打ち上げの店は、いつも決まって同じ店だ。
ドラマや映画の撮影の後の慰労会といえば、繁華街にあるバーや居酒屋を貸し切りにすることが多いが、K2の現場ではプロデューサーの意向があって、監督と付き合いの長い作家さんの身内が経営される昼がメインの定食屋での開催、夕方の五時から始まり八時には解散、二次会は大人で三々五々と、遠方に拠点のある人間も参加しやすい時間帯となっている。
勿論、中で話したことは他言無用だ。譲介のような未成年も参加するということもあって、厳しい箝口令が敷かれている。
いつもTETSUが隣の席を空けておいてくれるので――本人は、オレの隣なんかに座りたがるヤツはいねえよ、と言うけれど、譲介が来るまでは、カウンターではなく座敷席の方で、付き合いの長い村井さんやKEIさんの隣に陣取って演劇談義をしていたという話は譲介も知っている――家とマネージャーへの連絡を済ませて十五分前に到着した譲介は、今日も店の出入り口近くのカウンターの席を確保してくれていた彼の隣にするりと座った。
「ちゃんと勉強して来たのか?」
「真面目にしてますよ。僕はちゃんと、授業中には起きていようとは思っていますから。」と言うと、TETSUはぺしりと譲介の額を叩いた。
「最低限の努力以上のことをしてから威張れ。今からそれで、大学はどうすんだよ。」
譲介は、もう入学する大学は決めていた。芸能活動をしながら通える私立の大学で、いわゆる一芸入試というやつだ。
新しく始まる大学生活に全く興味がないわけではなかったが、今現在の譲介の興味と関心は、主にこの目の前の人に振り分けられている。
「レポートに行き詰ったら、TETSUさんちに遊びに行きますね。」と譲介が言うと、TETSUは目を瞠って、(おいてめぇ正気か)と言わんばかりの目付きでこちらを見た。
「大学も出てねえやつに頼ろうとすんじゃねえよ。」
もう一度、今度は頭を叩かれそうになって、両手で自衛する。
「そこらの大学教授よりTETSUさんの方が博識だと思いますけど。」
「オレのはただの年の功だ、おめぇみたいな若いのには、もう少し体系だった知識が必要なんだよ。」
そうは言っても、大学での勉強だって、その教授の狭い専門範囲でしか学ぶことが出来ないことくらい、譲介も知っている。
「TETSUくん、年下の譲介君に絡むのもほどほどにしなさいよ。みっともない。」
僕がTETSUさんに拳骨を食らいそうになっているところを見とがめたのか、座敷席で座っているKEIさんから鋭い一声が飛んで来た。
「うるせぇよ、KEI。」
「私は自分の酒量くらい分かってるからね。みんなも今日は酔いすぎないでよ。」
周りに聞こえるように大きな声で言うKEIさんに、TETSUさんは所在ないような顔をした。K2のT村の撮影では、その回限りの演劇人と現地のエキストラが多いので、TETSUはレギュラー陣の中ではほぼ年長組の方に当たる。対等に話を出来る人は限られていて、譲介はTETSUとぽんぽんと交わす会話が羨ましいと思う。
好きな人との埋まらない年の差が妙に味気ないような気分になってウーロン茶のグラスを手にしていると、疲れたように見えたのかTETSUは低声で「眠くなったら言え、タクシー呼んでやるから。」と譲介に言った。
「TETSUさんこそ、」
そこまで言って譲介が言葉を濁すと、TETSUはなんだァ、という目でこちらを見て来る。
「この間の打ち上げで僕が帰った後の話を聞いたんですけど。僕には酒に呑まれたヤツには気を付けろって言うくせに、なんで自分はそうなんですか。」と言い募ると、彼は渋いお茶を飲んだような顔で「おめぇが帰った後で飲んでんだからいいだろ、お子様。」と言い放った。
こっちがままならないと思っているところをずけずけと突いてくるTETSUの無神経さが腹立たしいのに、拗ねたような顔をしている年上の人は妙に可愛いと思ってしまう。譲介にとってウエイトを占めているのは後者の方で、あなたはズルい大人だ、と恨み言のひとつも言いたくなる。
乾杯前だと言うのに、目の前にあるウーロン茶を一気飲みしたいような気持だった。
ちなみに、その日の打ち上げで譲介が帰宅した後、酔い潰れてしまったこの人を担いで帰ったのはKEIさんだ。
譲介にとっては初耳でもなく、界隈では事件とも言えないようなそのトピックは、TETSUがあの「KEI」にお持ち帰りされたという尾ひれがついて、ゴシップ記事の多いWEB媒体に小さく掲載されてしまってもいた。
