リトル・ミスター・サンシャイン(アンド、レインマン)信洛と門番くん
大佬の執務室に行くにはビルの入り口のセキュリティチェックを受け正面エレベーターから40階まで上がり、オフィスを抜けて一番奥のエレベーターからさらに6階ぶん上がり、非常階段に出て2階ぶん降りてエレベーターでは降りられない中階層のドアを開けて一番奥まで歩くしかない。もちろん防犯上の理由でだ。襲撃に備え執務室のドアは防弾仕様で中に50センチの鉄板が挟まれていて異常に重たい。ノックの音も聞こえないのでドアチャイムがついている。チャイムを鳴らし、天井の防犯カメラに向かっておれはへらっと笑い、ひらひらと手を振って合図を送る。腕時計に目を落として待つと、嫌味なほどきっかり30秒後にドアの施錠が解かれた音がした。重たい重たいドアを難儀しながら押して、できた隙間にからだを滑り込ませる。腕力には自信がない。色男、金と力はなかにけりだ。
大佬は入ってきた俺をちらりとも見もせず熱心に仕事をしていた。広い執務室の入り口から奥のデスクに目を凝らす。分厚い帳簿を広げ、領収書の束と睨めっこしている。なので俺は遠慮なくデスクに向かい、用事を済ませることにした。仕事をしているのなら出直すつもりだったが、あれはなんというか、「趣味」みたいなもんだ。経理なんて大佬のすることではないし、組には当然経理係も複数いる。専門の税理士も雇ってる。にもかかわらず大佬が帳簿をたまにチェックするのは、あれは好きでやっているのだ。数字を眺めていると心が落ち着くのだろう。昔を思い出すのかもしれない。いずれにしても、邪魔をしたところで特に支障はないだろう。そう判断した俺はデスクの前に立ち、顔を上げもしない大佬の前に手に持っていたものを無造作に放り出す。帳簿をめくる指が止まり、大佬がようやく目を上げた。同じ重さのスポーツカーより高価な明代のアンティークの黄花梨のデスクに置かれたものと俺の顔を順番に眺め、片方の眉を上げる。無言の催促に俺は口を開く。
「車の後部座席の床に落ちてたそうです」
ファスナーつきのビニール袋に包まれたそれを大佬が持っていた万年筆でつつく。構わず続けた。
「運転手が掃除してて見つけたそうです。大佬にお返ししてくれと頼まれました」
「……なんで直接返さねえの」
ビニール袋を万年筆でつつきながら大佬がそう呟く。思い当たる節があるのだろう。眉を上げて、ややばつの悪そうな顔をしている。
ファスナー付きの袋に入ったそれは男性用の下着だ。最近流行りのカルバンなんとかいうロゴがゴムのとこに印字されたタブグレーのボクサーショーツ。大佬の自宅からこのビルに送り届ける前に毎朝洗車を欠かさない運転手を任せてる下っ端が昨日の朝、後部座席の床で発見した。悩んだ挙句におれに相談してきたそいつの心中を思うと胸が痛い。こんなアホくさいことで死ぬほど悩んだだろうに。なぜなら。
「万が一、若頭のものであれば大佬に殺されます、と言ってました」
「なんで」
「洛軍のパンツ触った罪で」
大佬がかわいた笑い声を上げる。目は全然笑ってない。絶対殺す気だ。自分が落としたくせに。おれは呆れて肩をすくめる。おれにこれを託した運転手の判断は正しかった。大佬は万年筆のするどいペン先でビニール袋を持ち上げ、長いまつげ越しにおれを見上げた。
「二分の一の確率だけど、なんで俺のだってわかったの。洛軍のじゃなくて」
洛軍のものであればおまえであろうが殺す、というような笑顔で大佬はそう言う。おれは笑う。そんなアホくさい理由で死ぬのか。悪くない。
「ひとつ」
おれは大佬の鼻先に指を一本突き出し、おもむろにそう言う。大佬が眉をひそめた。
「洛軍さんはあんたほど迂闊な性格じゃないから。ふたつ」
指を二本に増やす。
「あんたなら洛軍さんにもっとエロい下着を履かせてるだろうから。三つ」
三本に増やす。
「おれがあんたの匂いを覚えているから」
