大江戸転生主従パロ 手を放す 18 ~言えなかった言葉~
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翌朝、土井は若殿と母に面会を求めた。
「兄上、母上。ご報告申し上げます」
奥の座敷に三人が揃うと、土井は証拠の束を畳の上に置き、頭を下げた。証拠を一つずつ説明していく。油の金の流れ。番替えの手口。防虫香の偽装。実行犯の証言。鍵と出入りの記録。焼け残った帳面と視察報告の突き合わせ。
そして最後に、家老の計画の全容を述べた。
「長年にわたる横領を隠すための放火です。帳面を焼き、山田利吉に罪を着せることで、不正の露見を防ごうとした。利吉を棚卸しのために蔵に入れ、匂い袋を渡し香り付けを行った。全て家老殿の仕込みです」
若殿は黙って聞いていた。母も口を挟まずにいる。
「兄上が蔵にいらしたのは、家老殿の予定にはなかったはずです。けれども家老殿は好機と見て、扉を外から施錠しました。兄上を排すれば総点検は頓挫します。先代家老殿の聞き取りによれば、家老殿は近頃、式部様のもとに足を運ぶことが増えていたとのことです」
兄の背がぴくりと揺れる。同時に、母が初めて口を開いた。
「……式部様に?」
「はい。嫡男の次に継承権を持つのは式部様です。家老殿が式部様を支持しているとすれば、若殿様の排除は不正の隠蔽だけでなく、継承の筋書きでもあった可能性があります」
座敷に沈黙が落ちた。
若殿が、茶碗に手を伸ばした。伸ばし、飲みかけて、止める。彼は縁に指を置いたまま、静かに言った。
「そうだとすれば、これは御家騒動です。露見すればお上から沙汰を受けることになるでしょう。──半助。町方の事件は、どう取りますか」
「実行犯は町方で捕らえています。町方の放火は実行犯の犯行として処理され、それで手打ちになります。家老殿の名は奉行所には出ません」
「……出ない? 犯人が捕まっているのにですか」
「それについては、後程お話致します」
若殿の目が、わずかに細くなった。弟の言葉の先を読んでいる目だ。
「では、先に家老殿の処遇について意見を聞きましょう」
「家中の裁きとして、内々に処すのが筋かと存じます。役を解いて屋敷に留め置き、国許の殿のご沙汰を待つ形に。表向きは、火事の後始末に伴う人事の刷新として処理できるかと。屋敷が焼けたのですから、管理体制を改めるのは自然なことです」
「町方の被害については」
「家老殿の私財を充てて補償します。横領の分を回収し、それを原資に土井家の名で町方の被害者に見舞いを出す形にすれば、当家も同じ火事で被害を受けた立場ですから近隣への見舞いとして筋が通ります」
若殿は土井を見た。弟が並べた証拠の束、その手際、そして家の名に傷をつけずに始末をつける落とし所まで整えてきた周到さを、改めて見ている目だった。
「それでは、先程言っていた下手人の件は」
「──それについて、お願いがございます」
土井は頭を下げたまま、続けた。
「実行犯の者ですが、町方で裁かれる身であり、付け火の罪は免れません。それは本人も承知しております。ですが、その者の家族には何の咎もございません」
若殿は黙って聞いている。
「病の母がいるそうです。薬代の面倒を見てやると家老に持ちかけられ、それで手を貸した。家の蔵を焼こうとしたのも、江戸屋敷の蔵は物置で大したものは入っていないと言い含められていたそうです。中に若殿様がおられたことも知らずに戸を塞いだとのこと。愚かな判断ですが、母を思う気持ちそのものは咎めるものではございません」
土井は言葉を切った。一拍置いて、嘆願を続ける。
「下手人は当家の家中です。家に塁が及ぶことを懸念して、奉行所にも家老殿の名を出さずにおります。死にゆく者の忠義を汲んで、家族に対して連座の沙汰を下さぬようお願い申し上げます。母親の薬代と暮らし向きについても、手当てをしていただければと」
若殿は茶碗の縁を指でなぞった。母と目を合わせ、母が小さく頷いて言った。
