布団



「しばらくお前んとこ住まわせえ。」
少ない荷物を玄関においてずかずかと部屋に入って来た兄弟子に麦茶を出すと、その薄い茶を飲む前に口にした言葉に耳を疑った。そのつもりでここに荷物を運んで来たに違いないとは気づいていたが、ここまできっぱりと口に出すとは思わなかった。
表通りから聞こえて来る車の行き交う音の中。掠れた声を聞きながら、こんな時までお願いはせんのやな、とぼんやりと思った。
落ち目になっても身だしなみはそれなりにきちんとしていたが、今日はうっすらと汗の匂いが漂って来る。
引っ越しを終えた直後なのだろうか。
これまでローンを払い続けていたリビングは稽古場と同じくらいの広さがあって、身の丈に合ってないような感じがしていたが、とうとう出て行くことにしたらしい。ここに泊めてくれという割には、どうも荷物が少ないような気がしたが、あの広い部屋に入れていたものを片付けるのは大仕事だったに違いない。
どうして誰も呼ばなかったのかと聞いても、今更だろう。
手伝う必要がないならないでそれに越したことはないが、そこで意地を張って後でこんな風にふてた顔をするくらいなら、声を掛けたらええのに、と思った。
僕には頼りたくないというならば、兄弟子に相談するのでもいい。
そもそも、この人にとっての僕の立ち位置は、今は大事な妹弟子の下の二番手である。
普段は、それが楽と言えば楽と思っているはずなのだが、今はどうしてか、妙に腹立たしいような気持ちだった。


底抜け~の一発芸が受けて徒然亭小草若の名前が売れ始めた当初、あのマンションに引っ越しすると言って呼ばれて、狭い部屋で荷造りを手伝わされた記憶がある。
それまで住んでた部屋には、酔い潰れた兄弟子を運び込むために一、二度入ったことがあるが、便所と風呂シャワー付きというだけで、階段も洗濯機もマンションの外付けになっているようなアパートで、こことそう広さも古さも変わらない狭い物件だった。
「あのマンション、売ったんですか。」と尋ねると、相手は「そうや。」と答えて麦茶を飲みほした。
今更売りに出したところで払い終えられないほどのローンが残っているという話は、年の瀬に聞いていた。
あの頃にたまり場にしていた別の飲み屋で、「ローン背負ってまで家から近い部屋を買うくらいなら、金貯めて少し安いとこ一括にしたらどうや。」と草原兄さんに説教されていたこの人は、あの時何と答えていたのだったか。
空いたコップにお代わりを注ぎながら、最後のあがきとばかりに「ここ、便所もシャワーも共有ですよ。」と言った。
「そんなことくらい知っとるわ。」と言ってまた麦茶を飲んだ。
汗かいたから、シャワー浴びてくる、と言ってリュックからタオルとパンツとを出して行ってしまった。
着替えの入った荷物、金目のもの、徒然亭小草若、本人。それだけが揃っている。
それだけ。


