愛というのじゃないけれど

 決して、自ら進んでこのような行為に及んでいるわけじゃない。例えば、雰囲気に流されて。或いは求められていると感じたから。
 だから俺は仕方なく。
 仕方なく抱かれているだけ。

 げげろう、ゲゲ郎、いい、だめだ、もう。
 勝手に掠れる声で繰り返しそんなふうに喘ぐ。ゲゲ郎の背にしがみつきながら。そしてきゅっと閉じた目の端からじわと滲む涙に知らないふりをする。


 幾度抱かれても尚、くだらない意地、建前みたいなものを崩すことができない。
 あの男に触れられて、そして暴かれて、弄られ、抉られ、穿たれてしまえば、瞬く間に身も世もないといった風情で、もっと、と縋るように強請る己がいることをとっくの昔に十分自覚させられているくせに。 
 そのうえ。
 腹の中、いっとう奥にぎゅうと触れられると、前後不覚に陥ったような浮遊感があり、まるで譫言のようにその言葉が唇からこぼれることが、ちかごろたびたびある。
『あいしてる』
 そんなとき決まってゲゲ郎は、ああ、と頷いて、俺の唇を塞ぐのだ。
 ききたくないのかもしれない。

 そう思うから、繋がりをほどいて眠り、次に目が覚めたらそんな睦言は忘れたような顔で、卓袱台を囲み向かい合って朝食を摂る。

 愛とは一体なんだろうか?
 性的な交わり、肉体の繋がりを持つことが即ちそうだとも限るまい。少なくとも俺にとっての、このゲゲ郎との関係のように。
 俺たちふたりの、基本的な姿かたちはひどく似通っていても、そもそも種がちがう。この世を、この目で眺めていられる時間もちがう。この世のすべて、その眺め方もきっと。
 だから、こんな面倒な物思いに縛られているのも俺だけだ。
 どうにか取り繕わねばと考えたうえでのおためごかし、酒の酔いに頼ったうえの、そして単純な性欲に拠った関係なのだと。
 言い聞かせながら抱かれている。
 
 かといって、ゲゲ郎がいい加減な男かというとそうではない。俺なんかよりもずっと愛を理解している。愛という感情が、心の臓に、そして全身を流れる血に、沁み渡っているようなそんな。
 一人の、同じ種族の女性への愛を、持ち続けていられる。
 とうにこの世のものではない者へ、ずっと。
 肉体が土に還ってもそれでも。
 そういう男だからこそ、決して抱かれたくなくて、そういう男だからどうしても抱かれたかった。
 我ながら甚だ矛盾している。
 けれどそれが偽らざる本心だ。
 ただただうつくしい愛に満ちた男に。
 醜く歪つで、愛、と呼べるのかもあやしい感情に満ちた俺は、抱かれてみたかったのだ。
 そう。一度でいいから。
 初めは確かにそう思っていたはずだった。
 共に暮らし始めたころ、夕方にふらっと出て行ったゲゲ郎が、祝いだ、と烏天狗の酒を持ってもどってきた。
 出会ってすぐのあの夜、墓場なんて場所で二人で飲んだ酒だ。
 あの夜、復員してからずっと胸に蟠っていたことを、はじめて、誰か相手に打ち明けることができた。惨めに思えて誰にも話したくなんてなかったのに。
 ゲゲ郎相手になら、あんなに簡単に言葉にできた。
 おかげで少し軽くなったこころ。そしてそのこころの、奥底から純粋に楽しかった夜のことを思い返して話をした。
『そういえばあのタバコは最後の一本だったじゃろう』
 ゲゲ郎は、ほんのりと酔いが回った様子で、嬉しそうにそう言った。
『気づいてたのか……!』
 くれ、と請われたのに一度断ったタバコを、やろうと思った時には最後の一本だった。ひといきだけ吸い火をつけたものをそのままゲゲ郎にわたした。
 大事そうに吸っていたことも、記憶として取り戻したけれど、ゲゲ郎のほうも相当酔いがまわっていた様子だったしそんなことは気にしていないと、思い込んでいた。
『水木よ、おぬし、自分でどう思っておるか知らんが、なかなかにわかりやすいところがあるからの』
『それは……』
 仮にそうだとしたら、相手がお前だからだよ。
 と、自分では理解していたけれど、そんなこと言えなかった。
 すると、ゲゲ郎がこう続けた。
『それとも、わしが、おぬしをもっと知りたいと、思うているからかもしれん』
 じっと目を見てくる、ゲゲ郎の目が妙に熱っぽく感じた。酔いのせいもあるだろう。それにしても。
 畳の上に置いた灰皿で一度灰を落として、タバコを咥える。煙を吸い込んだところで、ゲゲ郎の指が伸びてきて、そのタバコをするりと奪ってゆく。
『……タバコなら、新しいのが』
 そんなことは分かってる、とでも言いたげに薄く笑んで、ゲゲ郎は俺の吸いさしのタバコを唇に挟む。
 その、くちびるから目が離せなくて、タバコを持つ手にこちらから咄嗟に指を絡めた。
『水木、火が』
 あぶない。口ぶりよりは落ち着いて、ゲゲ郎は灰皿の上でそっとタバコを消して、ふっ、と煙を吐く。
 そしてまた、じっと俺の目を見る。それだけで、唆されている気がして、俺は。
『……俺のこと、知りたいんだろう』
 だったら。
 唇を寄せて小さく囁いた。
 俺を抱いてみればいい。
 その声は、同じく唇を寄せてきたゲゲ郎の喉に落ちていった。
 
