一人暮らし



俳優という一種ヤクザめいた稼業には、たまの休日、というものは存在しない。
そこに「売れない」と定冠詞が付けば、本業の仕事がないなりにアルバイトに励むだけという話になり、そうでない場合も、一度仕事が入ったが最後、働きづめだ。
その日の稽古を終え、吊革のそのまた上に通ったパイプに捕まり立ちをしながらうとうとと終電間際の電車で帰宅していたところだった。携帯電話に、明日は夕方の五時半からという連絡が入った。
次の舞台は、週明けの水曜から始まる予定になっているが、まだ脚本が出来上がっておらず時間が掛かるということだった。
寝ぼけた頭に、ぽっかり時間が空いてしまったのだという事実が浸透するまでにしばらく掛かった。今はバイトのシフトが入ってない時期とはいえ、全く予定がない訳でもない。
譲介が本を返しに来ると言っていたので、稽古のために家を出る一時間前までに来いと言ってある。鍵を開けておくから寝てる間に適当に本とDVDを持っていけと連絡してはあるが、その時間を動かす必要があるかどうか。
寝ている間に泥棒が入りでもしたらどうするんですか、と譲介は言っていたし、確かに不用心ではある。まあ、時間を繰り下げても構わねぇだろう。
『時間が出来た。十時に来い。』
両手でメッセージを打って送信。
電車は、TETSUの住処のある最寄り駅のふたつ手前の駅だ。
時間調整で停まっている間に、譲介からの新しいメッセージが届く。
『鍵掛けて寝てくださいね。』
(……起きてんのかよ。)
三十も年下のガキが小姑のような言い様をする。
つい笑ってしまった。
『おめぇも寝ろ。』とまた返信して、尻ポケットにスマホを仕舞う。充電は残り少ないが家に戻るまでは持つはずだ。
帰り道にある弁当屋は、二十四時間営業で今日も皓々と明かりがついている。
腹が減ったと思いながら横を通るのはまあまあ拷問だが、食ってすぐ寝ると牛になるというのは親の数少ない教えでもある。
街灯が明々と付いた夜道をいつものように歩くと、今の寝床があるボロアパートが見えて来た。
狭い螺旋階段を上り、玄関にたどり着くと、ただいまを言いながら鍵を開け、外の明かりで内鍵を閉める。
数年前に付き合っていた女が置いて行った猫が二年前の秋に行方をくらませてからというもの、必要もないただいまをずっと言い続けている。
ひとりで飯を食い、ひとりでテレビを見、ひとりで寝る。
そのことを今更侘しいとも思わないが、暗い家に帰ることには、未だに慣れない。
靴脱ぎにスニーカーを脱ぎ捨て、七年前に買ったソファに倒れ込むと、猫の毛が付いてないのをいいことに、かれこれ半年は洗っていない毛布の匂いが鼻先に漂った。
尻ポケットに入れた電話を引き抜いてローテーブルの上に置き、毛布を肩まで引き上げると、夜のとばりが身体を包み込んだ。


仮寝のつもりでソファで横になったはずが、目が覚めたら朝だった。
いやに近い場所から聞こえてくるドアの開閉と車が走り去っていく音を聴きながら時計を確認し、あと一時間は寝れるか、と思った時、誰かが階段を昇って来るカンカンという音が聞こえて来た。TETSUの暮らすアパートは妙な造りになっていて、非常時の脱出経路のような螺旋階段で通じているのは、かつては家主が住んでいたこの2DKの部屋だけだ。
連絡しやがれ、と思ったが、床に落ちたスマートフォンはひどく静かで、充電が切れているように見える。クソ。
頭を掻くと、盛大な寝癖がついている。夏からまた収録があるドラマのために伸ばした髪は、首のところを括りつけられるほどの長さになっていたが、起きる度に邪魔っけでバッサリ切りたくなる。こいつをまずどうにかしねえとな、と思いながらベッドから起き上がると、流しでうがいをしている間にチャイムが鳴った。
ドアを開けると、思った通りそこには譲介が立っていた。
出会い頭に「ドア開ける前にちゃんと確認しました?」と言うので、先におはようございますだろうが、と窘めた相手は「TETSUさんその寝癖凄いですよ。」と吹き出した。