「……家老に弱みを握られ騙されて利用された者の家族を罰しても、何の益もありません。町方での裁きであれば恨みが当家に向くこともない。むしろ温情をかけた方が家に尽くしてくれるでしょう。この件は私が預かります」
「ありがとうございます」
土井は深く頭を下げた。
「……あなたは、思っていた以上に仕事ができるのですね、半助」
平伏した息子に向けて、母が続ける。
「寺子屋のことも、町方との付き合いも、道楽だと思っておりましたよ。ですが寺子屋の教え子たちがこの件を調べ挙げたと聞きます。あなたはその方々の力をまとめてここまで持ってきた。殿からも恩賞が下されるでしょう」
「母上……」
顔を上げた土井に、母は息子の目を見て言った。
「家老の処分は、若殿様と私で下します。あなたはもう、十分に役目を果たしました」
「──それと、半助」
若殿がそこへ付け加える。
「山田殿への嫌疑は、これで晴れました。棚卸しも匂い袋の件も、全て家老の仕組んだ罠だったと私の名で家中に伝えます」
土井の肩から、何かが降りた。目に見えない重さが畳の上に静かに落ち、その時ようやく普段通りの柔らかな声が出た。
「……ありがとうございます、兄上」
若君の声でも武家の四男の声でもない、ただの弟の声だった。
家老の処分は、その日のうちに下された。
若殿は先代家老を呼び、家老の居室の鍵を預けさせ、帳場の引き継ぎを命じた。家老は奥の間に呼び出され、若殿と母の前で証拠を突きつけられた。弁明の余地はなかった。
家老は最後まで穏やかな顔を崩さなかった。崩さないまま、一言だけ言った。
「……この屋敷を回してきたのは、私です」
若殿はそれに答えなかった。
家老は役を解かれ、屋敷の一室に留め置かれた。国許の藩主への報告と最終的な沙汰は、若殿が書状をしたためて送ることになった。表向きは火事による屋敷の管理体制の刷新。長年の留守居役が退き、先代の家老が帳場を預かり直す。焼けた屋敷の立て直しに伴う人事として、近隣の屋敷にもそう伝えられた。
町方の連続放火は、小平太が実行犯の身柄と自白をもって奉行所に上げ、犯人が捕まったという形で収まった。家老の名は一切出ていない。実行犯の母のもとには、屋敷から薬と米が届けられた。誰の指図かは伝えられなかったが、届けた者は「若殿様のお計らいです」とだけ言い残した。
火事で被害を受けた商家や町家には、土井家の名で見舞いの金が届けられた。当家も同じ火事で蔵を焼かれた被害者であり、近隣への見舞いとして、という名目で。その原資が家老の私財から出ていることは、誰も知らない。
先代家老は、引き継ぎの書類を整えながら一度だけ土井に頭を下げた。
「若様。息子を助けてくださった方に、お伝えください。この年寄りが礼を申しておりましたと」
土井は頷いた。見つめ返す目は、先代の総名代の目だった。それは同時に、息子の包帯がいつか取れる日を待ち続けている父親の目でもあった。
***
事件が落ち着いてからも、利吉の右腕は動かなかった。
ある朝、伊作が膏薬を替えている間に、利吉は右手の指を動かそうとした。親指は、少しだけ曲がった。けれども人差し指から先は皮膚が引き攣れて止まる。肘の内側に火傷が固まった皮膚の突っ張りがあり、指を曲げようとするたびにそこが軋む。裂けるような痛みではなく、もっと鈍い拒絶だった。身体が動くことを拒んでいる。
伊作はそれを見ていて、何も言わずにいた。膏薬を塗り終え、新しい布で腕を巻き直し、結び目をゆっくりと整える。その手つきは丁寧で、穏やかで──だからこそ、利吉にはすべてが分かった。
「……伊作くん」
「はい」
「この腕は、どこまで戻るのかな」
伊作の手が、一瞬だけ止まって、また動き始める。布の端を折り込みながら、伊作は利吉の目を見て答えた。
「……時間がかかります。正直に言えば、どこまで戻るかは今は分かりません。火傷が深く、皮膚の下の筋がどれだけ傷んでいるか、動かせるようになってみないと分からないことが多いので」