肩を貸していた光景が大袈裟に伝聞されたわけではなく、真実が混ざっているといううちの、その真実が「お持ち帰り」の方ではなく「米俵担ぎ」の方と言うのが、譲介にとっては分かりが過ぎて、正直なところ、嫉妬もするけれど、彼女ならしょうがないという気持ちはある。
ピアノの演奏家を志して挫折したというお嬢様だった過去があるKEIさんが、ラ・カンパネラを男性ピアニスト並みの迫力で弾くためという理由で、十代の頃からトレーニングに日々励んでいたのは有名な話だ。譲介も、彼女が今でも尊敬するというピアニストのご尊顔を以前見せてもらったことがあるけれど、グランドピアノを横に撮影されたその写真はドウェイン・ジョンソン似のスキンヘッドの男性だった。
こういう顔が好きなのよね、と乙女のように顔をほころばせるKEIさんは、継続しているウェイトトレーニングのおかげで、今でも冷蔵庫並みの身長があるTETSUさんを軽々持ち上げられる膂力がある。この話になると、どうしてもKEIさんの怪力エピソードにスポットが当たってしまうけど、そもそもいい年をして、酔い潰れてしまうTETSUさんの酒癖が悪いのだ。
監督の挨拶はまだか、とそっぽを向いてしまったTETSUのことを、しょうがない人だな、と譲介は思う。
キーンと言うマイクのハウリングが聞こえて来て、譲介は音のした方に顔を向けた。
「じゃあ、K先生役のいっちゃんこと神代一人さんから、一言開演のご挨拶を。」と監督がマイクを回している。
どこからともなく、開演じゃないでしょ、とツッコミが入る中、「僕からですか?」と一人さんは困ったような顔をしている。
はいはい、いいからマイク持って、と押し付けられている以上、立ち上がるしかない。
立ち上がって辺りをぐるりと睥睨し、背筋を伸ばした一人さんは、訥々とした声で、どこかで聞いたような、というか前も似たようなこと言ってたなという言い回しの挨拶を話し始めた。
「このドラマの現場で、事故もなく、大病の人が出ることもなく今日の日を迎えられたことを、嬉しく思います。」
一人さんが話し始めた挨拶を聞いて、これはもしかしなくても、前回の打ち上げで村井さんの言ってた挨拶とほとんど同じ話をしてるんじゃないだろうか、と譲介は思った。隣でグラスを掴んでいる人を見ると、やっぱりというか、あいつやりやがったな、と言う顔をしている。
まあ、挨拶なんてものは形式上のことで、周りが乾杯と言ってしまえば忘れられるものでもある。常々譲介が思っていることだが、社会人経験を経て演者になった人には、口下手な人が多い。
演劇のひとつにパントマイムがあるように、演じるということはマーシャルアーツの一環で、脚本の台詞は、作家の考えの表出。
ホンをすらすらと読みこなせはしても、だからこそ自分の言葉は、心の中を探して乏しい語彙の中でやりくりするしかない。
そう思っている人が多い。
臨機応変に対応することが難しくて営業が向いてなかった、と一人さんから聞いた時は、あれだけの長い台詞を覚えられる人が嘘だろう、と思ったけれど、そうして選んだ朴訥な言葉だから、人の心に響く。K先生を演じる一人さんという人は、そうした誠実さのある俳優だった。
だけど、今日のこれは……。
「一人さん、かなりお疲れですね。」
「明日っからまた新しい仕事が入ってるっつってたから、ソッチのことで頭がいっぱいなんだろ。」
上の空らしい誰かさんの内心を代弁して、TETSUは苦笑している。
「今日はみんな、K先生の慰労会のつもりでいるのに、大丈夫かな。」
「まあ、あいつも体力はあるからなァ。一発勝負の舞台と違って撮影っていうのはやり直しが利くから、やればやるほど完璧から遠ざかっていくヤツの方が多いが、あいつの場合、多少疲れてる方がいい顔が撮れるときもあるんだよ。こればっかりは当日にならねぇと。」
「そんなものですか。」
「そんなもんだ。おめぇも三十過ぎたら徹夜が辛ぇぞ。覚えとけよ。」
まだ十代の譲介に、今からそんなことを言ってどうするんだろうこの人。そう思ったけれど、一人さんのスピーチ中に余計なことを口にしないだけの慎みはある。
三分近いスピーチが終わり、乾杯の音頭は、やれやれという顔をした監督が交代した。
「TETSUさん、あの、乾杯しましょう。」
「おお。お疲れさん。長丁場、頑張ったな。」という年上の人の顔は優しい。
譲介は、手元のウーロン茶のグラスと彼のジョッキを合わせる。