「……おめぇが来るのが早いんだよ。シャワーも浴びてねえんだ、汗臭くても文句は言うなよ。」
寝ぼけ眼で繰り言を言うと「親に起こされちゃって。」と譲介は笑顔のままだ。
仕事なら三十分は誤差の範囲内だが、十時と言えば十時半が待ち合わせの場所への移動を始める時刻になるような連中とばかり付き合っていたこちらにしてみれば、晴天の霹靂のような襲来だ。かといって、わざと早めに来ることを織り込んで十時半と言うのも性に合わない。
とにかくさっさと中に入れ、と言う前に、譲介は「TETSUさん、これ。」と駅のパン屋のロゴが付いた袋と野菜の入ったビニール袋を差し出した。パン屋の袋の中身はともかく、野菜袋の中身はこちらからも見える。
人参と玉葱とジャガイモ。
親の気遣いかとも思ったが、それなら野菜をバラで持たせることはないだろう。
家からパクッて来たか、その辺で買って来たか。
借りて来た本を返すだけという話だったはずが、譲介のこれは『昼過ぎまでいてもいいですよね? いますからね?』と言う宣言だ。
賢しらな子どもは、じっとTETSUの返事を待っている。
「ったく、おめぇはよぉ。借りたもんを返す方が先だろうが。」
両方の袋を手に取って、入っていいぞ、と言うと、パッと明るい顔になった。
狭い玄関の叩きで幅を取っている家主を押しのけて部屋に入り込んだ譲介は、TETSUさんのカレー楽しみだな、と浮かれ調子だ。
その小悪魔の頭に「おめぇも手伝うんだよ。」と言ってぐりぐりと拳骨を押し付ける。
「口の中に火炎瓶入れたみたいなカレーが食いたくなきゃ、協力しろ。」と言うと、譲介は、ええ、と女子高生染みた悲鳴を上げた。
「ジャガイモも人参も、僕が剥くよりTETSUさんの方が上手いのに?」
ったく、毎度口が減らないガキだ。
「おめぇもこの年寄りの有難みが分かって来たようじゃねえか。」と言うと、譲介はこちらを見上げて押し黙り、妙な顔つきになった。
「……何だよ。」
「その台詞、僕が三十になるまで取っておいてくれませんか?」
「はぁ?」
「今日の僕では、巧い返しが思いつかないので。」
そう言って、譲介はさっと本棚の隙間と隙間の間を縫って出窓の傍まで行き、こちらがいいとも言わないうちに、カーテンを開けた。
薄暗かった部屋の中に、朝の光が入ってくる。
換気のために窓のサッシを半分開けた譲介は、妙に眩しくて輪郭がぼやけている。
「大喜利じゃねえぞ。第一、おめぇが三十になる頃にはオレは五十、……八か九か。」
振り返ってこちらを見た譲介は「その頃には、僕もカレーを作れるようになってると思うので、TETSUさんにご馳走します。」と言って笑った。
いい顔で笑うようになったじゃねえか、とは思うものの、グラビアの撮影なんかで見るような作り笑顔とは違う顔を見せられて戸惑うのも事実で「……どんだけ気長に待ちゃいいんだよ。」と頭を掻いていると、譲介は、先に朝ごはんにしましょうか、といつもの調子で台所のスペースに移動し、冷蔵庫から牛乳を取り出している。
「そういえば、TETSUさん、僕が見ないうちにまた日焼けしてません?」
「気のせいだろ。」
日に焼けるのは、主に土方のバイトをしている時だ。
『ドクターTETSU』でいる時はアームカバーをしてコートを着ていることが多いから土方焼けが隠せるが、譲介と共演を始めた頃は二の腕を出すタイミングが多かったのもあって、満遍なく焼けるために日焼けサロンのようなところに行く羽目になった。
こちらがソファ周りと床に落ちた本を片付けている間に、譲介は、牛乳の二人分をコップに注ぎ、新しく買い足したばかりの樺桜のカッティングボードとナイフ、それから白い皿――ちまちまとパンに付いてくるシールを集めていたら、KEIにいい年してせこい真似をするんじゃないと押し付けられたヤツだ――を二枚。ナイフとまな板は何のために置いたのかと思っていたら、さっさと手を洗った譲介はパンの袋をひとつひとつ取り出して、ナイフで二人分に切り分けていた。
