月が出ていた。
廃墟の中を歩くには手頃の、明るい夜。
ハマーを玄関先に留めて、廃病院の中に入った。
ここを所有していた院長一族が何をしでかしてこんな風に夜逃げ同然に街を出て行くことになったのかは、当時の新聞の見出しを覚えている人間なら誰でも知っている。医療事故と、その後に続くワイドショーと週刊誌のお祭り騒ぎ、患者どころか、医者と看護婦もまともに通えなくなり経営が悪化、そして潰れてしまう病院。それは日本のどこにでも転がっている、ありふれた話だ。
若い頃のように、痛みを飼い慣らすことさえ出来ない。弱い男が最後のヤサにするには、似合うの場所だ。
出て行け、社会のゴミ、という落書きはその頃の名残だろう。窓硝子が割れ放題とあって、風雨にさらされた廊下は塵で覆われていた。歩くと足跡が付く。驚くことに、中には片付けられていないゴミがあちこちに残っていた。火を付けられたら一発で終わりだな、と思いながら、障害物となるそれらを避けて、使えそうな部屋があるかを探して行った。中心市街地からのアクセスが悪く、地上げに値しないような場所であることは明らかだが、そうだとしても、未成年の溜まり場になって汚れた酒瓶と煙草の吸殻、ガキの性衝動の残滓なんかが転がっていても良さそうなものだが。まあ、わざわざ割れたガラス片を掃除してまで使おうという物好きな馬鹿がいなかったということか。
コツコツとリノリウムの床にブーツの靴音が響く。
どの部屋も、鍵は掛かってなかった。一階は健康診断や外来の患者向けだ。コートのポケットから小さな懐中電灯を出し、二階より上はどうなってる、とゆっくりと階段を上がっていく。
廊下は、一階よりもずっと明るかった。一室、また一室と、持っている懐中電灯を部屋の奥に翳して中を伺っていく。
寝返りを打てるくらいのベッドが置いたままになっている部屋と、崩れかけてはいるが使えそうなオペ室。
廊下のゴミを片付け、オペ室は業者を入れて清掃した後で手術台と器具を運び入れればなんとかなる。これまでのヤサに入れておいたカルテは、まああのまま残しておいてもいいだろう。何かあったときの保険は、多い方がいい。そう目算しながら、長い廊下を歩いていった。
ここも、かつては医師や看護師が行き来する活気のある廊下だったはずだが、今は見る影もない。
人が手を入れずに十年も経てばこんなものか。
日本に戻って来てから、表沙汰には出来ない手術を幾つもこなして来た。
そうして作った金や人脈を手にして分かったのは、マスコミが喧伝する安っぽい正義とやらは所詮まやかしでしかないということだ。この病院が権力と癒着して有能な弁護士を雇ってうまく立ち回ってさえいれば、被害者家族の憤慨を札束か暴力で丸め込んで、禊は済んだとばかりに経営を続けていくことも出来たはずだ。
事件があった後、生きているおふくろと病院を見に行くこともなく、土地は人手に渡って更地になった。もし今もあったなら、きっとこんな風だったに違いない。

ポケットに入れて置いた煙草の箱を出して一本取り出し、安いライターで火を付ける。
ふ、と吹かすと煙が一筋立ち上る。
今、徹郎の身の裡から生まれる痛みは、若い頃に受けた暴力の果ての打撲や擦過傷とは、全く次元が違っていた。耐え切れなくなった時の痛み止めに打つモルヒネのせいか、時折、紫煙の向こうに、父親の骨を持ち帰って来て、自宅の仏壇の前で線香を付けたおふくろの背中が見える気がする。どんなにか苦しかっただろう、と言って泣いていた背中は、あまりに細い。
幻覚ならもっと見たいものを見せたらどうだ、と思ったが、あいつが夢に出て来るようになりゃ、オレももう仕舞ってことだろう。
せっかく手に入れると決めたのだから、ここで不審火を出すことはない、と吸殻を携帯灰皿に落とす。
自分の身体から立ち上る消毒薬の匂いを紛らわせるために始めた喫煙だったが、暇つぶしにはなる。割れた窓から、空に掛かる月が見えた。
安楽死のノートを託す相手は、もう決めていた。
黒須、一也。
会ってみるか、という呟きを聞くものは誰もいない。

窓から病院の庭を見下ろす。
欠けた月は、ハマーを明るく照らしている。
今日はもう帰れ、と言われているようで、行くか、と一言、徹郎は踵を返した。







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