昼酒


昼酒は美味しい。
大人になって良かったと思うのはこういう時だ。
師匠の薫陶は悪くはなかったはずなのに、どこをどうしたらこんな大人になってしまったのか。
そんなことを考えないでもないけれど、別の切り口から見ると、三十年上のTETSUが若い譲介に教えてくれる悪い遊びは、この辺りが限度だという話でもあった。
酔いの進む頭で辛口の白を空けながら、譲介は、TETSUが甘辛いたれを絡めた手羽先を割って口に入れるところをにこにこしながら眺めている。
「譲介、おめぇも飲んでばかりいねえでさっさと食え。」
「はい。」
――今日は、なんだってそんなに上機嫌なんだ?
TETSUの視線はそう問いかけて来るが、譲介は答えずにただ微笑みを返す。
食べているうちに自然と指も口元もべたべたになってしまうこの料理が、このところのTETSUのお気に入りだった。
互いの手元にあるおしぼりは、すっかりたれの茶色に色を変えてしまっている。
年上の人が地方公演に行った先の打ち上げの居酒屋で、絶品の手羽先を食べて以来、譲介はこんな風にして、TETSUとふたりで手羽先が美味しいと評判の居酒屋で待ち合わせて食事を摂ることが増えた。
TETSUから誘われることもあれば、譲介から誘うこともある。
彼がどれほど手羽先が気に入っているのかと言えば、外で待ち合わせて食事をしたい、という譲介からの誘いにはあからさまに面倒そうな顔をして、日程が合わない場合は即断即決でまた来月な、となる人が、一瞬悩んでから、時間を調整するから少し待ってろという返事が返って来る。
田端に御徒町、神田、小伝馬町。
大抵は平日の夕方。タクシーを拾う方が時間と手間が掛かるような駅周辺の店が多いので、最寄りの駅で落ち合い、スマートフォンを片手に歩いて移動する。そうして店に着けば、混みあう時間帯には相席になることもあった。今日はたまたま、こうして昼から開店している店でお客は少ないけれど、これまでお互いに選んだどの店もサラリーマン御用達で、手羽先だけが店の自慢料理というわけでもなかった。
夕方から開店する店内には、暖かく雑多な食べ物の匂いが充満していて、仕事を終えた譲介とTETSUで、もし手羽がないならないなりに、また次だな、ですね、と言い合って他のものを食べた。
手羽先というのは割とメジャーな料理だとは思うのだけれど、人前では格好を付けたいという流儀でもあるのか、何度か回数を重ねたこのふたり手羽先会の人数が増えることはなかった。
今日も彼は、大口を開け、手羽中と手羽元の身を綺麗に食べて骨をせせり、口元に付いたタレの跡を拭った指の腹を、舌で舐め取る。汚れた長い指先を濡れ布巾で清めるのはその後だ。
一連の動作が酷く様になっているように思うのは、彼が大人だからだろうか、それとも譲介が彼に恋をしてるからだろうか。