伊作は言葉を選んでいた。嘘はつかず、希望も断たない。それは医者としての、ぎりぎりの誠実さだった。
「焦らないでほしいんです。今は──身体が治ろうとしている最中だから」
「……ありがとう」
伊作が部屋を出た後、利吉はしばらく動かなかった。
右手を布団の上に置いたまま、天井を見つめる。包帯の下で指が強張っている。握ろうとして、握れなかった。さっきと同じで、何度やっても同じだった。
手裏剣が打てない。
刀が握れない。
壁を登る時に、片手では体重を支えられない。
忍の身体とは、全身で一つの道具だ。どこか一つが欠ければ、道具として成り立たなくなる。利吉はそれを誰よりも知っている。自分の身体を道具として鍛えてきた年月の分だけ、それが欠けたことの意味も理解していた。勿論、身体能力を生かさずとも忍としての仕事はできる。けれどもそれでは若君の護衛は務まらない。利吉は手を布団の上に戻し、目を閉じた。
縁談の話を思い出す。奥方が穏やかな声で言った言葉。山田殿、縁談を考えてみる気はございませんか。あなたももう二十一。この家に根を下ろしていただきたいのです、と。
あの時は、あれは自分を繋ぎ止めるための拘束だと思った。若との関係に線を引くためのものだと。けれども今になって思えば、あれは忍を辞めた後の利吉に、居場所を用意しようとしてくれていたものなのかもしれないと感じる。
目を開けると、天井の木目が薄暗い部屋の中でぼんやりと浮かんでいる。この天井を、もう何日見ただろう。伊作の診療所の、低い板張りの天井。もういつの間にか見慣れてしまった。見慣れた天井の下で、見慣れた匂いの中で──利吉は、毎日同じことを考えている。
(身を引くべきなのだ)
傷を負った忍を、若君のお傍に置いておく意味はない。守るべき主を守れない人間がいれば、次に危険が来た時、足手まといにしかならない。
若は毎日来る。
夕暮れになると襖が開いて、この部家に入ってくる。枕元のいつもの場所に座り、屋敷の報告をして、容態を尋ねて帰っていく。帰る前にいつも同じことを言う。また明日来る、と。利吉もいつも同じ返事をする。はい、と。
それだけのことが、今の利吉の一日の中心になっていた。夕暮れが来るまでの時間を利吉は天井を見ながら過ごし、襖の開く音をずっと待っている。その音が聞こえた瞬間に、いつも胸の奥で何かがほどける。安堵というには切なすぎる、名前のない感情がほどけて──若の顔を見た途端に、また結ばれる。
なぜ来るのかと聞いた夜、若は「役目だからだよ」と答えた。
──役目。
利吉はその一語を、何度も頭の中で転がした。役目なのだ。若にとって利吉は証人であり、側仕えであり、忍だ。役目として来る。役目として顔を見る。役目として帰る。
その忍が使い物にならなくなれば、役目は、終わる。
その夜、土井が診療所に来たのは、いつもよりも遅い時刻だった。
日はとうに暮れていた。仙蔵は裏庭に出ている。土井が来るときはいつもそうだった。伊作は奥の土間で薬を擂っている気配がかすかに伝わるが、音は遠い。診療所の中は静かで、外からは虫の声が聞こえていた。
襖が開く。利吉は起きていた。ずっと起きていた。待っていた──と言ってもいい。利吉は行灯の灯りの中で天井を見つめていた目を、ゆっくりと襖の方に動かした。
「……若」
「遅くなった。屋敷の件が、ようやく片付いたよ」
土井は枕元に座った。いつもの場所だ。利吉の左手のすぐ傍に膝をつく。畳のその一角は、もう何日分もの重みを吸い込んでほんの少しだけ沈んでいた。
いつもであればすぐに屋敷の報告をする。利吉が質問を挟み、土井が答え、そのうちに薬湯の効きが回ってきて利吉の瞼が重くなり、土井が静かに立ち上がる──そういう夜を、何度も繰り返してきた。けれどもこの夜の土井はすぐに報告をしなかった。利吉もそれを促さなかった。
沈黙が流れた。長い沈黙だった。行灯の火が小さく揺れ、二人の影が壁に伸びる。虫の声は遠くで続き、仙蔵が裏庭を歩く気配がかすかに伝わる。いつも通りの夜だ。いつも通りの。
