【原利土1819IF】頸と心21
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二十一 白
煙が薄れていく。
黒は目を開けた。耳の奥で高い音が鳴り続けている。視界が揺れる。焙烙火矢。爆発。そこまでは覚えている。身体を起こした。痛みはあるが、骨は折れていない。あの距離で——なぜ。
答えは、すぐ傍にあった。
利吉の背中が焼けていた。
忍装束が炭化し、その下の肌が赤黒く爛れている。肩から腕にかけて岩片が食い込み、血が泥と混じって黒い水溜まりを作っていた。
「利吉」
声がうまく出なかった。喉が灼けている。それでも黒は声を絞り出した。
「利吉!」
黒は利吉の身体を抱き起こそうとした。手が血に濡れた。温かい。まだ温かい。生きている。まだ生きている。でも──。
利吉の目が、薄く開いた。
「……クロ」
声が掠れていた。ほとんど聞き取れないほど弱い。
「どうして……庇った」
黒の声が震えた。
「どうして──馬鹿、お前は大馬鹿野郎だ!」
利吉は答えなかった。ただ、血の滲む唇を微かに動かして黒に言う。
「いいから……逃げろ」
喉が詰まっている声だった。血の気配が混じっている。
「喋るな! 私が──私がなんとかする」
「無理だ……」
利吉は笑おうとした。唇の端が、わずかに持ち上がった。
「分かっている……だろう」
黒は首を振った。見たくない。この顔を見たくない。死にゆく者の顔だ。かつて、焼け落ちる家の中で見た顔と同じだ。父の顔。母の顔。家臣の顔。みんな同じ顔をしていた。黒を逃がして、死んでいった者たちの顔。
少し離れた岩陰に、もう一つの人影があった。焙烙を投げた追手だ。爆発に巻き込まれ、岩に埋もれて動かない。死んでいる。自分が投げた火器に自分で焼かれたのだ。だがもう一人がいない。黒は周囲を窺った。気配がある。近づいてくる。生き残った追手だろう。爆発から距離を取っていたらしいがこちらに向かってきている。──時間がない。
「……クロ」
利吉が呼んだ。黒は利吉を見下ろした。焦点の合わない目が、それでも確かに黒を見ていた。
「……あの時」
利吉が言った。
「私を庇った父の気持ちが……やっと分かった」
「やめろ」
黒は利吉の口を塞ごうとした。聞きたくない。聞けば、これが最後になる。この男の最期の言葉になってしまう。
「私はずっと……父の傷を負い目に思っていた」
利吉の声は途切れ途切れだった。息をするたびに、唇の端から血が流れる。それでも言葉を紡ぐことをやめなかった。
「だが……父はきっと、誇らしかったと思う」
利吉の手が持ち上がった。震える指先が、黒の頬に触れた。冷たい手だった。あの夜、雪の中で凍えていた時よりも更に冷たい。命が、指先から逃げていく。
「お前を庇った者たちも……誇らしかった筈だ」
黒の脳裏に、炎が蘇った。
焼け落ちる家。父の背中。母の悲鳴。乳母の手。家臣たちの刃。みんな死んだ。みんな自分を逃がすために死んだ。そして自分は、その死を背負って生きてきた。こんな自分のために、なぜみんな死んでいくのか。
「お前は……お前の頸を軽いと言ったが」
利吉の目が、真っ直ぐに黒を見た。朦朧としながらも、確かな意志を持って。
「お前の頸は、ちゃんと重い」
黒の目から、涙が零れた。
「守られたのは……子供の頸ではない」
利吉の声が、細い糸のようにさらに弱くなる。
「お前の頸だ」
足音が聞こえた。
追手だ。生き残った若い方の追手が近づいてくる。煙が晴れればすぐに見つかる。利吉もそれを聞いていた。黒の手を握った。握るというより、触れるだけの力しか残っていなかった。それでも、押し出すように言った。
「もう……行け」
「利吉」
「私も……すぐに追いつく」
嘘だ。
分かりきっていることだ。追いつけるはずがない。この傷で、この身体で。利吉は死ぬ。黒を逃がして追手の前に身を晒して、一人で死ぬ。
「もし──すぐに追いつけなかったら」
利吉の声が、途切れそうになる。
「忍術学園に行け。あそこの……学園長なら、父と母のいる場所を知っている」
黒は動けなかった。どうしてそんな遺言のようなことを言う。一緒にいると言った。春になったら一緒に家に行くと言った。父と母に会わせると言った。なのに──。
