君が迷子にならないように

「丹恒、一緒にいこう」
「……先に場所と目的を言え」

その日、いつものようにふらりと資料室にやってきた星は開口一番そう言った。わざとなのかと勘繰りたくなるくらい説明不足なそれに、部屋の奥に備えられたデスクで日課の資料の整理をしていた丹恒は、それでも律儀に手を止めて振り返った。
見れば彼女は部屋の入り口で、メモアプリか何かを立ち上げてあるらしい携帯端末と睨み合っている。

「パムから買い出しでも頼まれたのか?」
「いや。鰐カメムシの殻ってどこに行けば手に入ると思う?」
「……は?」
「でもこの辺はあとで白露に頼めば何とかなる可能性がある。いま一番重要なのは狩原毛峰だよ」

半分は独り言なのだろう、指先で何かをなぞりながらぶつぶつと要領を得ないことを呟く星に丹恒は思わず口を挟む。「星、わかるようにちゃんと最初から話せ」

「俺はお前とどこに何をしにいけばいいんだ」
「符玄に教えてもらった薬茶を飲んでみたいから、手伝ってほしい。とりあえず茶葉を買いたいから星槎海かな」
「買い物なら三月のほうが適任だろう」
「なのには断られた。そういうのは丹恒に面倒見てもらってって」

よく聞けば星はいつもの突飛な好奇心に全速前進している最中で、丹恒は体よくなのかに売られたらしい。「ああ……」と彼は思わず遠い目になる。もはやなんの驚きもない。

「行く気になってくれた? 材料はこれね」

丹恒が何も言わないことをどうやら星は肯定と受け取ったらしい。渡されるがままスマホ画面に目を走らせた。おそらく大元の出所は丹鼎司なのだろう、そこには随分と本格的な仙舟生薬が並んでいる。

「生薬はともかく、狩原毛峰なら仙舟では一般的なはずだ。手に入れるのは難しくないんじゃないか」
「問題は上等なのが必要ってところ。茶葉の良し悪しなんて、私は味見をしてもよくわからない。羅浮のお茶はだいたいおいしい」

言って星が唇を尖らせる。彼女がもともとそういうものに頓着するたちではないのは明白だった。品質云々で星が気にするものと言えば、漁ったゴミくらいしか丹恒は思いつかない。
それはそれでどうにかならないのかと思わなくもない一方で、丹恒にとって今の問題はそこではなかった。何かを迷うように目を伏せた彼は、しかしややあって溜息と一緒に口を開く。

「茶葉の簡単な目利き程度なら俺にも多少の心得はある。……ただお前もわかっているだろうが、俺は案内ができるほど羅浮の街には明るくないし、追放令が解かれたと言ってもまだ無用な長居もなるべく避けたい。——それでもいいなら付き合ってやる」
「うん、問題ない。羅浮はもう神策府の机の上まで探索し尽くしてるし、付き合ってもらう以上丹恒のことは私が守る」
「……」

うっかり何かとんでもないものを拾ったりしていないだろうなとか、お前の「守る」は兎角危なっかしいから寧ろ何もしてくれるなとか、言いたいことは色々あったけれど、やたら自信満々に言い切る星になんだかすべてが億劫になった。ここ最近は昼も夜も依頼に奔走していた彼女はおそらく本当に羅浮のあちこちを回ったのだろうし、丹恒のことだって無邪気に本気でそうするつもりでいるのだ。それは彼がどんな姿でいても、そして仙舟が彼をどう扱おうとも変わることなく。

「だから一緒にいこう、丹恒」
「……余計な騒ぎを起こすんじゃないぞ」

事の些細を聞いても聞かなくても、結局丹恒は星の頼みを断らない。
俺のことはいいと出かかったのを寸出のところで飲み込んで、丹恒は返事の代わりに立ち上がった。

***

「こちらはいかがですか? 初物の新芽だけを摘んで作った貴重な茶葉で、毛茸が見事でしょう。色、形、香り、味わい全てにおいて当店でも一級の品質です」
「ああ、申し分ないな。これを彼女に包んでもらえるか」
「かしこまりました」

星槎海中枢にある老舗の茶荘で、壁一面、天井の高さまでずらりと茶缶の並ぶ大きな棚を眺めながらいくつかの茶葉を試し、彼らはあっという間に上等な狩原毛峰を一包み手に入れた。
ちなみに受け応えは主に丹恒担当だった。星は大人しく横からそれを眺め、試飲に出されたお茶を全部おいしいと言っただけだ。一人で来ないのは本当に賢明だったようだな、と丹恒に冷たい一瞥を向けられながら。

