。
「だったら、道連れなんか御免だぜ」
骨なきものがその体躯を持ち上げ、パイロウに覆いかぶさろうとしたそのとき。パイロウは、手にした黄鉄鉱で自身の肩を力の限り抉った。死んだ欠片同士とは比べ物にならない、生きている火花が夜空に舞い散る。オレンジ色に光り輝く鮮血が閃いたかと思うと、火花は宙を舞う火薬と確かに触れ合った。
「テメエひとりで死にな」
光と熱が轟音を立てる。皮膚と毛が焼けるのを見た。パイロウは吹き飛ばされると、石英の砂紋をかき消すかのように転がされ、やがて花崗岩にしたたかにぶつかって止まった。硫黄の匂いがする。それは自身の金属が化学反応を起こした匂いだと、パイロウは生涯で初めて気が付いた。そのままぴくりとも動かず、九十度回転した世界をただ見ていた。
骨なきものは黒く変色していた。爛れた皮膚がケロイドとなって無残に表面から剥がれ落ちている。傷口からは黄色い組織液が滴っていた。しばらくゆっくりと呼吸するように胎動したあと、砂利を鳴らしながら、ゆっくりと、それでも確実にパイロウの方ににじり寄って来ていた。パイロウはもう動く気がしなかった。
刹那、視界が白く染まる。乾いた音が響くと、小さな雷のようなものが空気中に光った。黒焦げになった骨なきものはその刺激を嫌い、のろのろと雑木林の方へ逃げていく。その光景をぼんやりと見送っていると、背後のさざれ石が軋む音を聞いた。
「貴様には本当に、絶対に、とことん、金輪際うらみしかないが」
月の光が、蜜の色をした輪郭を照らし出す。這いつくばる琥珀の兵士は、ホイールから手を離さずに続けた。
「黄金の君は貴様を高く買っていた。あの方を悲しませるべきではないと、内なる羽音が言っている」
***
動ける者はいなかった。琥珀の兵士はうつ伏せのまま、何も知らずに明日迎えに来るであろう祖国の部隊を黙って待っている。無理に動いたせいで、金継ぎをした部分の亀裂から泣きたいほどの痛みが走るのを堪えていた。パイロウは光沢を弱弱しく明滅させながら、途切れ途切れに話した。
「なんで、なんで」
「何だ」
「なんで、殺さなかった、あれを」
琥珀の兵士は呆れたように答える。
「我々の静電気装置は致命傷にならない。貴様のような小さな金属ならまだしも、あのような巨大な骨なしを仕留めることはできない」
パイロウはしばし黙った。琥珀は一瞬、この金属が本当に死んでしまったのではないかと振り向いたが、やがて次の言葉が出てきた。
「アイツ、この俺を、置いていきやがった」
琥珀は、こいつは喋っていないと狂ってしまう病気なのだとようやく理解し、黙って聞いていることにした。
「置き去りにして、何も変えられねえで、死にやがった、ざまあねえ」
かなり聞きたくなかったが、日が昇り迎えが来るまではたっぷり時間がありそうだった。歩き去ることのできない兵士はただ、頬の羽虫を撫ぜていた。
「こっちの気も知らねえで、自分を削って、勝手に死ぬのが賢者のやり方ってんなら」
誰にも見られないまま、パイロウは緑黒色の傷跡を月明かりに照らし呟いた。
「俺は愚者でいい。愚者の黄金だ」
***
磁鉄鉱の国は水辺の園だ。研究所と研究所の間に水路が張り巡らされ、磁鉄鉱を生み出すプランクトン──磁性細菌を培養している。水面を見つめていた鉄色の科学者は八面体の頭を捻ると、やがて思いついたように振り向いて小石を投げた。放物線を描いたつぶては、黄金色の頭に当たって地面に転げる。
「痛ってえな、何しやがる」
「だってキミ、磁力効かないんだもん! 用があるときはこうするのが一番早いもんね」
「声をかけりゃいいだろ、声を」
「そんなことよりパイロウ! キミって黄鉄鉱だったよね!」
磁鉄鉱の研究者はお構いなしに、周りに星を飛ばしながら尋ねた。嫌な予感がする。
「だったら、何だよ」
「お願い! 一生の頼みだから、黄鉄鉱の光電変換効率をもっと底上げしてくれない?」
「コーデン、なに?」
「もうちょっとで黄鉄鉱を使った太陽電池のいいアイデアが浮かんできそうなんだよ~! ね、ちょっとでいいから!」
「アンタ、磁力の専門家だろ。細菌の世話だけしてればいいだろうが」
科学者はえへんと胸を張る。
「ワタシの才能はこの国の学問領域に収まっていられるほど狭量ではないのだよ!」
「何でもいいが、俺とアンタの関係は用心棒と雇い主だ。契約外の仕事は御免だね」
「えー! パイロウのケチ!」
「俺は自分のためになることしかしねえんだよ。愚者の黄金ってやつだ」
地団駄を踏む雇い主を尻目に、パイロウはそっぽを向いて膝に肘をついていた。磁鉄鉱は指を指して食い下がる。
「出た、それ! 何でパイロウって金に憧れてるの? 本当は合金になって加工されたかったとか?」
「憧れてねえ。俺は俺だ」
「でも、純金の鎖を持ち歩いてるよね?」
膝から肘がずり落ちる。パイロウは立ち上がって科学者につかみかかった。
「テメエ! 何でそれを知ってやがる!」
「えー、ほら! こないだ寝てるときにこっそり硬度調査と持ち物検査をだね」
「このイカれ学者が!」
「で、何で何で? 金が好きなの?」
パイロウは傍らに置いた銃を押し掴むと、銃口をぴったりと研究者の頭につけた。
「これ以上フザけたこと言ってるとテメエの頭が砂鉄になるぜ」
「わー! 暴力はんたーい!」
パイロウが投げ捨てるように磁鉄鉱を離すと、科学者は「こわいこわーい」と踊るように走り去っていった。パイロウが片手を顔に当てて被りを振ったのち、懐を探るとそこには変わらず冷たい感覚があった。
「黄金サマ、ねえ」
誰にともなく呟くと、大げさに肩を回してその場を立ち去る。水路際からは、誰の姿もなくなった。
それは、金色の射手がとある旅の一行と出会うほんの少し前の出来事である。
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