「行け」
利吉が言った。最後の力を振り絞るように。
「……行け、クロ」
追手の気配が、すぐそこまで来ている。枯れ枝を踏む音。荒い息遣い。殺意を纏った足音。黒は利吉の手を握り返した。強く──痛いほど強く。そして、その手を離し、立ち上がった。
黒は走った。振り返らなかった。振り返れば戻ってしまう。それは利吉が望むことではない。歯を食いしばってひた走る。獣道だ。枝が顔を裂く。棘が掌を切る。足が泥に取られて膝が折れ、また立ち上がる。背後で追手の怒号が聞こえた。利吉を見つけたのだ。それでも黒は止まらなかった。
息が切れる。足が縺れる。背後から追手の気配が迫る。けれども黒の頭は、追手のことなど考えていなかった。
──なぜだ。
なぜ利吉が死ななければならない。
私のせいだ。私がこの時代に落ちてきたから。私があの山に転がり込んだから。利吉は私を拾って。私を匿って。私のために敷物を作って、私のために山を降り、私のために市で買い物をし、そして私のために──背中を焼かれた。
自分がここに来なければ。
自分がこの時代に落ちてこなければ、利吉は巻き込まれることもなかった。追手に見つかることもなかった。焙烙火矢を浴びることもなかった。あの冷たい手で、自分の頬に触れることもなかった。
自分だけが救われて。
いつも、自分だけが。
まただ。また同じことを繰り返している。父も母も乳母も家臣も、みんな自分を逃がすために死んだ。そして利吉も。お前の頸は重いと、利吉はそう言った。なぜだ。なぜ私のために死ぬ。私の頸などそんなに重くない。重くあってたまるものか。こんな──こんな、誰も守れない、何も救えない、逃げることしかできない男の命など。
その時、あの老爺の声が耳に響いた。
『戻りたければ、足掻くことじゃ』
枯れた声。飄々とした口調。真っ白い髪の老爺。
黒の足が止まりかけた。
戻る。六年前に。この全てが始まる前に。六年前に戻れば、やり直せるだろうか。利吉と出会わなければ──いや、違う。出会い方を変えれば。何かを変えれば。
黒は再び走り出した。
この先は崖だ。さっき利吉と見た、あの切り立った崖。自分があの時落ちた崖とよく似た崖。追手の足音が近づいてくる。もうすぐ追いつかれる。だが構わない。どうせ崖から飛ぶのだ。追手に殺されるか、崖から落ちて死ぬか。どちらにしても同じだ。いや──同じではない。崖から落ちれば、戻れるかもしれない。やり直せるかもしれない。
黒は止まらなかった。必死で繁みを掻き分けた。枝が顔を引っ掻く。棘が手を切る。それでも腕を振り回し、足を動かし、前へ前へと進んだ。木々の間を抜けた。
——足掻くことじゃ。引っかかれば、うまくいく。
足掻け。引っかかれ。何に。何に引っかかればいい。分からない。分からないが走るしかない。足を止めれば死ぬ。死ねば利吉の死が無駄になる。それだけは——それだけは嫌だ。
視界が開けた。足元の地面が途切れている。その先は虚空だ。遥か下に岩場が見える。黒は跳んだ。身体が宙に投げ出される。風が耳元で唸る。視界が回転する。空と地面が入れ替わる。──足掻け。
黒は手を伸ばした。腕を振った。足を蹴った。何もない空中でそれでも何かを掴もうとした。岩でも、草でも、何でもいい。引っかかれ。引っかかれ。引っかかれば、うまくいく──。
指先に、何かが触れた。枝か。蔓か。それとももっと別の何かか。分からない。ただ、確かに何かに触れた。何かを掴んだ。
その瞬間、天地を割くような轟音が響いた。
あの時と同じだ。あの時、崖から落ちた時と同じ音。世界が軋む音。時が裂ける音。利吉の顔が浮かんだ。冷たい手と、掠れた声。いとおしそうな、優しい声だ。
『お前の頸は、ちゃんと重い』
──利吉。
黒は心の中で名を呼んだ。何かが閉じる音がした。背後で──あるいは頭上で、あるいは世界そのものの奥で、一冊の書物が閉じられるような静かで決定的な音。
黒の意識は、白い光に呑み込まれた。
***
白かった。
それだけが分かった。視界の全てを白が侵し、他の色を許さなかった。
それは、花だった。一面の白い花。風に揺さぶられて波打つ花弁が、落ちた身体の周囲で細かく震えている。曼殊沙華──否。違う。これは高山の花だ。名も知れぬただの山の花。それでも黒の瞳にはその花があの花に重なって見えた。