利吉は息を吸った。吸って、吐き、もう一度吸った。胸の奥で言葉が形を取ろうとしている。何日もかけて固めてきた言葉だ。天井を見ながら何度も組み立てて、何度も崩して、今夜ようやく言おうとしている。
「若。お話が、あります」
「何だ?」
「嫌疑が晴れたと伺いました。今日、御家より先代家老殿の使いが」
「ああ。兄上が家中に伝えてくださったんだ。棚卸しも匂い袋も、全て家老の仕組んだ罠だったと」
「……ありがとうございます」
利吉は目を閉じた。
行灯の火の温もりが、瞼の裏に薄く届いている。土井の呼吸が聞こえる。静かで浅い呼吸。利吉の言葉を待っている呼吸だ。利吉は目を開け、天井ではなく土井の方を見た。行灯の灯りに照らされた若君の顔。目の下の隈は薄くなっていたけれど頬のこけは戻っていない。毎日ここに来て、毎日帰って、屋敷の中で家老と戦って──この人は、自分などのために、どれだけ痩せたのだろう。
「若。──私は、もう」
声が掠れた。言葉は用意してあった。何日もかけて選んだ言葉だ。だが喉を通る瞬間に、角が削れて崩れていく。
「お傍にいる、資格が……」
土井の手が、膝の上で止まった。
──資格。
その一語が、土井の中の何かを叩いた。
それは、桜が咲く少し前のことだった。
前世の光景だ。まだ失う前の。春先の孤児院の縁側で、利吉が言った遠い記憶。
「戦の世が終わったら──先生のところで雇っていただけませんか」
土井は笑った。笑って、縁側の柱に背を預けたまま答えた。
「うちにはそんな余裕はないよ。見ての通りいつも赤字だ。君に給金を払う余裕なんて、とてもない」
「給金なんて要りませんよ。食事と寝床があれば、それで十分です」
その利吉の声には照れがあった。照れを隠すように庭の方を見ている。子供たちが庭で遊んでいた。追いかけっこをしている声が春の空気に溶けている。
「先生のところは人手が足りないでしょう。薪割りでも水汲みでも、何でもやります。畑も──まあ、忍に畑が務まるかは分かりませんが」
土井は笑った。利吉も笑った。二人で笑い合って、それだけで十分だと思った。
戦が終わったら。
土井は言えなかった。本当に言いたかった言葉は、喉の奥で引っかかったまま出てこなかった。働かなくてもいい。薪を割らなくても、水を汲まなくても、畑をやらなくても。ただ傍にいてくれるだけで──それだけで、十分なのだと。
言えばきっと、利吉を縛ることになると思った。忍として生きてきた男に「何もしなくていい」と言うのは、生き方そのものを否定することになるのではないかと。利吉の誇りを傷つけたくなかった。だから冗談めかして「給金は出せない」と返した。利吉も笑って「要らない」と言った。
それで十分だと、その時は思っていた。
利吉が死んだのは、翌年の春だった。
桜の下で利吉を見つけ、山を降り、遺体を荼毘に付して──それから幾日かが過ぎた。幾日だったのかは覚えていない。一日だったかもしれないし、十日だったかもしれない。時間の感覚は、利吉の骨を拾い上げた時に一緒に崩れたまま戻っていなかった。
利吉の持ち物を整理しなければならなかった。利吉の部屋に残された僅かな私物を。誰かがやらなければならないことで、誰がやるかを誰も言い出さなかったので、土井が行った。
戸を開けた時に、微かに利吉の匂いがした。もう何日も人がいない部屋のはずなのに、畳と柱に染みついた硝煙の匂いが、もういない彼を思い起こさせた。土井は戸口に立ったまましばらく動けなかった。この匂いを知っている。隣に座っている時に、風が運んでくる匂い。縁側で一緒に茶を飲んでいる時に、肩のあたりからかすかに届く匂い。それが、主のいない部屋の空気の中に薄く漂っている。
部屋は簡素だった。忍の部屋だ。刀が一振り。火縄銃が一丁。手裏剣と銃弾の箱。道具を包んだ布と、着替えが二組畳んで棚に置いてある。それからすり切れた草鞋の予備が一足。──それだけだった。何年もこの部屋にいたはずなのに、利吉がここにいた痕跡はそれだけしかなかった。