「っ、かーーー旨い、」
ジョッキを干す彼の顔は本当に楽しそうで、一緒に酒が飲める年までは遠いな、と譲介は思う。
ドラマが終わった後、暫くは、本を借りるとか、映画を見に行くとか、そうした小さな口実でこの人に会うことが出来る。
譲介にとって、問題はその後のことだった。
ドラマの収録が終わると、TETSUからは、譲介からコンタクトを取ろうとしない限り、本当に何の連絡もない。アルバイト暮らしと時折入る本業で忙しすぎるからという理由もちゃんと分かっているのだけれど。
原作を読んでいるから、譲介には分かる。次のシーズン、その次のシーズンが決まっていても、暫くは収録で彼と一緒の出番がないことは明らかで、きっと、この先の二年は、譲介にとって永遠みたいに長く感じるに違いない。大人なら、飲みに行くという口実で家を行き来することも出来るのに。
そんな譲介の視線が居心地悪く感じたのか、あっちでちょっくら飲んでくるわ、と腰を上げたTETSUは、すたすたと向かいのテーブルに行ってしまった。
「あ、ちょ、TETSUさん。」
隣に居座ってガードしてくれる強面のTETSUがいないと、譲介はとても困る。
苦手な人に座られたらどうやって言い抜けたらいいんだろう、とウーロン茶が半分残ったグラスを思案していると「譲介君楽しんでる?」と軽い声で言われて、譲介はぱっと顔を上げた。
世紀の美女、女神の現身と言われる人がそこにいた。
TETSUのことを見ている限り、演じる場以外での俳優のオーラというのは眉唾ものだと思っていたけれど、この人は違う。
今日は珍しく、足首まであるレトロなスリットスカートのセットアップ。
真珠のような光沢のある、人目を惹く丸く大きなピアスが似合っている。
定食屋の明かりの下でも変わらない神々しさだ。
「どうしたの? 呆けちゃって。」
「あ、いえ、すいませんKEIさん。」
見とれてる場合じゃない。この間のお礼をしないと。
譲介は立ちあがって、「KEIさん、この間は観劇に付き添いしていただいてありがとうございました。」と言って礼をした。
譲介が先日TETSUの芝居を見るのに付き合ってくれたことに対しての礼をすると、KEIさんはほんのちょっと眉を上げてから、あれくらいならいつでも付き合うわよ、と言って笑った。
「私も久しぶりで楽しかった。TETSUくんを演者に据えようとするお芝居って、割と人を選ぶのよね。あの子も、商業演劇だって嫌いじゃないくせに、自分が演るとなったらエンタメ的な要素を極力排した感じのとこを選びがちだし。」
「凄く面白かったです。客席と演者が物干し台とシーツで仕切られてるのにはちょっと面食らいましたけど。」
「譲介君って、割と渋好みなのね。」
ふ、と女神は微笑む。
この笑い方を、どこかで譲介は見たことがあると思った。
時折、TETSUはこういう顔で譲介を見ていることがある。
伸びしろのある『子ども』を見る大人の顔だ。
途端に譲介は、身の置き所がないような気分になる。
「僕はまだまだ若輩ですから、好みと言えるほどのものはまだないですけど。」
「TETSUくん、若いんだから何でも見てなんでも吸収しろ、って言うくせに、あれはダメ、これは良いとか言うでしょ。」
……分かる。そうなんですあの人、と年上の女性にタメ口を利こうとする自分を、譲介は必死で抑え付ける。
「TETSUさん、自分は古いものが好きなくせに、僕に積極的に勧めるのは、割と直近の映画とか演劇が多くて。」
旧い映画のアーカイブとも言えるほどの古くて希少なビデオテープやDVDディスクの所蔵があるくせに、僕が「居る」のに慣れて来たこのところは、おめぇはいいからこっちを先に見ておけと言われることが多い。
「私もそうなんだけど、年食ったな、とか自分で思いたくないから、新しいものを取り込んでいつでもアップデートしていきたいのよ。」
「アップデート、ですか。」
「演劇にも流行り廃れがあって、古くならないものって、意外と少ないからね。ちょっと前に、映画館でやってたでしょ。クリント・ダイアーのオセロー。」
「あ、はい。新しい演出と、配役も、ちょっと驚きました。」と譲介が頷くと、彼女は満足そうにうなずいた。
それから、そっと周りを伺って譲介に近づき「TETSUくんとのデート、楽しかった?」と耳元で言った。
「!」
不意の耳打ちに、譲介はぎょっとして彼女を見た。