あの野原。利吉が天界の花と呼んだ白い曼殊沙華。見る者の悪業を払うという花。あの日利吉の腕の中に沈められて、赤い記憶を塗り潰した白。
身体中が軋んでいた。骨が何本か逝っているかもしれない。だが肺は動いている。心臓も打っている。何かの上に落ちたのだ。柔らかいものの上に。背中の下で敷き布が皺を寄せ、重箱の蓋が外れて中身が派手にぶちまけられていた。握り飯、漬物、焼いた川魚。野遊山の弁当だ。
(ここは、どこだ)
問うより先に、気配が降ってきた。崖の縁から黒い影が身を躍らせ、こちらへ落ちてくる。追手だ。黒は反射的に起き上がろうとして膝が折れた。落下の衝撃が全身を蝕んでいる。指先すら思うように動かない。
その時──苦無が閃いた。
黒のものではない。横合いから走った銀の軌跡が、落下してきた追手の腕を切り裂いた。血飛沫が白い花弁の上に散り、赤い斑点を刻む。追手は声もなく崩れ、花の中に沈んだ。
「──下がっていろ、利吉!」
男の声だった。低く、鋭く、迷いのない声。
「父上!」
高い声だ。子供の声がした。黒の心臓が止まった。
──利吉。
父と呼ばれた男が追手と対峙するのを、黒は地面に伏せたまま見ていた。中年の男だ。精悍な体躯に無駄を削ぎ落とした動作。手練れ、という言葉では足りない。一つ一つの挙動に年季と矜持が染みている。一流の忍だ。
追手は崖から落ちた衝撃で既に消耗していた。男の苦無がその息の根を止めるまでに、三呼吸とかからなかった。血溜まりが白い花畑に広がり、やがて土に吸われて消えていく。
静寂が落ちた。
男が振り返り、黒を見下ろした。鋭い目だった。味方か敵か値踏みする目。黒の纏う装束──隣国の忍のそれを見て、同じ装束の追手に追われていたという状況を読み解くような目だった。
「抜け忍か」
小さく、しかし正確に呟いた。
「……はい」
黒は嘘をつかなかった。嘘をつく気力もなかったし、嘘をつく気もなかった。
「大丈夫か。動けるか」
「少しなら……」
男は腰を屈め、黒の腕を取った。その手は硬く、温かかった。
「父上」
声がした。黒はその声の方を見た。声の主は十二ほどの少年だ。黒は息を呑んだ。
整った顔立ち。目の形、眉の角度、形のいい唇。確かに利吉の造作だった。だがその目が持つ熱が違う。そこにはあの凍てついた冷たさがない。刃のように研ぎ澄まされた孤独がない。完璧であることに縛られた、あの切迫した光がない。
子供の目だ。好奇心と、警戒と、それから台無しにされた弁当への不満が混じった、年相応の子供の目。
「お怪我はありませんか、父上」
「大丈夫だ。お前こそ怪我はないか」
「ありません」
少年は潰れた握り飯と土にまみれた焼き魚を見下ろし、眉を寄せた。
「でも──せっかくの野遊山がおじゃんですね」
冷めた声だった。怒っているのでも悲しんでいるのでもなく、ただ事実として述べている。その乾いた物言いに、黒はあの利吉の面影を見た。同じ血が通っている。けれどもその冷静さの底にはあの利吉にはなかった余裕がある。追い詰められていない人間の余裕。自分を罰していない人間の余裕。この子は自分のことを──子供であることを罪だとは思っていない。
「おい」
男が声をかけてきた。
「とりあえずうちに来い。手当てをしてやる」
「……いいのですか」
男は黒を見た。その目が少しだけ緩んだ。
「敵ではないだろう。敵なら、子供をあんな目では見ん」
笑った。目元が利吉に似ていた。否──利吉がこの男に似ていたのだ。あの冷たい眼差しの裏に隠されていた不器用な優しさは、きっとこの父から受け継いだものなのだろう。
「あなた」
女の声がした。凛とした声だった。振り向くと一人の女が近づいてくるのが見えた。芯の通った顔立ち。強い目をした美しい女だった。
「この方をどうされるのですか」
「うちに連れていく。追われているらしい」
女は黒の装束を見た。微かに眉を寄せたが、それ以上は問わなかった。
「手当てが必要ですね」
それだけ言って、踵を返した。
男が黒の肩を支え、歩き始めた。利吉が後からついてくる。ちらちらと黒を見ては、潰れた握り飯の方を恨めしげに振り返っている。
青い空だった。