 
 ゲゲ郎の手つきは、はじめからおわりまで一貫して優しかった。
 そうは言っても、なにも行為のなかに限った話でもない。
 
 性交の、というかあけすけにいうと射精のあとの余韻、気怠さを過ぎたころ、寝巻きと寝床をあらためてととのえなければと、まだ絡んでいたゲゲ郎の腕をそろりと解いてもらい、すっくとたちあがる。
 身体の状態はそれなりに落ち着いても、どうしようもなく胸がざわめいていた。脚の間にはまだなにか、というかゲゲ郎のそれが嵌まっているような違和感も残る。
 そういう、一つにまとめると、動揺していることを、なんとなく相手に気取られたくなくて、つとめて普段通りを心がけた。畳の上、散らばった浴衣を拾ったそのままに、サッと羽織ると、ゲゲ郎が慌てたように身を起こす。
「……どうかしたか?」
 たずねると、ゲゲ郎は、すまぬ、と詫びの言葉をつぶやいて、俺の膝をそっと撫でたあと顔を寄せた。
「な……に」
「こんなに、あかくしてしもうた」
 後ろからされるとき、自然四つ這いの姿になる。その時ついていた膝が、畳に擦れて若干の赤みを帯びてしまっていたらしい。
 ほんとうに微かな、擦り傷にもならないような赤くなった部分に、やや身を屈めたゲゲ郎の、その唇がふにと触った瞬間、声が出そうになった。
 声、というより嗚咽が。
 なんでこんなことで。
 抱かれているさなかも、迫り上がってくるさまざまな感情でどうかなりそうだったけれど、だいぶと平静に近づいたようすで、こんな。
 ああ、違う、そうじゃなかった。本当は抱かれている時も感じていた。
 こんな、まるでゲゲ郎にとって、大切なもののような扱い、とこちらが錯覚しかねない真似をされるとそれはそれでたまらない、いたたまれぬ感情があった。
 こいつか、優しい男なのはもうわかっていて、だからこそ、俺の誘いにも乗ってくれたのだろうと、どこかでそんな考えが消されない。
 しかしそれは予防線だ。
 己が傷つかぬように、周到に、心の中に準備をしている。
 そんなふうに思うことは、きっと、幾年も探し続けるほどに、愛した相手をもつこの男に対して失礼極まりない。
 臆病な自分が嫌になる。
 うつくしい愛に、愛のかたまりのようなものに触れて、触れられることで、少しは、己のこの物思いだけでも、うつくしいものへと昇華されてゆかないものかなどと、甘い期待を抱かなかったかというと嘘だ。
 優しい手つきと、柔らかく甘い声音で呼ばれると、その期待がどうしても。
 だけど、実際はうつくしいどころかその真逆へ向かっていないだろうか。
 そんなふうに、自分のあさましさが嫌になればなるほど、ゲゲ郎へ対する感情は重く深く、長いこと募っていく気がしていた。
 そして、この先も狡い予防線を用意したままいたら。
 そのまんまで、ゲゲ郎と身体を重ねたところで、そこに意味があるのだろうか。
 いや、目合うのに然程の意味など必要か?
 種族のちがいがそもそもの話ではあるのだが、更には雌雄ではないもの同士で番って、この先幾度交れど何も生まれないのだ。
 仮にうまれるものがあるとしたら、それは。
 それが、もしかしたら墓場でのあの晩に、ゲゲ郎の言った
あの大仰な。
「……なんだよ、大仰な。少し赤くなっただけだろ。大丈夫だ」 
 そんな、もろもろの期待にはかたく蓋をして、明日にはなおる、と笑いかけると、ゲゲ郎は何故か少し困ったふうな曖昧な笑顔を浮かべてみせた。
 
 それから、幾度となくゲゲ郎に抱かれている。
 初めのうちは、これが二度目、これが三度目、などと頭の中で、思い浮かべた指を折り、無益に数を数えたりもしていたが、両手両足の指の数よりも増えたころ、数えるのをやめた。
 数えることはやめても、建前や予防線は、己の中で強固になってゆくのを感じている。
 男として生理的に必要な、性欲の解消として。互いに酒を好む。だからそういう酔った勢いのせい。それから、さして広くはない家のなか、二人で暮らすうえの物理的な距離の近さ。仕方ないんだ。
 そしてもうひとつ。己の中でどのような理由づけをしようとも結局これは、本当は自分ばかりが望んでいること。
 矛盾と欺瞞に満ちた、もはや屁理屈のような言い訳を、胸の内で繰り返す。
 今夜も、そうに違いない。
 月の明るい夜。月光に照らされて、足元にできる影を追うようにして家路を急ぐ。
 こんな夜は、電気をつけなくも部屋にも差す光のせいでほんのりと薄明るい。だから、こちらを見下ろしてくるゲゲ郎の表情がよく見える。
 荒事を好まぬ種族らしく、ゲゲ郎は無闇に怒りを露にすることがない。だいたいがいつも穏やかな、柔らかい表情で暮らしている。
 初めて交わった夜もそうだった。
 それが、ちかごろ少し違ってきている。
 とはいえ、明かりを消した暗い部屋で交わることがほとんどだ。だから、はっきりとは見えないのを良いことに俺の目はひたすら自分に都合よく解釈しているだけなのかもしれない。
 組み敷かれ、穿たれて、まさに目も眩むほどにくらくらする脳みそが、勝手にそう処理をしているだけなのかもしれない。
 つとめて、そう考えるようにしてきた。
 だが、こんなような明るい晩、揺らぐ視界の中で見たゲゲ郎の表情は、決して穏やかとは言い難く。
 勘違いや思い込みが混ざっているとしても、執着、のようなものがちらちらと覗くのだ。
 あいしている
 譫言、として溢す言葉を唇で塞がれるのは変わらないのに。
 表情のほかにも、変わったことがあった。
 性交に於いては、多少の痛みならそれすらも快感として変換される部分が多いにあると思う。
 それでも、ゲゲ郎はずっと、こちらに痛みや苦しみがないか労わる態度を見せてくれていた。
 それが、嬉しくもあり、消化しきれぬ物思いの種でもあった。
 しかし、朝、身支度をしている時などにハッとあらためて気づくのだが、肩先や首のねもとに歯の跡が残っている。
 ゲゲ郎の、特徴のある歯のかたち。
 痛みを感じないどころか、噛まれて達したこと、一度や二度じゃない。
 はじめは、畳で擦れた膝の赤みにも、申し訳なさそうにして見せたゲゲ郎が、そうするのは、俺の単純な頭では、やはり執着か、それに近い感情のせいとしか考えられず。
 考えられずにいて、戸惑う。
「…………」
 深い蒼に見える影から視線を移し、月を見上げる。
 ゲゲ郎も、この月を見ている。
 そう考えるだけで、身体の奥の方が、はしたないふうに疼くのを感じてしまった。
 自己嫌悪と、それに勝る期待と、それから。
 諸々を抱えて、再び歩き出し、タバコに火をつけた


