茶の間戦争夏の陣

『本日の○○地方は最高気温三十七度の猛暑日、ですが大気がやや不安定な状態です。夕方からは所によりゲリラ豪雨に見舞われる恐れが――』
 朝の天気予報で気象予報士のそんなアナウンスを耳にした時は、まさかと思ったものだ。だって雲ひとつない快晴だったのだ。先週やっと梅雨明けしたから、今日のオフで溜めていた洗濯物をやっつけるのを楽しみにしていた。朝イチでリネンを洗ってベランダに干して、青空のもと風にはためく白の眩しさに目を細めて、気に入りの柔軟剤の香りに包まれてどこか浮かれてすらいた。まさか雨なんて降るはずない、と。
(……大当たり、だな……)
 賭けに負けたのはHiMERUだった。冷房の効いたリビングでゆったりと読書をして寛いでいた矢先、ゴロゴロと不穏な音を聞いた。次いでビシャアンと何かが割れるような大きな音。まずいと思ってベランダに駆け出し、わたわたとリネンをかき集めて部屋の中へ避難させたら、数秒ののちに大粒の雨がざんざか降ってきた。あと一歩救助が遅れていたら大惨事だっただろう。
(危ないところだった……)
 気象予報士の言葉通り外は大荒れ。ゲリラ豪雨と言うからには少しの辛抱で済むはずだが、雷の音がまあまあ近くから聞こえてそわそわしてしまう。読書どころではなくなってしまった。
 落ち着くために珈琲でも淹れようかとキッチンに立ったタイミングで、玄関の向こうからばたばたと騒々しい足音が近づいてきた。
「っだァ〜‼ ただいまァ‼」
 勢いよく飛び込んできたのは濡れ鼠、もとい燐音だった。朝方ワックスでセットしていた髪は水分を含んでしょんぼりと垂れ下がり、すっかりいつもの元気を失っていて、一見すると誰だかわからない(自分だからすぐにわかったが)。状況は一目瞭然、仕事からの帰りがけに雨に降られたが近くまで来ていたから、雨宿りよりも走って帰ることを選んだのだろう。
「おかえりなさい、災難でしたね」
「うう冷てェ〜パンツびちょびちょで気持ち悪りィ……」
「ちょっ、ちゃんと拭いてから上がってくださいよ。ほら」
「あんがと……タオルいい匂いすんな」
「今日干したので。一先ずシャワー浴びてきなさい」
 玄関で億劫そうにスニーカーと靴下を脱いでぺたぺたとバスルームへ向かう燐音の背中を見送ってから、HiMERUは彼のぶんのマグカップも取り出して自分のと並べた。

「はァ〜あったまったァ……サンキュ、メルメル」
「どういたしまして。雷すごいですね」
「ン〜だなァ。ぶえっくし!」
 上半身裸で戻ってきていきなり豪快なくしゃみを披露した燐音は、ガサガサと冷凍庫を漁ってからソファに座っているHiMERUの隣にやってきた。タオルで無造作に拭いただけの赤い髪は腕白にあっちこっち跳ねていて、そこだけ見ると小さな子供みたい、なのだが。風呂上がりの彼が惜しげもなく晒している引き締まった胸筋や綺麗に割れた腹筋との組み合わせがどこかアンバランスで、HiMERUは何故だか己の体温が上がるのを感じた。
 そんなHiMERUの心境など露も知らない燐音は、買い置きしているミルク味のアイスバーを咥えてぼうっとテレビを眺めていた。舌に乗せているとみるみる溶けていってしまう儚いそれ。棒を持っている掌の方にまで垂れてきたミルク色の甘い雫を舌を出して舐め取っていると、恋人がじっと自分を見ていることにようやく気が付いた。
「フフッ、どしたァメルメル、熱視線。ンなに見つめられちゃあ燐音くんに穴が開いちまうっしょ?」
「なっ、あっ……み、見てない! 見てません」
「きゃはは、嘘はいけねェなァ〜? おめェもアイス食いてェの?」
 あー、と口を開けて舌の上に溶け残った白い塊を見せつけてやる。かあっと茹だったように赤くなるHiMERUの顔。ちょっとした誘惑のつもりだったのだが、ここまであからさまな反応を見せられると愉しくてしょうがない。
「だ、め燐音、髪乾かしてから……っ、ん」
「後で」
「ふ、う……っ甘……」
 ねっとりと舌を絡めてアイスを彼の口内に移していく。最早冷たくもないただの甘ったるいミルク味を分け合っていると、もう自分が何を食べていたのかも思い出せなくなる。さて、本当に誘惑に負けたのはどちらだったか。べたつく口元を手の甲でぐいと拭って、燐音はこのままなし崩しに行為に及ぼうとHiMERUの白いシャツに手を掛けた。
「だ、めです、ここじゃ、その……明るいし」
「え〜? 俺っち待てなァい」
「駄目です……!」
 裸の胸を押し返してくる両手は意外と頑なだ。どうしてもリビングでヤりたくないHiMERUとどうしても今ここでおっ始めたい燐音。そんなほこ×たて。刹那、屋外がカッと真っ白に光ったかと思うとバリバリバリ! とこの世の終わりのような雷鳴が轟いた。あ、と思っている間に部屋じゅうの電化製品がブツンと一斉に動きを止めた。当然、照明も。おあつらえ向きの展開に燐音はほくそ笑んだ。
「……停電」
「停電だなァ」
 今日は天が俺っちに味方してやがる。暗闇に包まれた部屋の中燐音は抵抗を止めたHiMERUにもう一度キスを仕掛けながら、最中に停電が直ってしまった時の言いくるめ方を頭の中で捏ね回し始めた。





(ワンライお題『誘惑/みだれ髪』)

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