――あんな風に彼を食べてみたい。

譲介は手酌で白ワインを飲む。
物思いのまま酒量は増えて、フルボトルの半分くらいの小瓶はあっという間に空になってしまう。
次はどうしようかと考えていると、「それ、美味いか?」とTETSUが聞いて来たので譲介は苦笑した。「まあまあです。」と可も不可もない答えを伝える。
譲介の好みは辛口の白で、好きな銘柄が置いてある店はそう多くはない。
TETSUが好きな日本酒で一緒に酔えればいいなと思って無理に飲んでいた頃もあるにはあったが、最近は互いに好きな酒を飲んでいる。そうでなければオレンジジュースかウーロン茶だ。
「ここんとこ、オレにばっか付き合わせちまって悪いな。」
箸休めのトマトを齧りながら殊勝なことを言い出した師匠に、譲介は目を瞠った。本人も、口から出て来た言葉が自分でも意外だったようで、ちらりとこちらから視線を逸らす。
「TETSUさんと一緒にいろんな街を歩けるから、僕は嬉しいですけどね。」
譲介の言葉に、TETSUは小さくため息を吐き、手元のおちょこをぐいと飲み干した。
すい、と視線を外して、ひやのおかわりお願いします、とうろうろしている店員に声を掛けた。
グラスに水を注いだ店員が、ついでにおしぼりも替えて行ってくれた。
TETSUは新しいおしぼりで指先を拭ってから、ふと譲介の方を見た。
「そういえば、おめぇのそれ、いつまで続けるつもりだ?」
「それって?」
「この間のドラマ……なんだっけか、あの検察の話。『ワタシ』とか言ってただろ。」
TETSUが示唆しているのは、譲介が検察事務官を演じた春の単発ドラマだった。
放送は、この手羽先会が始まる直前、確か半年ほど前の話だったので、譲介は面食らった。
主人公に恋をして突然恋愛至上主義になってしまった男が引き起こすドタバタを描いたラブコメで、譲介はその一時間半のドラマの中で、石部金吉だった公務員の主人公を演じたのだ。
仕事の話が初めて来たタイミングで、何度か現地に足を運び、実地で仕事をしている方に一日の流れや仕事上の困難の話を聞かせて貰ったが、実のところ、どれだけ話を聞いてもピンと来ないというのが本音だった。そもそも、検事や判事と言った華々しい職種であればともかく、バックヤードで働く人の話となれば、一般に流通しているような自伝もなく、似たような設定の小説のあとがきから、参考になりそうな本をいくつか図書館で借りて読んではみたものの、戯曲や演劇論に手を付けるのとは文章の硬さもあって全く勝手が違い、どうにも頭に入ってこなかった。
脚本が仕上がるのを待って台詞を読み込むしかない、と思ったけれど、その脚本が、失礼だが、本当に退屈だったのだ。
「あれ、TETSUさん、見てたんですか。」
「逆になんで見てねえと思ったんだよ。」と追及されて、譲介は両手で顔を覆った。
「……だって、放映後に何にも言ってくれないから。」
これまで、TETSUは譲介の演技が良かろうが悪かろうが、例えば腐すためだけだとしても、見ていれば必ず話には出す人だった。
「それに、あれ、脚本というか、まずあらすじからしてTETSUさんの苦手だと思ったし。僕の演技も、」と言いかけた譲介は、口を噤んで顔を上げた。
仕事におざなりになり、年上の彼女に下手なアプローチを試みたが失敗、結果的にストーカーになる男で、恋に狂って仕事がおろそかになるという精神構造がそもそも分からず、社会に出て一般的な仕事ひとつしたことのない譲介がサラリーマンを演じるのは難しかった。
一度、社会人経験のある一人さんには相談してみたけれど、親身にはなって貰えた一方で、この難問をパッと解決できる糸口は掴めなかった。
周囲を観察して「僕の演技も、それ以外も、色々と論外だったでしょう?」と声を潜めて言った。
どこで話に耳をそばだてている誰かがいないとも限らない。周りを見ていると、TETSUが苦笑する気配が伝わって来た。
「おめぇが出てるのに見ねえわけがあるかよ。これまでだって、どんなポンコツドラマだろうが見て来ただろうが。違うか?」
「それは、僕が、……。」とそこまで言って譲介が言葉を濁すと、その言葉尻を捕らえたTETSUが、「大人じゃなかったからってか。」と言って、ガラスの徳利を傾けた。
中にほとんど入ってないのは見えているだろうに、TETSUさんはいつも、こんな風に最後の一滴をお猪口に注ごうとする。
ふ、と肩の力を抜いて、「そうです。」と譲介は頷いた。
譲介本人は、高校の演劇部からキャリアを始めた人間や、大卒で役者になった人間と比べてキャリアが浅いというわけではない。それでも、彼がずっと二十歳を過ぎてから、共演しているかどうかに関わらず、助言を続けてくれていたのは、譲介がまだ若く、俳優として伸びしろがあるだろうと思ってのことだろうと思っていた。
譲介自身、後から見てもあまり出来がいいとは言えなかったドラマは、まず一也から批判される。一也は、世代が近いだけあって辛辣で、気合を入れずに演じたドラマでは、役にハマり込めていない、と叱り飛ばされることも多かった。
どんなドラマもK2のように脚本家の層の厚みがあるドラマになるわけじゃない。TETSUさんのように、出られる作品が選べるわけではないのだから、というのは確かに言い訳でしかない。譲介はいつも、一也からの苦言には甘んじて耐えることにしていた。
次に与えられるTETSUからの指摘は、もっと技能的なものだ。
歩幅、視線、台詞の間に声の大きさ。
あのカットでどうしてこういう演技にしなかったのか。ただ声を荒げるより、怒りや悲しみの表現にはもっとレパートリーがあるだろう。
考えろ、と言われる。
そのために色々な作品をお前に見せて来たのだと。
自分なりの役の解釈を決めろ、台詞を変えたところで怒るような脚本家なら、自分が役を下りるくらいの気持ちで向かっていけ。何度となく聞いたそれらの指摘は、譲介が大人になるにつれて、少なくなっていった。
譲介は、もう二十代半ばになった。十代の頃と同じように、演技に対して指導的な助言が欲しいと思うのは甘えなのだろうと思っていた。
そのことを正直に話すと、TETSUは笑った。
「ここんとこバタバタしてたし、おめぇが雑誌で妙な風に口を滑らせたりしたからだろうが。」TETSUは、ほれ、口の端を拭いとけ、譲介にペーパーナプキンを渡した。
ナプキンで右と左を同じように拭いながら「雑誌で……何か言いましたっけ。」と酒で回らない頭で言うと、忘れてんのか、とこちらを見てまた笑う。
「いいか、譲介。おめぇはオレにとって、端から俳優を名乗れるほどの力量のガキだった。今も、そうだ。オレが一番に注目してる俳優だ。」
目を離すはずがあるかよ、と言われて譲介は目を瞬いた。
「ほんとに……?」
「おめぇは師匠の言うことを疑うのか?」
「そうじゃないです。僕は、」と言いかけると、またクックと下を向いてTETSUは笑った。
酒の力だろうか。それとも、美味しい手羽先のせいだろうか。
目の前に、陽気に笑うTETSUの顔があった。
キスできるほどに近い距離だ。
「……いい年になっちまったのに、変わんねえなあ。」
そう言って、TETSUは譲介の頭に手を伸ばす。
ぐしゃぐしゃと、まるで彼の家にいる日のように遠慮なく髪をかき回されて、譲介は悲鳴をあげそうになる。
暫くは厳しい師匠でいてやるよ、と言われて、譲介は、あ、と声を出した。
春先に、小さなドーナツショップで撮影した、和久井譲介最新インタビュー。
「……まさか、気にしてたんですか?」
「そろそろ手を離してやろうかと思ってたのに。残念だったな。」
年上の人は、いつものようにシニカルな顔になって、それから、また笑う。
譲介は、ええ、ほんとに、と言いながら、TETSUと一緒に笑った。



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