 玄関の扉を開くと、居間から出てきておかえり、と迎えてくれるゲゲ郎にただいま、と返す。
 そのあと、向き合って夕餉を済ませる。
 男所帯で、必要にかられて料理をこなすうち、手の込んだものは無理でも、それなりに腕が上がってきたように思う。
 これが美味い、とかこの味は好きだとか、そんな感想を交えながら、にこにこと嬉しそうな顔で食事を摂るゲゲ郎を見ていると、自然とこちらの頬も緩む。
 繰り返し取り組むことで、不得手だったことも、徐々に上手くなる。
 普通ならなにごともそうなるのが自然。

 なのに、ゲゲ郎との関係は、繰り返すうち、以前よりも上手くできなくなってきているようだ。
 取り繕うことが、上手く、できない。
 そんなこころもちで抱かれることは、相手の感情を全く尊重していないと分かっている。
 だけど、どうしていいか最早正解がわからない。
 快感に沈められて溢す譫言めいた告白は、睦言のうちの戯事と受け止められているに過ぎない。そうに違いない。
 迷いと、戸惑いと、居た堪れなさを抱えて、でもはっきりと言葉にして伝えることができないものが、だから、涙となって滲んだりするのだろうか。

 こうして、何気ない暮らしをただ重ねてゆければよかった。大切に思う相手と穏やかに、毎日を過ごしていれば。
 なのに、そういう類の後悔と、初めて愛を教えられた相手に触れられるよろこびとを秤にかけると、やはり後者のほうが勝ってしまうのだ。
 触れられて、そして触れると、打ち消せない胸苦しさも積もるけれど、同時に、ずっと目を逸らしてきた愛というもので、同じ胸が満たされる。
 初めに、試すような真似をしなければよかったのだ。
 拒絶されるかもしれなくとも、お前が好きだとちゃんと伝えればよかった。
 手を伸ばさなければ、という後悔よりもよほど重い後悔が腹の底にずっとある。
 今からでも遅くはない。
 いや、最早手遅れだ。
 いまさらもう、この男と離れて暮らす自分が想像できない。
 生きて行ける気がしない。
 愛はきっととうとくて、あたたかくて、それがこころを強くすることもある。そんなもののはずだ。
 だけど俺のそれはどうだ。
 弱くなるばかりだ。
 離れたくない。だけど縋り付くような格好悪い真似もできない。
 臆病さが深まるほどに、ゲゲ郎への想いは大きくなる。
「……水木?」
 ごちそうさま、と手を合わせたばかりのゲゲ郎が怪訝そうな顔で見つめてくる。
「疲れが出たか? 風呂は、もう用意できておるぞ」
 風呂は、俺の帰宅時間にあわせてゲゲ郎が準備をし、先に済ませているのが常だ。
「あ、ああ。そうかもしれない。風呂、ありがとうな。入ってくる」
 食器を纏め、台所へ立つ。蛇口を捻り、勢いよく出た水を盥に貯める。そうして、すぐに溢れそうになるそれをぼうっと眺めてしまう。まるで自分の気持ちのような気がしてしまって。
 溢れたら、その時はどうしたら。
 あてどない考えを巡らせていると、背後にゲゲ郎の気配がした。側から伸びてきた腕が流れ落ちるままの水を止めてくれた。
「げげ、」
「おぬし、やはり、ずいぶんと疲れておるのではないか」
 振り返ると、正面の小窓から差す月の光がゲゲ郎を照らしている。白い髪の先が、まるで光る銀の糸のようでうつくしい。
「大丈夫だ」 
 笑って、応えた。うまく笑えているだろうか。そんな心配が過った瞬間、笑みを象ったつもりの唇に、ゲゲ郎のくちびるがさわった。
 





 うつくしい女であった。
 そとみの、容れ物の話ではない。心根が、魂がうつくしかった。肉体が土に還った今も、そのうつくしさは失われることは決してない。
 荒事を好まぬ我ら幽霊族とは対極にあるといってもいい、くだらない争いごとに生を費やす、有象無象なるくだらない人間らにも愛情を、慈しみを持てる女。
 彼女と出会って、関わりを得るうち、己の中でも人間というものに対しての認識は、多少なり変化をした。
 とはいえそれは到底『愛』などと呼べる代物ではなく、言うなれば憐れみに近い。

 人はひとに非るもの、違う種、異形のものにあまりに簡単に冷酷だ。そうと知れば年端も行かぬ幼い子供ですら、こちらへ向かって躊躇いもなしに礫を投げてくる。そんな種族へと、妻に抱くようなあたたかな感情をどうしても持てずにいた。
 それは、妻を探す間も変わらないまま、幾年を重ねた。

 『水木』と出会った時も、同じ。
 あの男を見て、まず目についたのは、左目の傷と欠けた耳。妻を見失っていた頃になされていたいくさの場で負ったものだろうことは容易に想像がついた。

 身体の造りに関しては、見た目は我らとさほど変わらないというのに人間は、案外脆い。
 しかし、水木とやらは今も肉体を保って生を繋げているのだから、大したことではなかろうと感じた。
 目的のためなら他者を、それも己よりもずっと年若いような者さえ、手段として見做しているらしき言動をする。自分の腹の内にある、ぎらついた野心を隠そうともしない。そもそも隠すつもりもなさそうな、そんな人間の男。
 
 しかし、不本意ながらもその水木に助けられる形で閉じ込められていた座敷牢。
 その後、儂を見張るようにと言付かったのは、水木にとっても想定外のことだったのかもしれぬが、そらっと簡単に騙しておいて、おひとよし、とそんな捨て台詞を吐き布団に入りすとんと眠りに落ちたたあの男。
 やはり。
 やはり人間というものは。
 月に、雲がさしたか、行灯の火を落とした部屋が一層暗くなる。
 この男どうしてやろうか、とまでは考えなかった。
 過度な危害を加えるような真似は、妻が持っていた愛を、否定するような気もしたし、それに儂にとっては人など所詮憐れみを向ける対象なのだから。
 
 せいぜい、意趣返しのつもりで、錠前を壊したのち、この牢の中に代わりに放り込んでおいてやろうか、と思った程度のこと。
 かしゃん、と音がして錠が畳の上に落ちる。
 牢の外に出て、眠る水木の脇に立ち見下ろすと、苦悶の表情を浮かべていた。

