とある場所の二月十四日
阿七は今、混乱していた。
それなりに人生の酸いも甘いも経験してきたと思ってはいたが、まだまだだったのだと自分の驕りを反省する程度には、目の前の光景に理解が追い付かないでいた。
ちなみに反省はひとまずの現実逃避だ。一旦目の前の問題から目を逸らすことによって、頭のクールダウンを図っている。個人差はあれど人間の脳が一度にできる情報処理は量が限られており、詰め込み過ぎたところでオーバーヒートし回転が鈍るだけで、問題の解決にはつながらない。
まずは落ち着くことが肝要。息を深く吸い、ゆっくりと吐く。脳へと酸素を送り込む。
思考がクリアになっていく。もう動じることはなにもない。
「よし」
自身への掛け声で気合を入れる。
「花束は動線の邪魔にならないよう隅にまとめて置く。置ききれない分は仕方がないから洛軍の部屋に運ぶことにする。今後も届くと思うからその分もだ」
普段は飲食する客で賑わっている阿七冰室は今、その様相を著しく変えていた。
色鮮やかな花々でまとめられた花束が空いているテーブルや椅子の上はもとより、客がいるテーブルのわずかな空きスペースにさえ所狭しと置かれていた。いつもなら食欲をそそる匂いが漂っている店内も今は生花が放つ芳香で満たされている。阿七が頼んだものではない。店内を圧迫して捨てたり突き返すことはできなかった。これらの花束はすべて洛軍あてだった。
本日は二月十四日、情人節。主に男性が恋人や想い人に対し花やプレゼントを贈り、また食事に誘ったりして愛を伝える日である。
そしてそんな二月十四日に阿七の店が数々の花で彩られたのは開業以来、今年が初めてのことだった。
阿七が花束の移動を開始すると、常連客も立ち上がり手伝い始めた。このままでは自分たちが若干窮屈な状態で食事をしないといけないということもあるが、城砦は助け合う場所であるから当然の行動でもあった。その間にも城砦の名物店であるこの店には客が入ってくる。入ってきた客が花束を抱えていると、阿七は店から見える、一段上にある壁のない部屋を指さした。洛軍の部屋だった。
「その部屋に置いておけ」
花束を持ってきた客はキョロキョロと洛軍の部屋を見渡して、せめてベッドか棚に置くために部屋に上がりたいのだが、と阿七の方に振り返った。しかし阿七は首を横に振った。
「手を伸ばせば届くだろ、床に置け」
お願いではなく指示。有無は言わせない。よく知りもしない相手を勝手に立ち入らせるなどするわけがないだろう。嫌なら花を持ってとっとと帰れ。
客は渋々ながらも阿七に従って、花束を洛軍の部屋にそっと置いた。そのあとは何事もなかったかのように空いている席に着くと食事の注文をした。
阿七冰室は城砦内でも屈指の名物店。来たからには何も食べずに帰るなんて、あまりにも勿体ない。
昼の食事時を過ぎた頃になると客の入りはだいぶ落ち着き、空席が目立つようになった。かわりに店から見える洛軍の部屋はすっかり花で埋め尽くされていた。一応サマーベッドや歩くためのスペースだけは確保するように気を付けて置くようにしていたが、花束の数は阿七の予想をはるかに超えて届き、苦肉の策として店の動線を狭めて花を置くスペースを増やしたが、洛軍の部屋は人一人がかろうじて歩ける程度にしか空けることができなかった。
花束たちの宛先人である洛軍は今日、朝から晩まで仕事で不在の予定だった。
普段はしていない花屋からの配達の仕事が入っていて、朝からその配達に追われているのだ。阿七もこの日の花屋の忙しさは知っていたので、洛軍には店の給仕の仕事より花屋を優先してやれと伝えていた。
帰ってきて自分の部屋のこの状態を目にしたら、一体どんな顔をするのだろう。
もしかしたらどうしていいか分からず困ってしまうかもしれない。
「まあ、花を一通り見せたら皆に配ればいいか」
花束には送り主の名があったりなかったり、連絡先やこの後の予定を伺うメモが入っていたりいなかったりと様々だ。洛軍は真面目で素直だから一つ一つに対応しようとするかもしれないが、これだけの量でそれをしていてはいつまでかかるか分からないし、なにより相手によってはいらぬ誤解を招きかねない。ここは自分がしっかり対応してやらねば、と阿七は心を決める。当初は洛軍のことを城砦によくいる流れ者の一人として見ていたが、いつの間にか親心によく似た思いが芽生えていた。
それにしてもこれ以上は店にも洛軍の部屋にも置けそうにない。受付停止をするべきか。
阿七はさっそく張り紙をすることにした。
『置き場が満了のため花の受け取り終了しました』
「げっ、なんだこれ!」
店の前に張り紙をして厨房に戻った途端、そんな声が聞こえてきた。聞きなれた声だった。次いでどたどたと駆け込んでくる足音。
「阿七、あの張り紙なんだよ!?」
藍信一。この九龍城砦の管理人である龍捲風の養い子にして右腕の、前途有望な青年。右手には帳簿、左手には花束を抱えていた。
信一、お前もか。
「なにって、読んで字の如くだ。見ろよ、店の中と洛軍の部屋を。これ以上どこに置けっていうんだ」
百聞は一見に如かず。信一がその目に映った光景に「うっ」と言葉を詰まらせた。
「い、いや、でもあと一つくらいなら」
「一度例外を認めたら、他のもなし崩しに認めないといけなくなるだろ。今日で世界が終わるわけでもなし、次の機会にチャレンジしな。っていうか本当に花を贈りたいんなら、明日や明後日でもいいだろが。こういうのは日にちじゃなくて、気持ちが大事なんじゃないのか?」