「思ってたよりすんなり手に入った。夢茗にお礼言わないと」
「ああ、茶屋に推薦される問屋なだけはあったな」

用事が済んで店を出たとき星が言った。この茶荘は星槎海中枢に降りて真っ先に訪ねた不夜侯の店主に教えてもらった店なのだった。

「というわけで宣夜通りに戻ってもいい?」
「わかった」

二人連れ立って星槎海中枢を歩く。彼方に玉界門を臨み、無数の星槎が行き交う高い空の下、人々で賑わう街の喧騒のなかに丹恒を気に留める者はいない。寧ろ肩先で風を切りながら彼の半歩先を歩く星のほうが余程人目を引いているくらいだ。おそらくは本人の天性の資質なのだろう。大人しくさえしていれば、星は人の視線を引き付けて離さない種類の人間だった。幸か不幸か星自身はそのことにまったく頓着していない上、その視線の先で目も当てられない奇行に走っていくわけだが。

「——それでね丹恒、これは提案なんだけど」なんの話の続きだったか、星が彼を振り返って口を開く。

「夢茗のところに寄ったら、そのあとちょっと金人巷に行ってみない?」
「まだ買い物があるのか? 生薬を探したいなら丹鼎司の医者市場に行ったほうが確実だと思うが」

少しの寄り道にしたって金人巷は星槎海とは別エリアで、ここから行くには星槎に乗るか長楽天に置いた界域アンカーを使う必要がある。店の多い区画ではあれ、薬の材料を買うために行くような場所でもないはずだ。
もう用事は済んだと認識していた丹恒が、聞いていない話に片眉を上げる。星は小さく首を横に振った。

「違う、雑技団の友達の公演を見たい。というか実は今日見にいくって約束してる」
「……お前、まさかとは思うが」
「うん、ついでだしとは思った」

へらりと笑って、彼女は最初からそっちが目的だったと白状する。

「お前一人で行けるだろう」
「でも一緒に来てほしい」
「そこまでして俺を連れていこうとする理由はなんだ」
「私が丹恒と一緒にいたいから」
「…………お前」

ほんの一瞬わずかに瞠目した丹恒には気付かないまま、その眩いほどの金の瞳で真っ直ぐに彼を見つめて星は続ける。

「それだけじゃ、理由にならない?」

丹恒は知っていた。こんなにも思わせぶりなことを言っておきながら、星には小指の先ほどさえも他意がないことを。丹恒の動揺に気づいていないどころか、星は大概この手の言動をほぼ無意識でやっていることを。
思わず黙り込んだ丹恒の沈黙を質問への肯定だと受け取ったらしい星は星で余程金人巷に行きたいらしい、半歩の距離を詰めるようにして言い募る。「ちょっと寄り道するだけだよ。確かに金人巷は人が集まる場所になったけど、」

「あそこの人たちはいい人ばかりだし、出かける時も言ったけど、もし何かあったら丹恒ことは私が守るよ。その約束は絶対守る。前に一緒に鱗淵境に行った時はとりあえず黙っておいてたけど、今日は違う。丹恒に一言でも無礼を働いた奴は全員この銀河打者のバットの錆にしてくれる。だからそっちは安心して」

どんと胸を叩いた星に、それはそれで少しも安心できなくなった丹恒の顔が複雑に引き攣る。銀河打者を自称しはじめた星はブレーキが効かないのである。さっきから頬のあたりにじんわりとした熱が集まったり引いたりを繰り返しているのはきっと気のせいではない。

「…………違う、星。そして胸を張って騒ぎを起こそうとするな」
「やだね、ルールは破るためにある」
「支離滅裂なことを言うな。そして俺のことはいいんだ」
「全然よくない、あんたが言わないなら私が言う。だって私が嫌だ。悔しいよ。丹恒のことをなんにも知らない奴に好き勝手なことばっかり言わせない」

もはや意地になっているのだろう、説得を試みるたびに彼にしてみれば胸の辺りがくすぐったくなる言葉が続いて、丹恒はもうどんな顔をしていいかわからない。
それでも頑なに耳を貸そうとしない星をどうにかしようと、丹恒は少しだけ声を張るようにして言った。「本当にいいんだ、星」

「お前が今言ったことを、俺はもう心配していないし気にもしていない」
「それはあんたが優しすぎるだけだよ」
「そうじゃない、——今の俺にはお前がいる。理由はそれで十分だ」

たとえ前世の罪があとどれほど彼に累を及ぼそうとも、そうして周囲があと何度彼に憎悪や失望の目を向けようと。
丹恒はもう知っている、この先どんなことがあろうとも、その陽光を煮詰めたような濁りのない金の瞳だけはいつだって、その明るさのまま自分を照らしてくれるのだと。なぜなら星は少しも態度を変えなかったのだ。丹恒が自分の出自と本当の力を列車の仲間に明らかにした日から、星を連れて鱗淵境を訪ねた日、そして今日のこの時まで一度たりとも。
そして星はきっと気付いてもいない。たったそれだけのことがどれほどに、彼の息を楽にしてきたかを。