パストラミとチーズを挟んだ小さなフランスパンと、ベーコンとレタス、トマトをバンズで挟んだもの。何かのペーストを挟んだ丸パンのサンドイッチに、でかい三角のカツサンド。少し大きい方をTETSUの皿に寄せて、自分の皿には小さい方を。
こういう時、一人前のサンドイッチを二人分、同じものを買ってきて軽く済ませようとしそうな子どもに見えたから、意外だった。
共演したばかりの時、ドラマのコーディネーターから怪我をしないナイフの扱いを習っていたからだろうか、包丁で野菜を切っている時とは違い、あぶなげない手つきだ。
譲介の手元を見ているうちに妙に腹が減って来た。
シャワーは後にするかと決めて、子どもに倣って石鹸で手を洗う。
席に着くと、白い皿に載り切れない分のパンは、カッティングボードの上に置いてあった。兄弟がいたTETSUは、皿に載ってない分は先に手を付けた方が先に食べるというジャングルの掟で育ってきたが、一人っ子で育ったガキにその常識が通じるかどうかは怪しいところだ。
分けた方から手を付けるか、とパンが並んだ白い皿の上からBLTサンドを選んで頬張る。
冷めてはいるけれど、まあそれなりに旨い。
「おめぇも、成人すりゃあ、そのうち一人暮らしか。」と言うと、譲介は「しませんよ、そんな面倒なこと。」とこちらの感慨を鼻息で吹き飛ばし、パストラミとチーズのパンにがぶりと齧りついている。
頬袋を膨らませてがっついているところを見ると、どうやら譲介も腹が減っていたらしい。
次に手を伸ばした丸パンには、レバーペーストが挟んである。
味はともあれ栄養価は高い。牛乳を飲みながら咀嚼する。
「面倒でも、一度は家を出といた方がいいぞ。」
「そんなの、他の人から耳にタコが出来るくらい聞きました。でも、僕には一人暮らしなんて、向いてません。一人でご飯食べて、一人で寝るんでしょ?」
「やってみねえことには始まらねえぞ。」とカツサンドを食べると、中身はカレー味だった。
「だからこうやって、ここに来てTETSUさんの様子を観察してるんじゃないですか。」と意趣返しのようなことを言う。
そうかよ、と言うと、譲介は、怒りましたか、とこちらを探るような目つきになった。
「そもそもマメに掃除して、洗濯して、食事も準備するなんて、このままのペースで仕事してたら絶対に無理です。……TETSUさんと住むなら楽しそうだけど。」
まあ、一人暮らしは不用心で、うちから出したゴミを漁るような人がいないとも限らないから実家を出るのは当分先だと言っていたKEIのことを考えると、今時のガキが一人暮らしを決意するのは確かに難しい時代かもしれなかった。
「うちに住みてえなら、ベッドを貸してやるよ。ソファで寝るよかいいだろ。」と言うと、譲介は、食べていたパンを喉に詰まらせたのか、ゴホゴホと噎せて俯いた。
鼻から牛乳が出てるのか、口から下を手で抑えている。
「おい、きったねえな。」と言いながらティッシュを取って渡すと、涙目になっていた譲介が引き抜いたティッシュで口元を軽く押さえてから顔を上げた。
「あの、TETSUさん。」
「何だよ。」
「あんまりそういうことは軽々しく言わない方が。」
あぁ?
この年でさしたる預金もねえ四十男の心配してる暇があるなら、料理も覚束ないてめえの心配をしろ。
「今のは話の流れだろうが。親元から離れるにしたって、こんな辺鄙なとこから局に通ってたら、おめぇ、タクシー代でそのうち破産するぞ。」と言うと、譲介が、うわあ、という顔になった。
譲介の年頃のガキに、このオッサンは、という顔をされるのは良くあることだが、こいつがこういう顔を見せることは珍しい。
腹立たしいが、面白く、今の顔を写真に収めておけば良かったとさえ思う。
牛乳を飲み干して「皮むき器を使わずにジャガイモが巧く剥けるようになったら考えてやる。適当に転がり込んで来い。」と言うと、譲介はやけに殊勝な顔で「よろしくお願いします。」と頭を下げた。
日曜の朝だ、もっと気楽にすりゃいい。
そう思ったが口には出さず、TETSUは大きなあくびをした。

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