白
「……。」
真夜中、ふと目が覚める。
背後から延びる暖かい腕の中に守られている。その腕の主は、滾々と静かに眠っている。身じろいでも、目が覚める気配はない。そうっと、向かい合わせに身体を反転させる。
冷えた空気に、徐々に意識が浮上し明確になっていく。目の前にあるのは無垢な顔。静かな吐息が心音のようで、耳にするだけで安堵する。
そんな時が来るとは、思いもしなかった。その腕の中に自分がいることも、尚更。そっと顎のラインを左腕の指で辿る。少しやつれたかもしれない。
このところ、会えていなかった。どうしているのか、気にならなかったといえば嘘になる。いつまで心配するんだと彼が言うから、あまり口にすることはなかった。こちらにも稼業というものががある。お互い、いい大人だからと振る舞っていた。
けれどこうして近づくだけで。
「………。」
気づかれないように腕からすり抜け、寝台に腰掛ける。脱ぎ捨てていたドレスシャツを拾って肩にかけた。
遅くても帰ってきた彼を迎えることもできなかった、とぼんやりと思い起こす。今日も来ないと思っていたから、早く寝台に横になったら、すぐに眠気に襲われた。彼がここを訪れたのはその後だったのだろう。スーツの上下がカウチソファの背もたれに掛けられていた。シャツと靴下はその近くに落ちている。拾って自分のものと一緒にして立ち上がった。
振り返ると、シーツに覆われたそれがわずかに、そしてゆっくりと上下している。眠りの世界にまだいることを示している。静かな寝息。毛布を直して肩まで覆ってやると、起きかけの子供のようにむずかる様子に、口元が少しだけ緩んだ。まだ、眠りの世界で休むといい。
静かに寝室を後にする。向かう先はランドリールーム。洗濯物を洗濯機に入れて、タイマーをかける。顔を洗い、新しい下着を身に着ける。さすがに肌寒さを感じてガウンを重ねた。
キッチンに向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ポットに注ぐ。スイッチを押して数分待ち湯が沸くと、マグに注ぎ、引き出しから取り出したティーバッグを放り込む。心持ちが穏やかでないので、以前彼から安眠できるらしいと聞いたカモミールを選んだ。
放り込んですぐ香りが立つ。湯気を吸い込めばわずかに乾き気味だった声が蘇る気がした。それを手にしてリビングに向かう。テーブルにマグを置き、カーテンを少しめくると、窓の向こうは静寂の世界だった。その隙間から、部屋に明るさをもたらす。
いつもなら都心の高層ビル群が見えるはずなのに、舞い散る白い結晶たちの向こう側で烟っていた。今晩は大雪に注意、とテレビニュースで伝えているのは耳にはしていたが、こんなに急に降るとは。
カーテンを大きく開く。寒さが増すのは構わなかった。大きく息をついて、窓のそばのソファに座り込む。言葉もなく、外を眺める。雪は止みそうになく、むしろますます勢いが増しているように思える。
床暖房は弱くかけているものの、少し冷えたように感じ、足を抱え込もうとした。ふと硬いものが足に触れ、よくよく覗き込めば、彼の鞄が脚元に置かれている。その上が少しだけ濡れていた。おそらく傘も差さずにここまでやってきたのだろう。仕方がないなと鞄を抱え上げ、袖で表面を拭い、ソファの反対側にそっと置いた。ため息をついて胡座をかき、クッションを抱え込む。
傍で静かに佇むその色を眺める。いつだったか、使い込まれた鞄のハンドルが擦り切れかかっているのを理由にして贈った。それ以来時々の修理を挟みながら、永きにわたって彼の側にあり続けている。渋みのある、しかし鈍く艶めくその色が経た時間を物語っている。
少しばかりの野心と狡猾さを持ちながら実直さが勝る彼は、身を飾ることに関しては関心が薄かった。人前に出ることが生業の一部である自分からしてみれば、あれこれ言いたくなるほど。時計やアクセサリーの類、ネクタイピンでさえあまり興味がないようで、どうしたものかと考えに考えた末の贈り物だった。他にもいくつか贈ってはいるが、一番永くそばにいるのはこの鞄だった。互いの行き来がなくても、これがそばにいる。自分がいなくても。
テーブルにおいたマグは、物思いに耽る間に温みがなくなり湯気も消えた。手を伸ばし、再び口に含む。浸かりすぎた茶葉の苦味が喉をざらりとなでていく。
静かにマグを置き、口をつけたところを親指で拭う。鈍い音が、この静けさの中妙にうるさく聞こえる。目の前の雪は止みそうになく、自分の心が徐々に傾くのも止められそうになかった。
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