「阿七、正論パンチはやめてくれ。そもそもこの状況をおかしいと思わないか? 洛軍はここに来てまだ半年も経ってねえってのに、なんでこんなに花が贈られる? この大半が間違いや悪戯って可能性が大いにあるだろ。そんな中に真実の花束が一つくらいあった方がいいんじゃないか」
「この状況はなにもおかしくない。すべて洛軍が日頃地道に積み重ねてきた誠意の証だ。最初は誰よりも洛軍を警戒し監視していたようなお前が、すっかり気に入ってあれこれ世話するようになっちゃった相手だぞ、洛軍は。一般の住人たちが好きにならないわけがないだろ」
「た、確かにそうかもしれないけど……! でもせめて俺のは渡してくれるとか」
「そんなに渡したいなら自分で渡せばいいだろ。夜には戻ってくる」
「今日は会合があるから、帳簿付けしたら出なくちゃいけないんだよ。いくらなんでも配達途中に捕まえて渡すわけにもいかねえし。だからさあ、今回だけでも」
信一が粘る。引く様子は見られない。阿七は難しい顔で逡巡した後、「分かったよ」と折れた。
途端に信一の顔が明るく晴れた。
「阿七、ありがとう!」
阿七に抱き着く。愛されていると知っているからできる行為だ。もちろん阿七は信一のそんなところが嫌ではない。
「全く、特例の特例だ。今回だけだぞ。つっても、お前に関しては今までだってなんだかんだずっと優遇してきたけどな。ガキの頃から知ってると、つい可愛がってしまうもんだな。でも……それもこれで最後だ。これからはお前がそうしてやる番だから。今まで貰ったものを分け与えてやってくれ。親の業で本来受けるべきものが受け取れなかった子に、ここで龍兄貴や住人たちから注いでもらった愛情を見えるものも見えないものもいっぱい渡してやってくれ」
「……阿七? なにを言って」
「まだまだ世間知らずだからな、言わずとも察するだろうなんて思わない方がいい。分かりやすく、態度と目に見える形から入るのが効果的だと思うぞ。インパクト勝負だ。例えば、こんな風にたくさんの花で店を埋めて見せるとか、な。“理髪店”の客にもアピールできて一石二鳥だろう。でも高級レストランとかはやめておけ。あれはそういうところの料理よりも叉焼飯の方が旨いとか言うぞ。口に出して直接言うことはないだろうが、確実に心の中ではそう思ってるはずだ」
「は? 理髪店って兄貴の? 高級レストラン? それどういう……」
困惑している信一に阿七は続ける。「そろそろ明るくなってきたな。久しぶりにここで店ができて良かったよ。……身体、大事にしろよ。じゃあな」信一の肩に手を置いた。
「待ってくれ、阿……」
信一が手を伸ばすが掴んだのは空だった。
明るい天井。窓から差し込む光。外からは車の行き交う音が聞こえる。
先ほど見ていた光景とはまるで違う景色。でも見慣れたものでもある。
自分の部屋であるのだから当然だ。
「……ははっ、なんつう夢だ」
思わず笑みがこぼれた。かつての城砦での夢はこれが初めてではなかったが、それはいつも血と悲しみと後悔で覆われていて、こんな風に気が抜けるような夢は初めてだった。ましてやもう会えない人と
穏やかに話せるなど、たとえ夢でもできるなんて思いもしなかった。視界が滲み、鼻が詰まり始める。
笑い声は次第に嗚咽に変わった。
ひとしきり泣いて呼吸が落ち付くと信一はカレンダーを見た。月はまだ十月に入ったばかりだった。
「情人節って、まだ先だろ。……分かったよ阿七。アドバイス通り入念な準備でもってベタでも強インパクトな情人節にしてやって、アイツの度肝を抜いてかつ、今まで伝わってんのか伝わってないのか微妙だったことの決着をつけてやんよ」
翌年の二月十四日。陳洛軍が独立して自分の理髪店を構えた初めての年。
朝からトラックが大量の花を運び込み、呆気にとられている洛軍をよそに店内を色鮮やかな花々で飾り埋めて去っていき、常連客の何人かは理髪店が花屋に変わってしまったのかと勘違いして店に入らず帰ってしまったり、もしくは知人友人に聞いて回ったりし、あるいは理髪店に花束を抱えてきた客がその光景に何かを諦め去ってしまうという事態が発生していたが、それらの混乱はいち早く平静を取り戻した洛軍と、事態を聞いて駆け付けた友人たちや城砦時代から馴染みのある客たちのおかげで開店の一時間後には落ち着いた。
その日の理髪店はいつもより早く閉店した。洛軍が閉店時間が早まったことを客に告げる直前、彼は誰かと電話をしていた。最初は普段あまり客には聞かせることのない強めの声色で話していた洛軍だったが、その声はやがて小さく柔らかくなっていき、次第に消え入りそうになっていた。電話を終え戻ってきた彼は普段と変わらぬ顔をしていたが、耳や首筋がほんのり赤くなっていたのを洛軍目当てで通っていた客の一人は見逃しはしなかった。
一ヶ月後、洛軍目当ての客が再び理髪店を訪れると、洛軍の首元にこれまで身に着けているのを見たことがなかったネックレスのチェーンの存在があることに気が付いた。客が全身全霊をかけて眼力をチェーンに注ぎ辿ると、服で隠れている中心が浮いていて、その形がリング状であることに気が付いた。
失恋のショックのあまり、客は理髪店に通い始めて初めてシャンプーを頼まずカットのみの注文にしたのだった。
powered by 小説執筆ツール「arei」
28 回読まれています