目を見開いた譲介の顔を見て、さっきよりもずっと意味深な笑みを浮かべた彼女は、若いっていいわね、とビールを飲んでいる。
KEIが言ったように、劇場で撮影されたそのシェイクスピア演劇を、譲介は、平日に学校をサボってTETSUと一緒に見に行ったのだった。
ちなみに、約束を取り付けた瞬間の譲介のちょっとばかり浮かれたデート気分は、その日のうちにTETSUから出された課題図書の多さによって瞬殺された。
家の本棚からまずシェイクスピアを読み解くための十数冊と戯曲を取り出した後、TETSUは、天袋と呼ばれる収納スペースから新しい箱を取り出し、その中からあれもこれもと全集本から選んだ数冊を譲介に渡して来たのだった。
映画を一本見るだけですよね、と腰が引けている譲介に、シェイクスピアは奥が深いし来月にはマクベスもある、と言って、あの人は新しい餌を譲介の目の前にぶら下げて来た。
その先に期末テストを控えた譲介は、TETSUとのその二度目の外デートが叶う状況かどうか、保証もないというのに、重すぎる映画の副読本を両手いっぱいに抱えて自宅に戻り、世界一有名な劇作家として名高いマエストロの作品を読み、英和辞典と首っ引きで解説書を読み込んだ。
当日、映画館で本気で寝てしまったので、見終わった後のTETSUから、今日までに全部読めとは言ってねえよ、と遠回しの謝罪の言葉(と譲介は思っている)を受け取ったくらいだ。
その教育方針には今でもため息が出そうになるくらいだけれど、譲介は、TETSUとあの日出掛けたことについては誰にも言ってない。それこそ、一也にも、
言ってないのに知っているということは、KEIさんはあの人本人からこの情報を聞いたということか。
だとしても、と考え込んでいた譲介が、ふと背後に人が寄って来た気配を感じると「譲介君との保護者面談中だから後でね。」とKEIさんは僕の後ろに立っているらしい誰かにウインクした。どうぞごゆっくり、という声を聞いて、助監督だ、と分かった。
あ、譲介君ちょっと待ってね、とKEIさんは言って、カウンターの方へ顔を向けた。
「私に生中おかわり、譲介君には、ええと。何がいい?」
「じゃあジンジャエールで。」
「甘いの? 辛いの?」
正直、二種類あるとは知らなかったが、新しいものを試してみようという気分で「じゃあ辛いのを。」と譲介は言った。
「ジンジャエールドライの方お願い。」と言ってKEIさんはこちらに向き直った。
あ、と譲介は気付く。
「KEIさん、もしかして、TETSUさんと交代で来てくれたんですか?」
「ううん。私が譲介君と話してみたかっただけ。いつも仕事だとあんまり絡めないからね。だって気になるじゃない、TETSUくんの秘蔵っ子なんて。」
KEIは、カウンターから出て来た飲み物を手にして、譲介には栓が付いたままになっているジンジャエールの瓶を渡した。
「僕の認識、KEIさんの中でそんな風になってるんですか?」
「違う?」と彼女は首を傾げた。
譲介は、若い頃のKEIさんが出ていた映画の中で、白いフレアスカートを棚引かせて踊っていた茶目っ気たっぷりの女の子を思い出した。
「……うーん、嬉しいような悔しいような。あなたには、俳優としての僕を見て欲しいので。」
ついでに言うなら、TETSUさんの方を見る回数を減らしていただけたら。
譲介は心の中でそんな風に思う。
「ふふ。譲介君って正直ね。」
「え?」
「私より、私を通して見る誰かさんのことしか興味ないって顔。」
「!」
「ま、今の言い方でも、私より若い子には通じるかもね。」と彼女は付け加えるように言った。
こちらは、あの人のことをただの師匠とは思っていないけれど、それは吹聴するような話でもない。どこで気づかれたのだろう、そんなにあからさまな視線を向けていたのだろうか。
譲介は心の中で焦りながらも、母ほどの年の女性が、どれだけ譲介のような子どもの心を読むことに長けているのかを思い出した。
「僕って、そんなに分かりやすいですか?」
「大丈夫よ、本人は、その手の好意に至って鈍いから。」
譲介はホッとしつつも、これまでに何人の譲介のような子どもが、あの人に熱を上げていたのだろうと思うと、胸が痛くなった。
可愛い譲介君に、いいことを教えてあげる、とKEIさんはにこにこしている。
「TETSUくんが、お酒の席で蟹の話を始めたら気を付けてあげてね。ズワイが食べたいとか、そういうことを言い始めたら注意が必要。」
「……蟹、ですか?」