どれだと思います。おれがそう尋ねると大佬は眉間に深い皺を寄せ、デスクの上のシガレットケースに手をやった。咥えた煙草に懐からライターを取り出し火をつけてやると、ため息のような深い深い紫煙を吐き出し、なんとも言えない表情で俺を見る。
「どれもムカつくけど、三番だけはやだなあ」
「じゃあ正解は三番です」
にっこり笑っておれはそう告げる。そんなもん、あんたが一番嫌がる答えに決まってんだろ。大佬の心底嫌そうな顔がゾクゾクする。あんたが洛軍と車の中で盛り上がって脱いだパンツの後始末させられてんだ、このくらい嫌味言わせろって。
かつて明のなんとか皇帝が調印に使っていた絶滅種のチャイニーズローズウッドのデスクに革靴に包まれた長い脚をどっかりと乗せ、大佬は二本目の煙草を咥える。おれが火をつけるのを待って、ボソボソと言い訳を始めた。
「おととい、ひっさしぶりに洛軍と予定が合って、一緒にジム行ったんだよ。に……三ヶ月ぶり?もっとか?」
「はあ」
「トレッドミルで並んで走ってたらさあ、ほら、なるじゃん、そういう雰囲気に」
「どういうですか」
「……勝負?」
「ははあ」
「そしたらトレッドミル勝負で負け、ベンチプレスで負け、スクワットで負け、サウナで負け……」
「サウナでも?」
「洛軍、めちゃくちゃ我慢強いんだもん……」
でしょうね、とおれは口には出さずにそう返事する。あの人いまだに週三で筋トレしてんだろ。こうやって日がな一日机にかじりついて金の勘定ばっかやってるあんたに勝てるわけないじゃん。
「帰りの車の中で仕返ししてやろうとちょっかい出したら、なんか、こう、盛り上がっちゃって……」
「運転手の身にもなってくださいよ。セクハラで訴えられますよ。ところ構わず盛り上がるな」
ピシャリと言ってやったらふてくされて唇を突き出す。かわいくねえからな。
「下半身丸出しで家に帰ったんですか?ちょっとは立場ってもんを考えてくださいよ。大佬がそんなみっともないこと」
「ズボンは履いてました〜。ファスナーは閉めてなかったけど……陰毛挟んでイテッってなったから……」
「はあ……」
聞こえよがしに大きなため息をついてやると大佬は肩をすくめる。仕返し、と言ったけれど、それが嘘なのはもう明白すぎるくらい明白だ。おおかたジムで汗だくになった洛軍にムラムラして家に帰り着くのも待ちきれず車の中でちょっかいかけたんだろう。運転手の目を気にしてやんわり拒絶する洛軍の態度にますます煽られてバックミラー越しに運転手を睨みつけて、「いいから前向いて運転してろ」って吐き捨てたんだろ。ションベンちびっちゃうだろ、下っ端にそんな態度取ったら。可哀想に。
「運転手にはボーナスやって配置を替えます。もっと肝の据わったのを連れてきますんで」
「誰?お前?」
「まっぴらですね。後ろであんたたちがハメ始めたらハンドル切ってガードレールに激突して三人で心中します」
くっくっくっ、と大佬が楽しそうに笑う。それから改めてビニール袋に包まれた自分の下着を万年筆の先で持ち上げた。唇の端が吊り上がる。意地悪そうな笑み。お前さあ、とすくい上げるように俺を見上げ、悪魔みたいに笑う。
「ところでお前さあ、これで抜いた?」
意地悪な年上の男の顔で大佬が俺を揶揄う。あの頃となんも変わらない顔をして。だからおれも同じように答えてやる。
「抜きましたよ、もちろん」
昔と変わらずおれはこの人に対する欲望を隠しもしない。
「そのパンツに鼻面を突っ込んであんたの匂いを嗅ぎながら一発、あんたが洛軍さんの汗の匂いに欲情してギンギンに勃起して先走りが染み込んだあたりをしゃぶりながら一発、最後はそのパンツでチンポ包んでセンズリしました」
指を三本立ててそう言ってやる。
「あんたのチンポからダラダラお漏らししてるカウパーを啜ってじゅぶじゅぶ竿をしゃぶってやりたい、アナルにまで垂れたぬるぬるの濃いザーメンごと指をズボズボやって、あんたの感じるとこゴリゴリしてアンアンよがらせて、おれのチンポが欲しいって泣きじゃくるまで焦らしてやって、そんで、」
