蜜柑
「そこのけそこのけ色男が通る【夕方出張版】……?」
稽古から帰って来ると、仕事を終えた兄弟子が先に家に戻って来ていた。
キッチンスペースにも食卓に使えるテーブルはあるが、かつての生活の名残で、未だにちゃぶ台としか言いようのない丸いローテーブルを使って食事をしている。
言葉にして決めたわけではないが、椅子で囲むテーブルは子どもが朝御飯を食べる時など、時間のないときに使い、夕食をゆっくり食べたいときやおやつはちゃぶ台で、ということになる。
置かれていた一枚ビラを手に取ると、かつて見たことがあるフォントで書かれたタイトルの横に、見覚えのあるようなないような格好をしている兄弟子の姿があった。
これから冬になるというのに、チラシの中の兄弟子は十年前のこの人と言っていいような若々しい様子で、秋めいた色の服を纏っていた。
見たことのあるようなないようなジャケットで、二つ折りの携帯にじゃらじゃらとストラップを付けていた時代に似たような服を着ていたような記憶があるが、あの頃の雰囲気に合わせた服を着て撮ったのだろうか。
髪色が若干明るいのは、師匠のように白髪の入って来た頭を仕事に合わせて染めたのだが、今はもうちょっと落ち着いた色になっているから、昨日今日撮影したものではない。あるいは髪の色だけを変えるCGのような技術を使って作られたチラシだとしたら、それなりの手間が掛かっている。
「なんですか、これ。」
人ひとりの空間を空けて座ったところに、あんな、と兄弟子が距離を詰めて来た。
「そこに映ってんの、四代目草若やのうて可愛い小草若ちゃんや。」と言われてまじまじとチラシを見ると、確かに、面差しが若い頃のものであるように見えて来た。
一瞬だけ、仕事のためやと言い訳して流行りの髪色に染めていたことがあったな、と思い出した。
こんな色だっただろうか。
それにしても。手の込んだエイプリルフールのネタと思いたかったが、それにしては手が込み過ぎている。いつかの正月に買った熊手の効果が今頃になって出て来たとでも言うのだろうか。
チラシをまじまじと眺めるのにも飽きて、蜜柑を食べる兄弟子の手つきを眺めた。これまでに知った中でも一番美しい女だと思った人間から生まれて来たくせに、切りそろえられた爪くらいしか似たところがない。
腹が減っているのかと思われたのか、やるわ、と言われて、言われるがままに口を開けると、手元で剥いていた青桐の蜜柑の一房が口に入って来た。
早生の蜜柑は、妙に酸い味がする。
おかみさんは、冬になってから出回る甘い蜜柑よりこの手の青い蜜柑が好きだった。
師匠が地方の仕事から戻る前に、あるだけをふたりで食べてしまおうか、と言われた記憶がよみがえって来る。調子が悪いおかみさんのために、嵌めものの入らない噺にすると言って出かけて行った師匠の背中を覚えている。
あの夜の蜜柑はあっという間に二人の腹の中に消えて、もう少し食べたかったなあ、そうですね、と二人で言い合った。
あの頃のこの人は、いつでも早生の酸っぱい蜜柑ばかりを食べていたような顔をしていた。
僕にもひとつください、と言うと、ちゃぶ台の下から手品のように蜜柑が現れた。
「どこに隠してるんですか、どこに。」
「いや、ひとりじめしよ、とかそういう訳ではないんやで。さっきかて、あないしてお前に分けたったやないか。」
新しい草若になっても子どものような男は、青い蜜柑を僕に手渡しながら苦しい言い訳をした。
「あ、そのチラシな。新しい仕事、決まったからお前に先に言うとこと思って。そのビラはまあ、仮の印刷やねんけど。」
「はあ。」
誤魔化すにもほどがあるだろうと思ったが、仕事の話は入ったらすぐに共有するというのが一緒に暮らすルールのようになっていた。
かつて、一世を風靡した芸人だったこの人には月曜から日曜まで平日以外にもみっちりと仕事が入っていたが。そういえば、このところのテレビは、ゴールデンタイムという時間にかつてのような時代劇やドラマを見なくなって久しい。どこかで見たようなタレントを使い回したバラエティー番組が増えるばかりで、そのバラエティー番組ですら、テレビ局ではない名前が入った録画の特番や、かつての再放送で埋め合わせることが多くなって来た。
レギュラー出演ですかというよりは……開始の日付がちらしに書かれていないのが気になった。
「まさか、これ、下半期ずっとですか?」と聞くと、そんな景気のいい話があるかい、とツッコミが入った。
