体温
彼は大雑把そうに見えて、実はきちんとしている人だ。TPOだって弁えているし、面倒見は良いし、細やかな気遣いのできる人。その反面、身近な人に甘えるのは得意じゃない。ちょっとした愚痴を吐くことはあっても、自分の弱っているところは見せたがらない。頑なに隠したがる。寿くんはそういう人だ。
だから。キッチンで調理中の私を後ろから抱きしめるなんて——これは、なかなかの異常事態だ。
玄関が開く音と人の気配で、帰って来たことには気付いていた。いつものように帰宅を知らせる元気な掛け声と、朗らかな顔をのぞかせてくれると思っていたのに「ただいま」の一言すらないなんて。
「おかえりなさい」
コンロの火を落とし、出迎えの声を掛ければ肩口に乗せられた頭が小さく揺れた。ふわりと香った馴染みのないシャンプーの匂いは、きっと遠征先で使ったものだろう。
アウェイでの連戦は散々な結果で、彼の出番も多くはなかった。コンディションは悪くなかったはずだし、どちらかと言えばコーチの采配に問題があったと素人目には思うのだけれど――そんなことを言っても何の慰めにもならないのは明らかで。「どうしたの?」と聞いても、きっと返事はないに違いない。
私にできることといえば、せいぜい彼の手に触れることくらいで。黙ったまま腰に回された手にそっと触れてみると、驚くほど冷たかった。外が寒いせいではないはずだ。
伝わってくる体温が、まるで誰にも吐き出せない弱さの象徴のように思えて、胸の奥が痛んだ。
冷えた手を包み込むように握ると、わずかに握り返される。どうやら思った以上に弱っているらしい。頼りない力で握り返された手を取り、くるりと向きを変えた。捨て犬みたいにしょんぼりした寿くんの腕を引いて、リビングのソファに座らせる。
戸惑うような目を向けて来た寿くんの頭を胸の中に閉じ込めて。私は、その悔しさを力に変えて、彼を抱きしめる。
――だって。こんなに近くにいるのに。こんなに触れ合っているのに、私は寿くんの痛みを分かってあげられない。
その肌に触れて、体温を感じても、幾度も身体を重ねても。私たちは一つにはなれない。一つにはなれないから、彼の不安も弱さも、全部を受け取ることはできない。
それが、どうしようもなく悔しかった。
それでも。
こうして寄り添い続けるうちに、家族になっていく。
私はそっと、自分の腹部に触れた。まだ寿くんには伝えていない、小さな命。このぬくもりを、今度は三人で分け合えたなら――そんな未来を、そっと願った。
***
彼女の胸に顔を埋めながら、泣きそうになった。断じて泣いてはいない。たぶん。
帰宅するなり縋るように抱きついたというのに、彼女は何も聞かずにそっと手を取ってくれる。そんな彼女の存在に、その温もりに、凝り固まっていた身体が解れていく。
もし「どうしたの?」と理由を聞かれたとしても、何も答えられなかっただろう。コンディションは悪くなかったのにチームに貢献できなかったことか、ニュースでひどい交通死亡事故を見てしまったからか、それとも単に寒いからなのか。
昔から言語化するのは得意ではなかった。だから、今のこの状態が何なのか自分でもうまく説明することができない。悔しいのか不安なのか怖いのか――分かってはいないが、とにかく早く彼女の温もりに縋りたかった。そうすれば、安心できる。それだけは間違いない事実だから。
包み込むように抱いてくれている彼女を抱きしめ返して、深呼吸をひとつ。エプロンについたものか、植物油の微かな匂いが鼻腔を通り抜けていき――ぐう、と腹の音がなった。こんなときでも腹は減るらしい。
もうちっとこのままでいてぇんだけどな――と思った矢先、彼女の温もりが離れていく。
「ご飯にしよっか」
彼女は明るい声でそう言って、キッチンに戻ろうとする。翻ったエプロンの裾をとっさに掴んで。
「寿くん?」
「あ、いや、その……、あんがとな」
「ん」
何に対してなのか、言わずとも理解している。そんな微笑みを浮かべ、彼女は夕飯の支度にかかるのだった。
このあと彼女にとびきりの報告をされて、一度は堪えたはずの涙腺が崩壊したのはまた別の話だ。
End.
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藤田(最終更新:2026/5/12)
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