「もういいよ」
「こっからが佳境なのに」
「だいたいわかった」
ドン引きしてる大佬におれは内心で勝った、とガッツポーズをする。意地悪でエッチな年上の男はこうやってことあるごとに今でも俺を挑発するけど、おれだって負けてない。
「そのパンツ履いたらあんた孕んじまいますよ。おれのザーメンで」
「洗って返せよな」
「嬉しいくせに」
用は済んだ。頼まれてたものも返したし、この人の嫌そうな顔を見られたし、おれは満足して一礼する。きびすを返して執務室をあとにすると、重たい重たいドアが閉まる直前、ビニール袋がゴミ箱に放り投げられた音がした。
★
おれにはこのあとの展開が手に取るようによくわかる。まるで見てたみたいに。
このあとこの執務室を若頭が訪れる。そしてゴミ箱にこれ見よがしに捨てられた下着に気づく。それが昨日のものであることにも気づくだろう。全身を大佬から贈られた高級ブランドの服で固めているのに、あの人の本質はあの頃のまま、破れたタンクトップや大佬のお下がりのシャツを着ていた頃のままとなにも変わらない。まだ使えるものを捨ててしまうことに抵抗を覚え、若頭は大佬にこう尋ねる。捨ててしまうのか?それ。大佬は唇を吊り上げ、微笑む。そしてこう言う。
『マークのザーメンついてる』
そう言われてすべてを察したあの人は眉をひそめ、心から嫌そうな顔をする。それを見てあんたは笑うんだ。好きな男の気を引くことに成功した恋する乙女みたいに可憐な顔をして。かわいそうなおれのかわいそうなオナニーの果てのかわいそうなザーメンは、恋人たちがイチャつくためのダシにされる。
だけど、信一。あんたはわかってない。
洛軍が嫌そうな顔をしたのはおれに嫉妬したからじゃない。おれに同情したからだ。それとも共感かな。あんたに恋する一人の男としての。洛軍だってあんたのパンツが車の床に落ちてたらおれと同じことするだろうよ。三回抜く。あんたに恋してるから。
不思議だな。洛軍にぞっこん惚れ込んでるあんたより、あの人のこととことん嫌ってるおれの方が、あの人の気持ちがわかってる、そんな気さえする。
あんた知らないだろ。なあの人が現場を退いて若頭になってもう何年も経つのに、今でも週三で筋トレを欠かさない理由を。あの人は今でも、あんたになんかあったら真っ先に先頭に立つつもりなのさ。何人護衛がいても関係ない。あんたに向かってくる刃物や、銃弾や、拳を、今でも自分のからだで受け止めるつもりで、今でもそのつもりで体を鍛えてんの。知らなかっただろ?必死で隠してるもん。だって実際そんなことになったら、あんたはきっと今度こそ壊れちまう。目の前で愛する男を失うのは、初めてじゃないから。
そんなことも知らず能天気にトレーニング後の洛軍の汗の匂いにムラムラして、車の中でおっぱじめちゃったんだろ?ほんと変わんねえなその堪え性のなさ。
だけど洛軍は、おれは、おれたちはみんな、あんたのそういうとこに恋してる。たくさんの女の子たち、男たち、みんなあんたのそういうとこが好きなんだ。おれたちのわがままな王子様、おれたちの信仔、おれたちの信哥。
あんたがそうやって意地悪でエッチな年上のお兄さんみたいに振る舞うなら、おれもいつまでも俺の役をやるよ。あんたに恋する年下のハンサムな男の役を死ぬまでやる。ジジイになってハゲて腹が出てもずっと。だってあんたは今でもおれたちのミスターサンシャインだからさ。
非常階段を登り扉を開けて中のエレベーターを待つ俺に、到着の音がする。ドアが左右に開く。中から出てきたのは全身を高級ブランドで包んだ屈強な若頭だ。すれ違いざまに頭を下げる俺に目で挨拶をして男は非常階段への扉を開け、進んでゆく。俺は振り返らずエレベーターに乗り込む。今度は執務室の床にパンツ忘れるんだろうな、そう思いながら、エレベーターのボタンを押す。
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