「……それよりもだ。お前はああいうことを誰にでも言ってまわってるんじゃないだろうな」
「なんのこと? そんなに変なこと言ったっけ?」

急に雰囲気が重々しくなった丹恒に、きょとんとして星は首を傾げた。
この天然人間ホイホイを放っておくと、いつかとんでもない厄介事まで引き寄せかねない。ただでさえ星の周りは人が多すぎる上、丹恒の嫌な予感は当たるのだ。「……はあ。まあいい」

「この件に関してはお前には何の期待もしない。俺が追々手を打つことにする」
「? できることがあるなら手伝うけど」
「いい。寧ろお前は何もするな」
「うーんやっぱり全然わかんない。全部本当に思ったことを言っただけなんだけど」
「勘弁してくれ……」

額を押さえながら丹恒は呻いた。
相変わらず何もわかっていない星が「今日の丹恒なんか変だよ」と、勝手なことを宣ってくる。誰のせいだと思っているのだ。目の前に広がるあまりに先が思いやられる光景に丹恒は思わず深々と溜息をつく。

「というかもう先に長楽天に行こうか。早くしないと金人巷で食べ歩きする時間がなくなりそう」

「桂乃芬の公演、何時からだったかな」スマホを取り出しはじめた星がまた初耳の用事を口にする。薬茶のための買い物が最初から丹恒を連れ出すためのただの口実だったのか、あるいはいつもよくやる行き当たりばったりの彼女の思いつきなのか、最早彼には判断がつかなかったけれど。

「商会の復興のために不眠不休で頑張ったんだ。ついでに案内するから成果を見てよ、丹恒先生」

最初はお化けでも出そうな雰囲気だったんだから、と星は可笑しげに言う。

「言われなくとも、お前が列車に戻るのも忘れて依頼に奔走していたことは、ちゃんと知っている」

ナナシビトは開拓に名も利も求めない。けれど、たとえ日の目を見なくても、必死に奮闘する自分を正しく見ていてくれるたった一人がくれる力を、丹恒は知っている。
彼はもう今日の外出の本当の用向きのことには触れなかった。その代わりに願わずにはいられなかった。こうして重ねた言葉がいつか、あちこちを歩き回り、たくさんの人に出会い、いつだって何かに全力で立ち向かっている星が列車へ、——丹恒のもとへ帰る理由になることを。

「もう今日はお前の気が済むまで付き合ってやる。公演の時間まであとどれくらいなんだ」
「あと二システム時間くらい。今行けば尚滋味でご飯も食べれるかも。お腹も空いてきたし——行こう!」

「おすすめは天外の化け物の炒め物だよ!」どうやら丹恒の目の届かない場所で、星はまたろくでもないものを口にしていたらしい。思わず閉口した丹恒を差し置き鼻歌まじりの星は、やがて唐突に彼の手を取り、丹恒を引っ張るようにして走り出す。

「おい、——星!」

足元から頭上遥か星槎海へと返る二人分の足音が一段高く軽やかになる。
腕を引かれた側はといえば、咄嗟のことに足が縺れるのをなんとか回避しながら、されるがままに道をゆく。一度は永久に追われた故郷の地を、それはまるでこの地に暮らす人々がするありふれた街歩きのように。
不意に何かを確かめるように辺りを見回した丹恒の視線が、やがて彼の手を引く一回り小さな手に辿り着く。その次の瞬間、静かな水底のような翡翠色のその双眸がかすかに眇められたことに気付く者さえも、今ここには一人もいない。

「星。まだ多少時間はあるんだろう、——ならもう少しゆっくり歩かないか」
「え? あ、手。引っ張ってごめん、なのにいつもやるからつい」
「いや、それは別に構わない。ただでさえお前は目移りが多すぎるし、目を離すとすぐに一人で勝手に突っ走る。迷子になられては面倒だ」
「ふん、星槎海も長楽天も私のほうが詳しいんだからね。迷子になるとしたら丹恒のほう!」
「どちらにしたって探すのはどうせ俺なんだ。いいからほら、行くぞ」

星の隣を歩くまで、この身が心から紐帯できるものなど、生涯何一つとして持つことは叶わないのだと思っていた。
自分から繋いでおいてあっさり離れようとする薄い手のひらを、そっと引き留めるようにして繋ぎ直した。
いつものようにやたらと勝気に胸を張る星を適当にあしらって、今度は丹恒が星を促すように歩き出す。繋ぎ止めたその手は決して離さないまま、一歩一歩。

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