獣の敗北

 あいつのことが好きだと気づいた時、胸の奥がざわりと揺れた。それは俺の世界がいつもと違う色になる合図だと思って、なにせ一瞬のことだったのもあり気にも留めていなかった。
 もしかしたら"そう"だという事実を認めたくなかったのかもしれない。自分の勘を、初めて蔑ろにした。
「圭…?」
 絞り出すような声は聞いたことないくらい切実で、甘かった。
 これはあの時の胸のざわめきを、一瞬だけ血が逆流して息が詰まった違和感を、自分の淡い気持ちの方を優先して無視した俺の落ち度だ。
 記憶を取り戻して智将として立ち振る舞う要圭を見た時のあいつの表情はしばらく忘れられないだろう。
 どこか泣きそうなのに、待ちわびていた好物をやっと差し出された子供のような恍惚とした眼差し、存在を確かめるために少しも目を離さないでいる様子、そのすべてが物語っていた。
 あいつの心の中にずっといたのは要圭だけだったのだ。
「そんな顔するなよ」
 要圭から、ぞっとするほど優しい声が聞こえる。
 清峰にも俺たちにも使ったことのない特別な声なんだろう。それだけで分かる。要圭にとって特別なものは清峰と野球だけじゃなかったのだ。
 あの嫌な予感がした時に引いておけばよかった。お前のことが好きだなんて自覚しなければよかった。
 いつか伝えたいと思っていた言葉がたくさんあったのに、今はもう薄暗い闇の底に吸い込まれて何も思い出せない。
 2人の視線の間にはまるで弾道が引かれているかのように真っ直ぐかち合っていて、俺の入る余地なんかなかった。

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