土井は刀を手に取った。鞘を握ると柄の巻き方に利吉の手の癖が残っていた。使い込んで磨り減った部分が利吉の握り方の形をしている。生きていた時の手の形が、ここにある。
刀を置いた。手裏剣の箱を開けた。中は空だった。最後の任務に、全て持っていったのだろう。
着替えを棚から下ろした。洗いざらした木綿の着物だった。繕いの跡がある。利吉は自分で着物を繕っていた。等間隔で真っ直ぐなその縫い目に、几帳面な性格と手先の正確さが残っている。
土井は押し入れの戸に手をかけ、開けた。奥に、布に包まれた塊が並んでいた。一つ目を手に取った。手の中に収まる大きさで──重かった。
二つ目を取った。同じ大きさに包まれ、同じ重さのものが入っている。
三つ目。四つ目。五つ目。
奥からまだ出てくる。押し入れの板の上に、同じ形の包みが整然と並んでいる。数えると十二あった。十二の包みが同じ布で同じ結び方で、同じ大きさに揃えられて押し入れの奥を埋めていた。
土井は一つの包みを膝の上に置いた。布を見ると洗いざらした木綿だった。着替えの布と同じ質のもので、おそらく古い着物を解いて包みの布にしたのだろう。布の角がほつれている。結び目は丁寧だった。利吉の結び方だった。
布を解くと、銭が出てきた。紐に通した銭が、幾重にも巻かれて包まれている。上から右に回して輪を作り端を通す。忍が荷を縛る時の結び方とは違う、利吉だけの癖のある結び方だ。子供の頃からの癖だと以前笑いながら言っていた。十二の銭の包みが、全て同じ結び方で結んである。
一つ結ぶたびに、利吉の指がこの布に触れた。一つ包むたびに、利吉の手がこの銭を数えた。何年もかけて忍務を終えるたびに、報酬を受け取るたびにここに仕舞い込んだのだろう。受け取った報酬を、ほとんど使わずに。
(これは──何のための金だ)
指が結び目の上で止まる。土井には分ってしまった。けれども分かりたくはなかった。利吉は備えていたのだ。忍を辞めた後の暮らしのために。土井の孤児院に身を寄せた時、自分の存在が負担にならないために。
『給金は要らない』と笑って言いながら、その裏で自分が役に立たなくなった時のことを考えて金を貯めていた。食事と寝床があればいいと言ったのは、土井に気を遣わせたくなかったからだ。本当は自分で稼いだ金を持ち込むつもりだった。
役に立たなければ、傍にいる価値がない。
利吉はそう思っていた。傍にいるためには、何かの役に立たなければならない。金を稼がなければならない。そのために──危険な忍務を引き受け続けた。
あの忍務も、そうだったのではないか。
報酬の高い、命懸けの忍務。断らなかったのは、断れば金が貯まらないからだ。金が足りなければ、共に暮らすことが──自分の隣にいることが、許されないと思っていたから。
(──私は、馬鹿だ)
土井は銭の山の前で、崩れ落ちた。
包みを抱えたまま前に折れ、額が畳に触れた。畳の目が頬を押し、利吉の匂いが──もうほとんど消えかけている匂いが、顔のすぐそばにある。これもじきに消える匂いだ。声が出なかった。涙が畳を濡らし、銭の包みの布を濡らし、利吉が結んだ結び目を濡らしていく。
(言えばよかった)
何もしなくていいと。金など要らないと。働かなくても、稼がなくても、何の役にも立たなくても。ただ傍にいてくれるだけで、それだけで──。
言っていれば、利吉は無理をしなかったかもしれない。危険な忍務を引き受けて、金を稼ごうとしなかったかもしれない。あの日、死ななかったかもしれない。あの山の中で、桜の下で、毒を飲まなくても済んだかもしれない。
部屋の外から、子供たちの声が聞こえていた。庭で遊んでいる声だ。利吉がいなくなっても子供たちは遊んでいる。日は傾き、光が窓から差し込んで、銭の包みの上に影を落としていた。
言えなかった。
言えなかった自分を、土井は生涯悔いた。
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