「なんや秋の番組改編でメインになるのが決まってたヤツが車で事故起こしてしもて、いきなり降板になってしもたんやと。人に怪我させてしもたて話やから、スキー場で足を捻挫するのとはまあわけが違うて話や。示談にしてどうにか誤魔化すことができへんか、て焦ってしもたんか、結局物別れになったらしくてな。天狗からオレに話が来たんも、つい一昨日やで。草若、ちょっと天狗座に来てくれんか、て言われて、出番でもないのに呼び出されて、これどうや、てチラシ渡されて、――それも、タイトルだけ昔のデータ見てそれらしいフォントに替えて、そのオレの写真な、天狗で前に作ってたサイトから持って来たヤツやて言われて脱力したで。自社サイトのもん使ってるのは、まあええわ。小浜好きやで観光大使とかのサイトからパクって来たて言われたら目も当てられんからな。それにしたって、カメラマンとスタイリストを雇う金とオレのこと拘束する時間を雑なやり口で浮かそうと思ってるなら、仕事断るで、て言うたら、今まだ企画段階の通すために作ったから後から撮り直すけど、それ割といい写真やろ、やて。十年前の写真やから今より若々しくてええように見えるのは当たり前やがな。あいつホンマ……昔のカチカチしてたところ、どこにやってもうたんや。」
前任者の事故の話からはずっと立て板に水で、よっぽど誰かに話したかったらしい。
若狭がここにいたら聞き役を押し付けてどっかいってるとこやな、と思った。
「ほとんど埋め草みたいな扱いやねんけどな。オレなら前の時のデータが――まだフロッピー使ってた頃のが残ってたて言われてもなあ、いつのことやねんて話やねんけど、それ焼き直してどうにかなるかと思ったんやと。お前が気になるんなら新しい写真、小浜の観光協会の方に話通して、使用料払って使えるようにしとくわ、て言ったけどあいつ割と口先だけやからな。ちゃんと明日にでも話したらんとなあ、て思ってて。」
「呆れた手の抜きようですね。」
「お前が想像するよりも、ほんま底抜けに手抜きやで。台本ももろてきたけど、アナウンサーの名前以外は、取材する店も、潰れたとこはスキップするて言われたけど、ほんま寸分違わん話やねん。」と蜜柑を食べながら兄弟子は言った。
「台本まで出来てるんですか。」
なるほどポスターが間に合わせの写真になるわけだ。
「そらまあ、来週からの話やからな。オレの予定も先に若狭から聞いてんのかどうか、ほんまカラスマのヤツ、話が早いのなんの。」
そう言われて、かつて徒然亭一門の仕事の割り振りを一手に引き受けていた男の顔が思い浮かんだ。
現場からはもう手を引いて経営の方に行っていると聞いていたが、こういう時にはかつての人脈豊富な男が重宝されるらしい。
「仕事、受けたんですか。」
受けてますよね、という確認に近い。受けるつもりのない話をここまで引っ張る必要はないからだ。
「――受けたわ。天狗からの御指名でここまで話が進んでしまっていてはなあ。お前かて断れへんやろ。」
「僕にはこの手の仕事来ませんから。」
「そらま、そうですけどお。……日暮亭の運営にも、おチビのこれからにも金掛かるからな~。稼げる時に稼いどいた方がええやろ。」
このところ、何かと言うと子どもを出汁にしたがる人だが、落語家というフリーランスの仕事に就いた人間が金を稼ぐのに、何の大義名分がいるかと思う。それでも、お互いに、仕事を受けることと芸を磨くことを両立していかなならんような年でもある。
そうですね、と言って、黙々と蜜柑を食べた。
来月と再来月に二本ほど夜席の仕事が入っていたというが、まあ金曜や土日だったはずだ、と。そう思ったのが顔に出たのか、蜜柑を食べる手を止めて草若兄さんが笑った。
「今年も落語ちょっとも上手にならん草若ちゃんになりそうやけど、まあ頑張るわ。」と言って兄弟子はぎこちない顔で笑った。手元の蜜柑はもう最後のひと房を口にしてしまった。
「……もう少し蜜柑ください。」
ええで、と言われて口を開けて、やってきた指を一緒に食むと、目の前の兄弟子は頬を染めた。
仕事で忙しくなる前にしたいです、と言うと、小草若の頃よりもずっと可愛くなった兄弟子は、オレもそない言おうかと思ってたんや、と言って小さくうなずいた。
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