23時

二十三時の洗面所は、まるで朝の曙光が溢れるような眩しさだった。
目を細めた譲介は、ややもすると、半年ごとに消えかけた蛍光灯が点滅しているようなあさひ学園のことを思い出してしまうが、それが現実逃避だと知っている。
「おら、もっと口開けろ。」
「ひゃ、むりれふ……」
「無理じゃねえ、やれ。」と凄まれて、譲介は怯む。
目の前にいるのは確かに譲介にとっては新しい養育者ではあるのだが、高校生にもなって、なぜここまでされなければならないのか。くそ、顎が外れそうだ、と思いながら、譲介は奥歯の近くに伸ばしたフロスを当てられる間、口の中に入って来るラテックス手袋の感触に耐えた。
どうしてこんなことに、と思うが、恐らく相手にしても似たようなことを思っていることは、その居心地が悪そうな顔を見ればわかった。
こんな使い古しの歯ブラシを後生大事に使いやがって、と言いながらTETSUが譲介のために買って来たのは、輪ゴムで束になった、カラフルな歯ブラシだった。赤、緑、青。シンプルな原色のそれは、譲介がこれまで使っていた、おそらく底値で学園に買われてきただろう歯ブラシとは明らかに違っていた。
そして、これだ。
小さな四角い糸を出す小箱。デンタルフロス。
細い糸を引っ張り出して、歯と歯の隙間に宛てて中の汚れをこそげる道具。
使い方を教えてやるから明日から新しいブラシと一緒に使え、と言われて、勉強も途中だというのに、首を掴まれるようにして洗面所に連れ込まれた。
そうして、広い洗面台の前に立たされ、世間じゃ皆こうしてんだよ、と迫られて、口の中にフロスを入れられる羽目になった、と言う訳だ。
ラテックスの手袋を填めた太い指と指の間に、二センチほどの長さを取り、開けた口の中に他人の指が侵入する。口の端から涎が垂れるほどに開けたままにされて、譲介は、恥ずかしさに死にたくなった。
目の端に涙がにじむ。上にC2ふたつと齲歯か、とため息を吐いている相手が余りにも平静な顔をしているのも気にくわなかったが、こんな風に言葉を封じられて、逆らえるような状況ではない。
「ん、ああ………口濯げ。」
譲介の精神状態に気づいたのか、TETSUは、やっとのことで譲介の口からフロスを外し、小箱を洗面台に置き直した。
慌てて嗽をすると、TETSUは譲介にタオルを差し出し、「手本を見せたんだ、後はおめぇが自分でやってみろ。」と言ってフロスを渡した。
上の歯の隙間に糸を通してみる。歯と歯の間隔が狭いのか、通らない。
動かしていると、力任せにするな、歯肉が傷つく、と言われ、隣を試してみろ、と言われる。今度はうまくできた。何度か試して、こつが分かって来ると楽しくなって来た。一通りが済むと、「上と、下だ。寝る前に両方やれ。一度やったら動かして、また別の新しいところで使え。」と最後にTETSUは言った。
やっと口を漱いでみると、血の味がした。譲介は、口元にタオルを当てながら、こうしろ、とTETSUの指に手繰られる白い糸を眺めていた。
「……なんでこんなことするんです。」と尋ねる。こうしたお節介はこの人の領域じゃない。それはTETSU本人も分かっているだろう。今の彼は、そういう顔をしている。
「おめぇがあんな使い古しの歯ブラシを捨てずにいるからじゃねえか。」と窘めるように言った。
そんなことはない、と言いたかったけれど、目の前の男から見れば、そう見えるのかもしれなかった。
「実際のとこ、医者なんてのはそれぞれ狭い領域のエキスパートだ。身体はどこも繋がってるんだから、専門外を無視して、外科だの内科だの、患者の身体のうちで自分の持ち場だけ見てぴーちく囀ってる野郎どもが気に食わねぇから何でもそれなりにこなすが、精神科と歯は専門外なんだよ。ある程度までは自力でなんとかしろ。あと、コイツだけは痛くなっても我慢すんな。金は出してやる。後、この辺の歯医者にゃヤブが多い。行くなら、隣町か、今の学校の近くは、通うには遠いか。三か月に一度。木曜とか、授業が早く終わる日があんだろ。適当に曜日を決めとけ。」
「……ありがとうございます。」
とでも言えばいいのだろうか。
相手が酔って戯れにこんなことをしている訳じゃない、ということは分かったが、この状況は譲介にとって、余りにも奇妙だった。
「ノートに書くので、その歯医者の名前を教えてください。」と譲介が言うと、覚えてねぇな、とTETSUは言った。
「住所をプリントアウトしておいてやる。オレの話は今日はもう仕舞だ。医者に行ったら、歯の磨き方も教えて貰え。」
「分かりました。」




「……ってことがありましたよね。」と譲介は言う。
後から、プリントアウトした歯医者が「みどり小児歯科」とあって、この人はその名前を言うのが恥ずかしかったんだろうか、あるいは自分に気兼ねしたのかと譲介ははたと気付いたのだった。
こんなときに、んな昔のこと思い出すんじゃねぇよ、とTETSUは言った。キスの後で顔が上気しているところが可愛いな、と譲介は思う。
明日は一緒に歯医者行きましょうね、と念を押すと、「知るか」と言って腹に拳が飛んできた。

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