雲が高く、風が柔らかかった。春の空だ。
戻ってきたのだ。
六年前の、利吉がまだ子供だった頃に。利吉の父が傷を負う前に。あの罪悪感が利吉の心を凍らせる前に。
自分が落ちてきたから、この父親は警戒していた。だから追手が来た時に即座に迎撃できた。利吉は人質にならなかった。父親は傷を負わなかった。父の傷のことをずっと負い目に思っていたというあの言葉を、この利吉は一生口にしなくて済む。
黒は地面を見つめた。
白い花が風に揺れている。天界の花ではない。ただの山の花だ。けれどその白さは、あの野原の曼殊沙華と同じ色をしていた。
(利吉……)
胸の中で名を呼んだ。自分にあの白い花の存在を教えてくれた男の名を。
「おい……大丈夫か?」
黙り込んだ黒の肩を男が揺すった。黒は口を開こうとしたが、声が出なかった。代わりに涙が落ちていく。止められなかった。涙は頬を伝い、顎から零れ、白い花の上に落ちて染みを作った。
「……父上。この人、泣いてますよ」
少年が不思議そうに黒を覗き込んだ。
「怪我が痛むんでしょうか」
──違う。
黒は心の中で答えた。
違う。痛くはない。嬉しいんだ。お前が子供のままでいられることが。お前の目にあの冷たさがないことが。お前が父を「父上」と呼んで、潰れた弁当に不満を零して、見知らぬ男の涙を不思議そうに覗き込める、ただの十二歳でいられることが。
黒は手を伸ばしかけた。少年の頬に触れようとして──途中で止めた。
この子は、自分を知らない。
「……すまない」
掠れた声を絞り出した。
「弁当を、台無しにした」
父と子が顔を見合わせた。間があって、少年が笑った。
「そんなことで泣いてるんですか」
屈託のない笑顔だった。あの利吉が殺し続けた「子供」がそのままそこに息づいている顔。
「弱虫ですね」
──ああ。
黒は思った。
これで良かった。
これで良かったんだ。
お前の頸は重い。利吉がそう教えてくれた。だから私はここにいる。足掻いて引っ掛かって生きて冬を越えて、春の山に行って、お前の家族と会って。
家に来いと言われた。本を読めばいいと言われた。いくらでも読めばいいと。庭で花を見ようと言った。──利吉と一緒に。
意識が遠退いていく。身体が限界を告げている。心の中で、ずっと白い波が寄せては返す。焼けた家も血の臭いもあぜ道を走った夜も、消えてはいない。消えることはないだろう。けれども今、視界を満たしているのは白だった。利吉がくれた白だった。
白い花。白い山。白い雲。
そして、利吉が笑っている。
見る者の悪業を払う花の中で、黒はそっと目を閉じた。
***
春の匂いがした。
土の匂い。草の匂い。炭の燃える微かな匂い。鼻腔の奥に沁みるそれらの匂いが、黒の意識をゆっくりと引き上げた。
目を開けると暗かった。板張りの天井が低い。狭い部屋だった。納戸だろうか。壁に沿って古い行李や藁束が積まれ、黒はその隙間に敷かれた薄い布団の上に寝かされていた。身体のあちこちに布が巻かれ、手当てをされている。包帯の下で傷が疼いたが化膿の気配はない。手際のいい処置だった。
薄い板壁一枚隔てた向こうから、囲炉裏の火が爆ぜる音がした。炭の匂いはそこから漂ってきている。黒は呼吸を殺し、気配を探った。たとえ助けられた場所であっても、目覚めて最初にすることは変わらない。人数、距離、武装の有無。
板壁の向こうに一人。呼吸の浅さと軽さからして大人ではない。子供だ。あの男──利吉の父親はいない。女もいない。子供が一人で囲炉裏の番をしている。随分と不用心だ。
黒が身じろぎした瞬間、板壁の向こうの気配が動いた。足音が近づき、納戸の戸が引かれる。光が差し込んだ。居間の障子越しに入ってくる柔らかい光を背に、少年が立っていた。
「起きましたか」
利吉だった。十二歳の利吉。腕を組み、納戸の入口に片方の肩を預けて、値踏みするような目で黒を見下ろしている。
「……ああ」
「父上から仰せつかっています。目が覚めたら水を飲ませろ、粥を食わせろ、包帯を替えろと」
淡々と、事務的に述べた。声に子供らしい甲高さはあったが、物言いは妙に乾いていた。利吉は椀に水を汲んで戻ってくると、黒の枕元に置いた。手渡すのではなく、置いた。
「飲めますか。自分で」
「……飲める」