 ころせ
 おれをころせ

 絞り出すような声で、そんな文言を繰り返していた。

 泣こうが喚こうが誰も助けてはくれぬ。
 踏みつけられても踏み躙られても、誰も。
 声を上げるちからも失う。
 いつかはこの痛みにも慣れる。言い聞かせている内に、向けられる礫も段々とどうでもいい、と処理できるようになってしまう。
 納得はできなくとも、そうする以外に何が。
 誰も助けてはくれぬのに。

 そんな、くるしいさびしい ものおもいを、この男ももしかしたら。
 そのような思考が、こころのうちで紡がれたことすこし戸惑った。
 戸惑いながら、魘される男の顔をずっと、夜が朝へと変わる頃になるまでただずっと見ていた。
 
 憐れみをかけたとして、我ら幽霊族にとってとても相容れられぬ存在だ。
 しかし、眉根を寄せ、時に歯を食いしばり脂汗を額に浮かべている男。そして昼間は見えなかった、胸の大きな傷を、時折掻きむしる。
 全身で、いたい、くるしい、と。
 泣いているようにみえてしまった。
 これは、儂と同じく他者から虐げられたことのあるもののなきかただと。
 腹の奥がどうも蟠って仕方がなかった。

 今ならあの蟠りの、本当の正体がわかる。
 憐れみでもない、ましてや愛などといううつくしくとうといだけのものでもない。
 あれば、うつくしくもなんともない。
 その時まで実感として知らずにいた初めての感情。
 水木という人間に対して抱いた、初めての『欲』だった。


 欲は、あれからずっと熾火のよう消えることなく、儂の中にあった。
 けれどそのことに気づかぬふりをしていた。
 気づいて終えばきっとそれは、我ら二人の関わりはそこで終いだと思っていたからだ。
 しかし、水木と暮らすことになってから、その火はもうきっと己の力では消しようも、目を逸らしようもなくなった。
 水木は、初めて出会って、一度別れるまでの間も随分と変わった。が、再会を経てまた新たに変化を見せていた。
 
 うぬぼれ、というものだろうかと初めは。
 しかし、水木がこちらを見る眼差し、その強い光が。
 それから、何かの拍子、ふと触れた時。水木の欠けた耳の縁は他の部位よりも少し血の色を濃く表面にあらわす。傷痕だからだろうが、そこがさっと朱に染まるのを幾度かみてしまった。

 欲、というものは本当に愛から遠いのだろうか。
 等しく結べはしなくとも、水木に抱く欲の糧は愛のような気が少しずつしていた。
 欲は日に日に膨らんで、意図を、意志をもってしてあの男のもっと深い場所に触れてみたいとまで。
 そういとき、人同士であれば、ゆくゆく目合うというところに行き着くのだろうことは見当が付く。
 しかし、水木が望まぬかたちでそんなことは簡単にはできまい。
 それに、肉体の交わりよりもまず、水木の、こころの内側に触れてみたかった。
 おぬしの中で、儂という存在は如何なものなのか。
 尋ねたところでこころのうちを他者に容易に触れさせるような男ではないことも既に承知している。
 酒の力でもって、身の上話のようなものを聞かせてくれたこともあったが、それとこれとはまた違うだろう。
 
 ああ、そしてまたこちらも違う。
 結局、水木の心のうちをほんとうに知るには手を伸ばすほかはないとどこかで気づいてもいた。
 欲が根本にあったとして他者に対する正の感情、すなわち愛は、あたたかくて、うつくしくてとうといはずではないのか。
 水木へと向かう儂のこの気持ちは、当の水木本人に対して誓っても良いほどに歪みなどなく、真っ直ぐなもののつもりだ。
 なのに、これを愛と呼んでよいものか、迷いが生じるのは、己の手で、多少の無理を強いてでも、水木に触れて、暴いてやりたい欲が、とうに沸き立っていることにも気づいているからだ。
 
 まるで、水木へ対する愛のみが、特別いびつなもののようだ。
 それでもその、醜く歪んだ儂の物思いで、水木のことを、汚させてほしいと、どこかで望んでいる。
 
 水木は知らぬだけだ。
 おぬしのような人間に出会ったことがなかった。
 苦しみや悲しみ、痛みに、野心で蓋をしてきたのだろう。
 だが、その重たい蓋はもう存在しておらぬ。
 塞ぐものがなくなった、剥き出しの苦しみ悲しみ痛みを、今もまだ、多分きっと、いつまでも消せないままで生きるのだろうおぬしは。
 人としてのうつくしき魂をもっていることを。
 そのうつくしさに、どうしても、惹かれずにはいられなかったことを。
 そうして、おぬしに対して醜い欲を募らせている儂を、水木は。
 
 共に暮らすことになった最初の晩。あの時、墓場で飲んだものと同じ酒を用意した夜。
 しとどに酔った風にみせる水木は言った。
『俺を抱いてみればいい』
 どろりとした感情が、瞬きほどの時の間に胸の内をぱっと満たした。
 汚してやりたい。
 いや、そう単純なものでもなかった。
 鼻先が触れるほど近づいてきた水木の顔。うすく張る涙の膜がちらりと光を弾いて、うつくしいと思う。
 そうして、このうつくしいものを汚してでも。
 汚してでも離れられなくしたかった。
 
 このようなものは、やはり愛ではないかもしれない。それでも水木の唇が紡ぐ声さえもいとしいと感じるのも、いつわりではないのだ。
 その声が、ひっそりと呼ぶ。
『ゲゲ郎』
 おぬしがくれた、名が、水木の声で喉を伝い腹の底へと落ちてゆく。
 どうかすると気が触れそうなと、欠けた耳の先へ指を向けると、びり、と痺れそうに熱い
『水木』
 重なった唇の間で呼ぶと、深傷の残る水木の肩がかすかに震えた。