蟹炒飯に、かに玉あんかけ、TETSUが中華料理店に入ると、そういう料理を好んでオーダーすることなら譲介も知っている。若い頃にアメリカに行ったとき、スリミという名のカニカマが高くて驚いたという話も本人から聞いたことがある。そういう缶詰の蟹でもいい人が普通の蟹が食べたいと思っているとは、知らなかった。
「TETSUくんがこっちに出て来る前ね、田舎で暮らしてた頃。時々、お医者だったお父さんが、いいことがあるとスーパーマーケットで蟹を買ってきてくれたんだって。でも、譲介君も知っての通り、TETSUくんってずっと貧乏暮らしだったから、こっちに来てから全然食べられてないのがフラストレーションらしくて……酒が入ったらあの通り弱いし、きっとホームシックの一種ね。」
「そうなんですか。」
彼女が言うその田舎の話を、譲介は彼からは、冬に雪が深い場所としか聞いたことはないが、あの人が家に所蔵している中でも最も古い本の表紙の裏側に捺されていた判子には、彼の父か祖父らしき人の名と住所が書かれていた。譲介の頭には、蟹と結びつかない、その地名。
「酔っぱらってるサインだから、その後は自分のことを語り出して大変なの。次の日に何言ってたか覚えているから、ずっと自己嫌悪してるし、下手したら、次の日からほとぼりが醒めるまで半年くらい会ってくれなくなるから覚えておいて。」とKEIさんは笑った。
酔わせて、あの人から昔のことの何もかもを聞き出せたら、と譲介は思うけれど、その対価が会えなくなることだとしたら、確かに今の譲介がどちらを取ればいいかは明白だ。
「ありがとうございます、KEIさん。」
あるいは、あの人が蟹の話をし始めたら、譲介は、彼が自分の話を出来ないようにこちらから先手を打つことにしてもいいかもしれない、と思った。
酒の席の話なら、酔っているなら。
あの人に随分酔っていたなと笑われるような話なら、譲介の方にこそある。
好きです、愛してます。僕にはあなただけ。
口を閉じて、墓の中まで持って行くような話なんかには出来ない気持ちでいたけれど。
それも、いつか酒の上の冗談に出来る日が来るらしい。
「あ、二十歳になって飲みに行こうとするなら、そこらの蟹専門店は止めた方がいいわよ。」
譲介は、また心を読まれてしまった、とドキリとしながら「北海道の毛蟹は大味でやだ、って煩いから。」と微笑む隣の人の顔を見た。
「そうなんですか?」
十八年の人生でこれまでにさして食べる機会もなく通り過ぎて来た甲殻類に対する解像度と興味の低さから、蟹といえば北海道かなと当たりを付けていた譲介の頭の上から「おい、KEI、なぁに人の弟子に吹き込んでんだ。あることねえこと言ってんじゃねえよ。」という誰かさんの声が降って来た。
「TETSUさん。」
「ふふ、スパルタ教育で参ってる秘蔵っ子に、TETSUくんの上手なあしらい方を教えて上げたんじゃない。」
なんてことを言うんだ。譲介は慌てて、違いますからね、と両手をTETSUの目の前で振った。
じゃあね、譲介君、と言って、KEIさんは目の前に出されたばかりのジョッキを持って席を立つ。
ふわりと、彼女の付けた香水の匂いが軽やかに逃げていき、その代わりに、TETSUがまた譲介の隣の席に座った。酒を飲んだ彼の発する汗と体臭に混じった食べ物の匂い。美味しそうな匂いだ、と譲介は思う。
「TETSUさん、僕も揚げ物が食べたいです。」
今日一番の凛とした顔を作って、譲介は真面目にTETSUの方を見た。
オレに取って来いってか、という顔をしながら「人生の先輩に対して少し遠慮ってもんを覚えろ。」とTETSUは言った。
「いやです。唐揚げが食べたい。」と言うと、揚げたてをどうぞ、と言ってカウンターから店員が新しい皿を出した。
「あ、すいません。」
譲介君、頑張ってたな、と褒められて、それが今回の芝居の話だと分かっていても、譲介は嬉しかった。
「……良かったじゃねえか。」とTETSUは譲介の方を見ずに、生ジョッキ追加、と言った。
「TETSUさん、あの、唐揚げにレモン掛けていいですか?」
一緒に食べるつもりで譲介がTETSUに尋ねると「まあいいけどよ。」と年上の人が本当に嫌そうな顔をした。
やっぱり止めておきます、と譲介は笑い、こんな風に酔った姿を、僕にだけ見せてくれたらいいのに、と思った。

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