黒は身を起こそうとして、肋が軋んだ。息を詰めて堪え、どうにか上体を持ち上げる。椀を取って口をつけた。冷たい水が喉を下り、臓腑に沁みた。
利吉はその様子を、腕を組んだまま眺めていた。手を貸す気配はない。かといって冷淡というわけでもなく、淡々と観察しているという風情だった。警戒もあるだろうが、どちらかと言えば怪我をした山の獣を見る目に近いように思える。最低限の世話は焼くが必要のないことはしない。その線引きが十二にしては妙に明確だ。
「ご両親は外出しておられるのか?」
「はい。父上はこの辺りを見回っておられます。母上は薬草を探しに行きました。あなたの傷に使う薬です」
「……すまない」
「謝らなくていいです」
素っ気なかった。だが嫌味な言い方ではない。黒は少年の顔を見た。
(似ているな)
あの利吉に。物言いの歯切れの良さ。他人に媚びない角度。同一人物だから当然だが、その乾燥した態度の質がまるで違う。あの利吉の冷たさは刃だった。自分自身に向けた刃を、他人にも見せているだけの側面に過ぎなかった。この少年の素っ気なさにはそういう痛みがない。むしろこれはおそらく虚勢だ。両親がいない中、自分がしっかり見なければという虚勢。山育ちの、人見知りの裏返しの、十二歳の生意気だ。
「包帯、替えますね」
利吉は包帯と水を入れた桶を持ってきた。手つきは拙くはないが、丁寧でもない。父親に教わったのだろう。見よう見まねの、しかし度胸だけはある手つき。巻き直しながら傷口を見て、顔色一つ変えない。
「ずいぶん傷だらけですね」
「ああ」
「古い傷も多い。ずっとこういう暮らしをしていたんですか」
遠慮のない問いだった。黒は少し間を置いて答えた。
「……まあ」
「ふうん。弱いからこんなに傷だらけになるんですかね」
その一言の中に、少年の矜持が妙にはっきりと覗いていた。自分ならこんなぼろぼろになるようなことはしない、と言いたいのだ。言わないが、顔に書いてある。
黒は少年の横顔を見ながら、思った。
(クソガキだな)
不意に、腹の底から何かがこみ上げた。
おかしかった。何がおかしいのか自分でもよく分からないのにおかしかった。あの利吉の幼い頃がこれなのだ。この生意気で素っ気なくて、人を侮ったようなことを言う十二歳が。
笑いが漏れた。声にはならなかった。唇の端が持ち上がり、肩が小さく震えただけだった。だがそれは確かに笑いだった。いつ以来だろう。自分の口がこういう形をしたのは。黒は笑った。笑えていた。そして──泣いていた。
笑いがいつの間にか涙に変わっていた。境目は分からなかった。頬を伝うものが笑いの残滓なのか涙なのか、自分でも判別がつかない。ただ胸の奥で何かが決壊して、温かいものが溢れ出していた。
利吉は、こういう子供だったのかもしれない。父が傷を負う前の、罪悪感に蝕まれる前の利吉は。あの氷のような目になる前の利吉は。生意気で、素っ気なくて、弱虫を笑って、人の生き様に口を出すような──ただの子供だったのかもしれない。
そしてこの子は、きっとそのまま育つのだ。父の傷を背負わず、子供であることは罪だと自分を縛らず、あの過剰な完璧さで自分を殺し続けなくて済む。この子はこのまま生意気で不遜な子供時代を終えて、きっと利発で度胸のある、立派な忍に育つのだろう。
いつの間にか粥を持ってきていた利吉は、黒の顔を見て足を止めた。
「……また泣いてるんですか」
呆れた声だった。
「昨日も泣いて、今日も泣いて。ほんとに忍者ですか、あなた」
黒は袖で目元を拭った。
「……すまない」
「謝らなくていいですけど。食べてください。粥が冷めます」
利吉は黒の前に椀を置いた。白い粥だった。湯気が細く立ち上り、春の光の中で揺れている。
「ありがとう……いただくよ」
「どうぞ」
利吉は黒の向かいに座り、また腕を組んだ。黒が粥を口に運ぶのを、逃がさないように見ている。父に言いつかった仕事を全うするつもりなのだろう。粥は薄味で、少し煮すぎていたが、温かかった。
──ああ。
黒は思った。
温かい。
たったそれだけのことが、今の自分には途方もなく重かった。
後
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