 人の命、人の生。そういったことについて一応の知見は持っていたものの、しかし特別に思いを巡らすようなことはなかった。
 果たして、水木と暮らすようになり、感じることが自然増えた。ひとの生の脆さ儚さについて。魂のうつわとしての肉体のことも同じく。
 例えばとうに塞がってしまっているのならば、大したこともなかろう、などとはじめは考えていた水木の肩の傷。
 だが、そこはほかの部分の肌とは明らかに異質だった。
 この手で触れたことで知る。触れるまで知らずにいた。そこは本来の柔らかみや滑らかさが損なわれ、変色し引き攣れたまま固まっている。
 目合うさなかに見下ろせば、水木の、額やこめかみや身体のあちこちに薄らとでも汗を浮かべているのが分かるのに、傷の痕には一切の汗が滲むことはない。
 発汗がかなわぬせいか、その痕は水木の体のどこよりも熱っぽいように思う。
 なぜここは汗が、と一度尋ねたことがある。すると、抉れた肉と流れた血と共に、その機能は失われてしまったのだと水木は言った。
 なんてことのないふうに語る口ぶりだったが、それが、水木の内に未だ残っているらしきこころのひずみを垣間見させる。
 ちくちくと妙に胸が痛んだ。
 このところ、もはや胸苦しくさえなってきたのは、その、もう汗を吐き出すことのない水木の肌。
 そこに、触れられるからなのかも知れぬ。
 時には、手のひらだけでなく、頬で、唇で、触れることをゆるされている。
 どうかすれば、望まれているとさえ感じる。
 もっというと、この世の中で己のみが、水木に求められている。この世に数多いる人間の誰でもなく。たった一人の自分。
 などと考えてしまう。
 それは身勝手なほどの優越感と、そして独占欲の片鱗だ。
 土台は愛と呼べるかもしれないものだとしても、その上に澱のように積もっていくのは、水木への欲が多分に混ざる。
 しかし肉欲をもって相手の肉体を暴き交わって、満足とはならない。重ねるうちに、未だ曝け出してはくれていないと感じる、心もなにもかも欲しくなる。
 種の違いのせいか、身体そのものが抱く熱も違う。しかし、その差異を忘れるほど、体温が、混ざり合うのではと思うほどに深い交わりを交わしている。
 心は交わったと未だそう感じられないなら、ならばせめて肉体だけでも。
 深く、もっと深く。
 そうすると水木は、苦しそうにさえ見える時がある。
 これは愛か。

 愛とは。
 愛は慈しみ、憐れみ、あたたかさ。そしてうつくしい、光のような。
 そこに、どろりとした欲がどんどんと混ざってゆく。途端、愛は昏く穢されてしまわぬかと惑うのだ。
 昏い場所で、息を潜めるように生きていた時間が長い。妻と出会ったことでがらりとかわったとはいえ、あの頃はたしかに、その昏い場所こそが己にとって居心地が良かった部分もあったのだ。
 腹の中、胸の内も、暗く昏く。
 だから、あの男へと向ける感情、目には見えぬだろうそれが、穢されるなどという懸念として蟠ることが我ながら不思議に思う。
 そんな不毛な自問自答を、幾度も巡り巡らせている。
 答え、正しい解を、うまく掴めもしないまま、幾度もあの男の腕を掴み引き寄せて、そして顎をそっと掴み唇を幾度も重ねて、それから。
 譫言のように、あいしている、と訴えてくる声を飲み込む。
 同じように返してやるのが良いのかどうか、それがわからない。
 同じどころか、こちらの方がよほど重い、などと水木からしたら理不尽かもしれぬことすら考えてもいるのに。
 だが、水木は水木で、繰り返し達して、二つの眼が涙でべっとりと濡れて、喘ぐような息の狭間、まるで前後不覚のような状態のときにしか、水木はその言葉を口にはしない。
 真っ直ぐに応えてよいものかどうかわからなくていつも、ただ唇を重ねてその声を捉えて、腹の底で、決してはなさぬようにと。
 なにゆえか、それは水木のくれた名もおなじ。言葉というものは時に呪にもなり得る。すなわちまじないだ。
 それを喰らえば、いつかきっとぜんぶほんものに。
 童のような望みがどこかにあった。
 もっというと、水木の声でつむがれるその言葉を、儂以外の他のなにものの耳にも入れたくない。
 望みというには重くて、やはりこれも欲だろうか。
 水木よ。
 人間とは比べようもなく長い生のなか、はじめて。そういう意図を持った手で触れたはじめての人間。
 人間相手には、きっとあちこちで加減が必要で、そうしなければいつか失いそうで、なのに、加減もなしに暴いてもみたくて。
 思考というのははもう少し真っ直ぐな形で進むものだった気がするのに、この男のことをおもうとき、とくにこのごろは紆余曲折ばかりに思われる。
 言葉にしてみれば、変わるだろうか?
 同じ床のなか、隣で眠る男に胸の内で尋ねてみたとて、答えは返ってくるはずもない。
 