脱衣所にドライヤーあったから借りたで、と言う兄弟子はシャワーを浴びたばかりの水の匂いがした。
髪が下りていると、普段は突っ張っている男が自分よりも年下であるという事実が目の前に突き付けられる気がする。
酔って正体をなくしたような夜も、今日のような日も、それでも、これが師匠の息子であるという事実がなかったら、今頃は部屋から蹴り出しているだろう。
まあ、蹴り出すことまではしないが、ここに住み着かれるのは具合が悪い。そうでなくとも目の前から消えてしまえと思っているのに。
「小草若兄さん、僕の部屋、布団一組しかないですよ。明日の朝にレンタカー借りて荷運びするにしても、今日はどっかホテルに行ってください。」と言った。
かつて草々兄さんがこの部屋に押しかけて来たときは、都合よく呼び出せる女がいたのでなんとか部屋の外に追い出すことも出来たが、野宿も出来るような男だったので、結局は、周りに住んでる人間にやいやい言われたのもあって、根負けして部屋の中に招き入れることになってしまった。
この先も同じことがあったら敵わんな、と思ってあの時に押し入れに入れっぱなしにしていた客用の布団を粗大ごみに捨ててしまったのだった。
「布団、ないならないでしょうがないやんか。」
「は?」
「しゃあないけど、狭くても我慢するわ。……もう布団敷いてええか?」というその口で兄弟子はちゃぶ台を片付けて押し入れから布団を出して、熟練の仲居のようにてきぱきと敷布団の上にシーツを整えて窓辺に敷いた。
「何してるんですか?」
「何て、寝る準備や。」
布団を捨てたことより、あったことで悔やむ方が確率が高いだろうとは思っていたが、まさかそれが仇になるとは思っていなかった。
「おい四草、お前、いつもは布団、こないしてカラスの横に敷いてたよな。もうちょっと離してたか?」
九官鳥とも長い付き合いになる。
自分では水回りからはなるべく離して窓の近くに寝ていただけのつもりだったが、平兵衛の横が定位置と言われて気が付いた。兄弟子にはずっとそういう風に見えてたのだろうか。
ぼんやりしているうちに、羽毛に見せかけた綿の布団の上掛けを乗せて、その中にパジャマに着替えたばかりの兄弟子が吸い込まれて行った。
ぽいぽいと脱いで出て来た薄い身体は、かつて弟子入りしたての頃にも夏場の薄着で何度か見たことがあった。
あの頃からそれなりに時間が経って中年と言われる年になったというのに、食事の事情か、忙しない仕事量での寝不足が祟っているのか、そこらにいるサラリーマンのように肉が付く気配もなかった。
寝るには早すぎる、というほどの時間でもないが、明日、朝一番で家を出て、布団を買うためにレンタカー屋の手続きをすることを考えたら、この時間に寝た方がいいには違いない。
「歯ぁ磨いたら、さっさと電気消してお前も寝ぇ。」
「布団使ってええとか言ってないですけど。」と往生際の悪い自分が顔を出して驚いた。
「お前、兄弟子を畳の上にそのまま寝かせるつもりとちゃうやろな~。そないなことは生まれ変わってオレより早くオヤジに弟子入りし直してからにせえ。」と布団を被ってしまった。
こうなってしまったら、何を聞く必要もなく、ただ受け入れるしかないのは分かっているのに。
「それとも、こないな時間からでも稽古してんのか?」と兄弟子はにょっきりと布団の中から顔を出した。
草々やあるまいし、と言われてカチンときて、三十分前に、草々兄さんと若狭のいる自宅に出戻ったらええじゃないですかと、言いそびれたことを後悔した。
こうして腰を落ち着けた今になって口にしたところで、もう遅すぎる。
僕の布団の中で、一度頭から布団を被ろうとしたせいか、細長い男の足首はすっかり外に出てしまっていた。
寝る前からもうこんな風になっているのだ。
算段というなら、この人がうちの敷居をまたぐ前に済ませておくべき話だった。
「……稽古はしませんけど。平兵衛の餌やってからでないと寝られません。」
嘘だった。時間稼ぎをして何になるのかと思ったが、同じ布団で寝るために跡から入っていくことに、妙に抵抗があった。
「そんならさっさと済ませてしまえて。オレの身体またぐときにちょっとでも踏んだら底抜けに拳骨が飛ぶでぇ、覚悟せえよ。」
完全に兄弟子のペースだった。
仕方がないので、九官鳥に水と餌をやって、面倒なので歯を磨いてそのまま電気を消して布団に潜り込む。
狭い布団の中は、妙にぬくかった。
女と寝るときには下半身ばかりが熱く、その熱を身体の外に出すことばかりを考えていた。一度出すものを出してしまえば、頭はいい具合に冷えて、それからは落語のことだけを考えていられる。
師匠の平兵衛を思い出して、頭の中で反芻するには、それが一番いいやり方だった。
「そういえば、オレとお前が同じ布団で寝たら、オヤジとお前が間接的に一緒に寝たことになんのか?」
ぽつりと兄弟子が言った。
………は?
「ま、ええか。おやすみ、四草。」
「……おやすみなさい。」
目が冴えて、そのまま寝られなくなった。
兄弟子の寝息が聞こえて来ても、天井を見上げたままで、何も出来ない。

何してくれるんですか、と言うと、ぬるい空気の中に、自分の声が溶けて消えた。

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