 そうした夜を重ね重ねて、月のあかるい今夜。
 共にする食卓で、水木はどうも上の空。不安そうに揺れるまなこを伏せて、もくもくと食事を摂る。
 都合の良い解釈に過ぎないが、その様子はまるで、力づくで、この不安をどうにかしてくれ、と訴えているように見えてしまう。
 そんな考えを打ち消して、疲れが出たのか、と問うてはみたものの、どうということはないふうに振る舞う水木。
 ほんの小さな卓袱台で向かい合うている、そのほんの小さな距離が途轍もなく遠い。
 伸ばしたくなる手を、いちど、ぐっと握る。そして開いて、閉じてして、こちらもなんということもない顔で風呂をすすめると水木はそうする、と器を片して流しへと立つ。
 座った場所から真正面に見える台所には、小窓から月のあかりがさしている。柔らかいひかりに照らされて、そのせいで影のようにくらい後ろ姿、背中をを眺めていると、堪らない思いが胸に溢れた。
 一つ屋根の下に暮らす者、その相手の背中が、これほど寂しげに見えるのはなぜか。理由は一つにさだめられるものでもないだろう。しかし自惚れでも良い。そう思った。
 蛇口から落ちる水の音がやけに勢いよく聞こえる。それがしばらく続いたところで、意を決して立ち上がった。
 意識してしずかに近づいた、というわけでもないのに、水木の背中のすぐそばまできても、ぼんやりとしているのか気づいている様子がない。
 だばだばと流れる水を止めようと腕を伸ばし、蛇口を捻る。そこでびく、と身を震わせた水木が驚いた顔で振り返る。
「げげ、」
「おぬし、やはり、ずいぶんと疲れておるのではないか」
 月の明かりで、薄青く見える水木の肌が、うつくしいと感じた。
「大丈夫だ」
 そう言って笑おうとするが、言葉とは裏腹、いかにも大丈夫ではなさそうな力のない表情。そこからの心痛を察して、しのびない気持ちと、すこしの苛立ちが入り混じる。
 いま、互いに精神が素面な、こういう時にこそあの言葉を告げてくれれば良いのに。
 だから、唇を重ねた。 
 重ねたままで、言葉をつむぐ。
「あいしておる」
「!」
 咄嗟に引こうとする体を背中からきゅうと抱き締めた。唇も、より深く重ね、粘膜同士が触り合う。声が互いの狭間でくぐもるが、構わずに続ける。
「あ、いし、ている、水木……おぬしを」
「……ん、んん、なに、言って……そんな、急に」
「急? ではない……ずっと、あいしておったよ」
「……なんで、いま……!」
 腕の中の水木は、身を捩り儂から離れようとするが、離したくなかった。
 ここで離してしまっては、だめだと。
「……なら、わしも聞きたい。なぜ、おぬしはいま言うてくれぬのだ」
「なぜ、ってそんな……こわい」
「こわい? なぜ」
「……こんなの、俺の一方的な、ものだって、ずっと思って、」
 それはこちらもだ。
 言ってやりたい気持ちはあったが、抱きしめたからだが、ほんの少し震えていた。
「応えて、もらえなくて、でも……もしお前にあのことについて、どういうことか聞かれても、覚えてないと言えば、ごまかせる、かと……」
「……そうか」
「悪い……まるで、試すような、真似」
「いや、」
 違う。水木のせいにしていたが、結局は信じきれずいた己の弱さだったと自覚をした。
 気持ちを交わしたい相手には、全て渡したい、何もかもを知ってほしい欲と、同時にそのことに対する畏れとを、これだけ長きに生きても、打ち消すことができないとは。
 ならば、ずっと短い時間しかこの世界で生きてはいない水木の中でも、同じだろう。
 いや、同じどころか、儂よりももっと。
「……欲と、愛とをうまく、受け止められておらんかったのかもしれぬな」
 水木からの、というだけではなく、自分の中で水木に向けるそれについても。
「……ゲゲ郎、」
「ん」
「俺は、お前を……」
 そこまで言って開いたままの唇さえ、震えていることが見てわかる。
「水木、ゆっくり、慌てずとも」
 胸に掌を這わせて、襟の開いたところから指で喉仏に触れる。そっと撫でるとこくりと頷いて、ひゅっと息を吸った水木がこちらに顔を向ける。
 月のあかりが照らすまなこは、もう揺れてはいない。
 真っ直ぐにこちらを。
 そして。
「うん……あいして、……る、お前を、ゲゲ郎」
 もしも、他のものの耳に入ったとしても、もう構わぬ。
 この形をした愛は、他のものに向けられることはない。
 そう思えた。
「もう一度、言うてはくれぬか」
「……もう、何度でも言ってやる、ぁ」
 あ、の途中で口を塞いだ。誰のものでもなく、己に向けられた、ほんものになった言葉。あいしてる、の言葉をもう一度だけ、味わいたかった。







 ふだん、自分よりもややぬるく感じるゲゲ郎の舌が、いまは矢鱈と熱く感じる。重なって、舐りあう舌のぬめりが、心拍数を上げてゆく。
 口蓋、歯の裏、舌の裏。
 ゲゲ郎は厚い舌で、そういう、俺に関して既知の場所を上手に撫でてくれる。
 とくに、口蓋をちろちろと舌先で触られると、いつもいつも、つよくぞくぞくする。
 気を抜けば腰が砕け、膝も頽れてしまう。そう感じるほどに悦かった。
 ぐっと堪えて、ゲゲ郎に応えるように舌を喰む。ぬるりと粘膜が絡み合うとそこに生まれるのは快感だ。
 くち、くち、と微かに粘りけのある、唾液の混ざり合う音にも興奮を誘われる。
 頭が痺れそう。
 は、と唇同士の狭間で少し長い息を吐くと、そっとゲゲ郎の唇が剥がれてゆく。
 こちらを気遣ってくれたのだろう。しかし名残惜しい。そんな気持ちで、胸の下あたりで交差するゲゲ郎の腕、着流しの袖を、くしゃと軽く握ってしまう。
 すると、こちらを見下ろすゲゲ郎が、ふ、と笑った。
 月の光を浴びるゲゲ郎の顔が、いつにも増して優しげに、そして嬉しそうに見える。
 ずっと、ちゃんと真正面の直球で言いたかった言葉、気持ちを伝えられて、こうしてゲゲ郎の笑みを見たことで、すとんと肩から力が抜けた気がする。それを察したのか、後ろから抱きしめてくる腕にあらたに力が込められた。
 続けてゲゲ郎は俺の髪に顔を埋める。
「……なんだ、よ」
「ああ、いやだったか?」
「いやとか、そんな。そんなわけ……」
「ならよかった。こうしてぎゅうとくっついておるとな、おぬしの髪の匂いがして……それをもっと近くで嗅ぎたくなったんじゃ」
「なんだそりゃ……」
「……ふふ」
 どうにも、どうしても。
 顔から耳までが、あらためてかっと熱くなってしまう。
 ついさっきまで、あいしてる、と囁き合い唾液を混ざり合わせながら口付けを交わしていた。そのことでももちろん頭には相当血が上って、くらくらで、そして照れや羞らいにこころが塗れていたのだが、いま、まるで犬っころ相手みたく頭に頬ずりをされていることも、やたらと照れくさく、そしてこころがなんだかくすぐったい。
「……げげろ、それ、こそばい」
「そうか、なら……」
 後ろ頭のあたりからすこし下がって、耳の裏にふに、とゲゲ郎の柔らかな唇が触った。
 かと思うと、耳朶にかたい歯が沈む。
「……っ!」
「これは?」
「……こ、そばい、それも」
「こそばゆいだけか?」
「……お前、」
 ほんのりと遠回しないざないの言葉に、眩くばかりの心地の中、なんと返したものか迷って、着流しを掴んでいた手で、今度はゲゲ郎の手首の辺りを握った。
「……ほしい言葉をもろうたばかりだというのに、欲深いことだと、わかっておるよ」
 けれど、もっとほしい。
 と、続くゲゲ郎の声は、耳の奥に入り込んで頭の中をぐらぐらと揺さぶる。揺さぶられた脳は、全身で、この男を求めよと命を下した。
 そう思われるほどに、身体がうずうずと疼いた。たまらずに膝同士を擦り合わせる。
「……そんなの、俺だって」
 手首を握っていた指を広げ、手の甲の上をすすと這わせる。こちらの動きに合わせるよう緩く開いてくれたゲゲ郎の指に自分の指をするり絡めた。
 見上げて、あらためてじっと見つめる。大きく特徴的なゲゲ郎のまなこが月の光を弾くのをただじっと。
 視線を外さないまま、指を絡めたゲゲ郎の手をそっと己の顔のそばに連れてゆく。
 長く、きれいなかたちをしたゲゲ郎の指。
 あの夜、渡したさいごの煙草を挟むその格好に、ちょっと見惚れたくらいだ。
 この指。
「ほしい、んだ……ゲゲ郎」
 いつも、いっとう深いところに触ってくれる指を口に含む。含んで、じゅる、じゅく、とあからさまな音が立つように意識してそれをしゃぶる。
 そしてまた、ちゅぽんと大袈裟なほど音をさせて指を吐き出す。続けて己の唾液で濡れた指の先に頬を預け、強請った。
「なあ、はやく」
 すると、柔和な月の光のもと、ゲゲ郎の目のいろが、ふっと変わったのを俺は見た。
「……承知」
 頷いてゲゲ郎は、頬に重ねていた指で顎を掴む。上向けさせられて、はく、とまるで噛み付くように口を吸われた。
「ん、っ、んん、んぅ……」
 先ほど、言葉で愛を交わした。心の内で大きく育った、お前への愛を心の底から渡せたと感じた。
 このまま、今すぐに身体でも交わりたい。
 欲が深い、強欲だって思う。けれど己が持つもので、もう他に、この男に対する欲に勝るものがない。
 きっとひとの身体の構造は、精神の欲と深く結びついている。愛と欲、なかでも性欲も同じく。

 射精のあとに訪れるのはそのほとんどが虚しさだ。
 愛も恋もない、身も蓋もない、突き詰めれば排泄に近い行為に、意味を求めるのがそもそもおかしいのではとさえ。
 しかし、心から欲する相手がいれば途端、それは何かを育む行為にかわる。
 あの夜、大仰な、とわらったそれ。
 愛。
 ゲゲ郎の存在や、ゲゲ郎の手、唇や、舌などによって、促され、導かれて起こる射精は、そこに愛が混ざるのだ。
 きもちよくされればされるほど、愛したくて、できればたくさん、愛されたくてどうしようもない。
 分かっていた。
 だけど、ずっと曖昧にしてきた。
 その方がいいと言い聞かせて、抱いてくれとせがんだ。
 目合う行為に、意味を持たせられる関係の構築ができぬなら、結局は早晩やってくるだろう破綻にひとり怯えながら。
 なのに、ただ、身体の交わりを拒まれないことに縋っていた。矛盾している。

 誰かを愛することはうつくしい、はず。
 だけど、それは同時に弱みができるということでもある。

 ずっと、弱い自分を認めたくなかった。
 辛かった苦しかった、なんて、おめおめと生き残った自分が軽々に宣っていいことではない。
 もっと苦しく、辛かったことだろう。南方で命を散らしたあの者たちは。
 最早どんな思いも、どれほど吐き出したくったって口にすることはもう叶わない。
 生きて残った自分は、せめて誰にもそんなことを語るまいと思った。だって生きているだけで、俺は。
 それが、何故だろう。あの、墓場での夜。ゲゲ郎からの、格別な酒の力を借りたのかも知れぬとはいえ、ずっと抱えていたものを、自分でも驚くほどにするすると言えた。
 俺の話に、静かに耳を傾けて最後に、そうか、とひとこと応えてくれたゲゲ郎。
 そのたった三文字の言葉が、戦争が終わりを告げて十年をこえ、それでもずっと重たく腹の底に胸の奥に頭の中に常にこびりついていた暗い黒い物思いを、随分と軽くしてくれた。
 続けて、ぽろぽろと涙をこぼしながら、大切なひとの話をするゲゲ郎を見て、突然理解した。
 ああ、泣いてもいいんだ、と。
 弱くても、泣いても、喚いても誰も助けてはくれない。
 だけど、もしもゲゲ郎が居てくれれば。
 そばに、この男がいさえすれば。
 少しくらい弱くても。少しくらい、泣いてもいいのかもしれない。
 愛することで、弱くなっても、でもやっぱりお前が居てくれれば、強くあろうとすることくらいはできる気がするんだ。
 だから、
「げ、げろう……!」
「……すまんが水木、もう、止まれぬ、」
「わかって、る」
 ちがう、とまらないで。
 そのまま、そう。
「……俺をたくさん……あい、してくれ、な……」
 腕の中、身を捩って真正面からゲゲ郎を見上げる形で訴えた。ぎゅうと強く、着流しの襟を掴んで。
 すると一瞬、驚いたような顔をしたゲゲ郎はすぐに破顔して、額のあたりにすり、と頬を擦り寄せてくる。
「ああ。ああ、水木。たくさん、あいされておくれ……」
 あたたかい言葉とともに、唇からひそやかにこぼれる吐息が、肌を掠める。
 くすぐったくて、どうしようもなく目の前が滲む。
 ひた、と合わさっていた頬がゆっくり離れて、あらためて見下ろしてくる顔は、やはり満面の笑みで。
「おぬし、泣き上戸か?」
「……お前のが、うつった」
「そうか」
 優しい声と共に、目尻に唇が触れ、ちう、と滲んで溢れそうだったらしい涙を吸う。
「甘い」
「ふつうは、しょっぱいもん、だろう……」
「おぬしのは甘いんじゃよ。匂いも。たぶん、わしにとっては、特別に……」
 言いながら、目尻から下がってゆき頬に触れた唇。そこから次に耳の縁を舌がそっと撫でる。
「っ、あ」
 ふいに声が漏れた唇にはゲゲ郎の指が触れた。真ん中から端までなぞってからぴら、と捲られて粘膜。続けて、再び唇が重ねられる。
「ふ、っ……」
「声も、甘い……」
 お前こそ、と言ってやりたいけど、また下唇をちゅっと吸われて、頭の芯がどろり蕩けそうで、己の唇から零れたのは言葉ではなくとろと涎。
 それも、すくいとるみたくねぶられて、腰のあたりが一気に熱をもつ。
 気取られたのか、大きな手のひらが背中から腰をたどる。
「はぁ……っ、あっ、ああ……」
 上からおりてゆくゲゲ郎の手のひらの動きとは逆、腰から頭のてっぺんまで、ぞくぞくと走るそれは快感の兆し。着流しの襟を掴む指に力がこもった。
「どうした」
「わかって、んだろ」
「わかっておるよ、しかし、言葉で、お主の声で聞きたい」
「……ぃ、い」
「……もう一度、聞かせてくれぬか」
「い、い!」
「なにがよいのじゃ?」
「きもちが、いい……」
「そうか」
 満足げに頷いた、ゲゲ郎の顔が近づいてくる。鼻先が触わる。胸がいっぱいになる。唇に息が届く距離まできたところで、そのいっぱいがあふれた。
「あいしてるよ。あいしてる、し、俺は、お前が……だいすきだ。ゲゲ郎……」
 伝えると、みあげた大きなまなこから、した、した、と下瞼のちかくにしずくがしたたる。
 少しだけ背伸びをして、いままさにまなこから生まれたばかりのしずくを舐めとった。その味は、
「……甘いぞ、お前のも」
 それも、きっと、俺にとって特別だからだろうか。



 運命は、きっと抗うことなど叶わず訪れる。
 選ぶ余地はない。あの時出会わなければ、などと考えるのも詮無きこと。運命によって導かれる出会いは必然。
 しかし、出会いがそうだったとして、水木とこうなる道をを選んだのは己の意思だ。
 ひとのことわりに照らせば、過ちと誹られるものだろうか。しかし我らはひとではなく、更には既に現世には居らぬ彼女に、常世へ押しかけるような真似をしてまで、その魂になにかを問うたり、ましてや乞うつもりはなかった。
 無益な自己弁護のための行いに過ぎぬ。自身を守りたい、利己のために其を他者にぶつけることこそが、よほどの過ちではないのか。
 もしも、この感情に由来する咎がこの世に在るというならば、何某かの障りを齎すのなら、当然に儂がすべて引き受けよう。

 しかし、与えられて初めて知ったかけがえのないあの愛は、我が心にあたたかい光を灯し続けてくれると確信している。
 いつか、この生が尽きる時がきたとしても、永久に。
 そして、それなくしては、生まれることもなかったろうこの愛とて同じ。
 渡された愛は、途切れずに廻る。
 最早抱えきれぬほど、胸に満ちて溢れたおもいは、涙のかたちをとって降る。
 水木に渡すために。
「……泣くなよ」
「……なぜじゃ」
 したしたとと滴り落ちた涙は、見上げてくる水木の頬の上でふたり分が混ざり合う。
 ゆるゆると降り積もった、いとしいと思う気持ち。いまは確りとした輪郭を持っている。その輪郭が、水木の側のものと、いま触れ合うたと感じていた。
 身体の交わりのみでなく、互いのこころも、行く手の道も、確かに交わったのだと。
「こんな……こんな綺麗なもの見せられると、もっとお前が……その、好きに……」
 やはりそうか。
 こころの交りは、思いを言葉にするを随分と容易いものに変える気がする。
 思うたままを、全て言葉にしてほしい。
 如何ともし難い部分があるのは承知で、ずっとそう願っていた。
 思う気持ち、そのかたちは変わらぬはずなのに、声をもってあらわす言葉、音になった途端、受け止める側にとってはあらためて輝きを放つ。
 無理を強いてでも知りたいと望んだ水木の胸の内。それが今は己のそれと混ざり合うのではと感ぜられるほどだ。
 想いの強さのぶん、言葉もまたとうとい宝物となる。
 つい今し方、落ちる涙を、水木の舌が舐めとっていった。同じあたりに、こんどは指が触れて、下瞼のふちから玉のように零れる粒をすっと拭う。
「そうか、ならわしは涙を流し続けようかの」
「ばかいうな」
 ふ、と笑う水木の唇には屈託がない。まるで、こころの重しが取れでもしたような、清々しさ。
「だがおぬしが思うほど、綺麗とは、とても……」
 清々しいその表情を曇らせやせぬかと思いながら、伝えた。綺麗な言葉のみでは全てを語ることが難しい。愛がとうとく、うつくしいのも、その思いが時に紆余曲折することもどちらも偽りのないまことだった。
「いや……いいんだ、それはそれで」
「?」
「だってどんなお前も、ぜんぶ、まるごと」
 じっとこちらの目を見てそう口にした水木が肩先に顔を埋めたかと思うと、するり両の腕が腰にまわされた。
 首の付け根のあたりに水木の唇と息が触れる。
「……いとし、いから」
 息と共にこぼれた微かな声にいざなわれるように、きゅうと抱きしめ返した。腕の中、水木の体温と、心の臓の拍、合わせて高まってゆくのが分かる。指の先で背骨の一欠片ずつ辿るようにして、腰から上へと向かいゆっくり、背を撫でた。ひく、と肩が小さく揺れる。それを感じて、自然唇が緩む。
「水木よ。いますぐたくさん、触れてよいか?」
「いい。そんなの、聞かなくて、いい……」
「そうか、なら」
 背丈の差をいいことに、胴にまわした腕で脇から水木を抱えた。
「わ! なんだよゲゲ郎、急に」
「いますぐたくさん触れるためじゃ」
 ふわっとつま先が浮いたところで、声を上げる水木。そのまま、さっきまで食事をしていた卓袱台のそばを横切り、襖ひとつ隔てた向こうの座敷へと運んだ。
「あ。布団……もう」
「おぬしが疲れておると思うて、風呂を沸かした後すぐに床ものべておいたのじゃ」
 上掛けを足で軽く払い、敷布団の上にそっと水木を下ろした。
「そっか。ありがとな……」
「なにも」
 見上げてくる顔の額を撫でて、唇で触れる。額からこめかみ、頬、そして唇を重ねると、水木の手が襟のあたりをぎゅうと掴んできた。
「ん、んん……」

powered by 小説執筆ツール「notes」