あなたへの花

 指先には人肌の熱がある。傷の残る肌を指の腹でなぞって、そのかたちと実在を確かめる。そうして繰り返し安堵を得る。
 今夜もミツルの胸の中にいる。背中に腕を回されて、抱きしめられている。重なった肌と肌が同じ熱を共有している。穏やかな鼓動が伝わってきて、その生を再確認する。
 これが日常に成り果ててしまって、もうずいぶん長い。
 始めの頃は、いつか醒める夢であると思い込もうとしていた。なるべくしてそうなる日が来るのだと固く信じていた。決して許されないことだと理解していた。明日には終わる幸いであると。手放される日が、手放す日がすぐに来るのだと、そう思わなければ甘受することも叶わなかった。甘受することさえも自らの罪を深める結果に繋がるのだとも知っていた。
 しかしその足掻きも長くはもたなかった。
 一年は、真城にとってひどく長かった。
 泣き言をこぼし、悲嘆に暮れるようなふりをしていたところで、時間の流れには抗えない。ミツルの差し出す何もかもを拒むこともできずに、真城は穏やかな日々に耽溺した。望んでしまえば叶えられ、求めてしまえば過剰なまでに与えられ、ミツルが喜ぶのをいいことに欲を満たし続けた。満たされてしまっていた。望むままに。望まれるままに。
 それが一年。
 真城朔の日常は夜高ミツルに塗り潰され、重ね合わされ、充足を得てしまっていた。自分たちの存在は、最早取り返しのつかないところにまで癒着が進んでいる。こうして触れ合った肌を離すことすら今は苦痛でならない。背に回ったミツルの腕をどけることすらしたくない。ずっとこのままでいたい。終わりを迎えるその瞬間まで、ミツルの腕の中で眠っていたい。
 だなんてことは、流石に叶えてはならないと理性で分かっているけれど。
 ぼんやりと腕を上げて、ミツルの頬に指を添える。汗だとか、頬を触れ合わせた時に付着した真城の涙だとか、そういったものでややべたついている。途中で一度シャワーを浴びたはいいものの結局また始めてしまって、そのまま眠ってしまった。明日の朝にはまた身を清めなければならないだろう。

 そうして身支度を終えたら、ホテルを出る。
 次の目的地は決まっている。
 八崎市だ。
 D7の追跡を逃れるように飛び出した、ミツルと真城の故郷。真城が生んだ惨禍により、特別に多くの被害を受けた街。真城を恨み、真城を裁き、真城を殺す権利を持つ者は日本中のどこにでもいるけれど、この街には特に多い。
 その罪を雪ぐ日が来ないままに、自分たちはこの街に帰る。
 気が重くないと言えば嘘になる。
 かの地に残した思い出は真城には少し多すぎた。そして、良い思い出も悪い思い出も、すべて最後には真城の犯した罪に続く。あの街で過ごし、積み重ねた日々が真城を凶行に走らせた。あの街で過ごし、積み重ねた日々は真城の蛮行の日々であり、罪の証明だった。
 今は平和に暮らすありとあらゆる人々に、真城を弾劾する権利がある。真城はそれを知っている。ミツルも同じ。
 その上で、二人。今も口を閉ざして安穏の日々に浸っている。
 そんな二人がのうのうと街に戻ることが許されるのだろうかとも思う。許されるはずがないのだとも思う。だからといって、いつまでも逃げ回るわけにはいかない、ということも、理解している。
 向き合わなければならないのだ。残してきたものに。いつかは。
 すべてに向き合うことが叶わなくとも、そうすべく努める義務がある。八崎市に戻ることは、そのための一歩となるだろう。
 自己満足だ。しかし最早、真城はそのように生きることしかできない。それをミツルに肯定されている。
 その事実がさらに真城の罪を上塗りすることも理解している。
 結局は自分の大切な人に受け入れられればいい。好きな人に愛されていれば、それだけで幸せでいられる。自分がそういう身勝手な存在であることを浮き彫りにされている。
 ミツルの胸に頬を寄せる。顔を上げればミツルの寝顔が見られる。穏やかな寝顔。真城を囲うように伸ばされた腕がある。その中に包まれていることに安心して、満足して、満たされる。
 揺り籠のなかにいればこそ、自分のような大罪人がほんとうの充足を得る罪の上塗りを再確認させられる。

 そうした罪人だからこそ、八崎市への訪問よりも、その先のことをこうして考えてしまっている。
 八崎市を訪れてその先に来るもののことを考えている。
 ミツルの誕生日のことを、考えている。
 恥も外聞もない話だ。この上なく罪深く浅ましい在り方を理解している。それでも真城にとっては、ミツルの誕生日の方が、八崎市のことよりも重要な問題になってしまっていた。
 去年のことを思い返す。何も大したことをしてあげられなかった、去年のミツルの誕生日のことを。
 自分がミツルにあげられるもの、ミツルがもらって喜ぶものなど、あの頃の真城には想像もつかなかった。どうして自分のような存在を好んでいるのか、どうして自分のためにそこまでしてくれるのかも分からないのだから当然だ。
 だからといって何もしないわけにはいかず、結局当日になって本人に欲しいものを訊くというサプライズも楽しみもない結果に終わってしまったが、ミツルはそれも許してくれた。許すどころか責める素振りも見せず、覚えてくれていたのが嬉しいと真城に謝意を示す始末で、結局真城からしてあげられるものなどろくになかったのに。
 真城からのキスと、二人で買って分けた二種類のケーキ。
 それだけが辛うじて特別と言えた、一年前のささやかな祝祭。
 ミツルは喜んでくれたものの、またあの体たらくを繰り返したくはないと思う。ミツルの誕生日を祝うのにミツルにお膳立てさせるのは本末転倒という他ない。一年を共に過ごし、ミツルのことも前より理解できるようになった。去年よりはうまくミツルを喜ばせることができるようになっているはずだ。
 と、いうのは、机上の空論といったところで。
 実際のところ、何も思い当たらないのは変わらない。
 何をしてもミツルは喜んでくれるだろう、とは思う。そこはそもそも何を喜んでもらえるのかも分からなかった去年とは違うところだ。
 しかし、だからこそ何をしてあげたらいいのか分からない、という同じ結論に帰着する。
 一応今の真城には真城なりの手持ちがあるため、何かを買ってあげることはできる。だがミツルとは一日中ずっと一緒にいるから、隠れて何かを用意するのは難しい。真城一人で店に行くことはできないし、ネット通販に頼ろうにも旅暮らしの身、届けてもらう先がない。そもそも旅の身の常として限りなく荷物を減らす生活をしているのだから、物品を贈られても困るだろう。正確に言えば真城からのプレゼントにミツルが困ってみせることは有り得ないし、大切にしてくれるとは思うが、好意のプレゼントで面倒に繋がりうる事態はやはり避けたい。
 難しい。
 答えを見つけられないままぐるぐると悩むうち、思考を睡魔が冒してくる。思えばこういう風に眠くなるようになったのも、あの血戒を手放してしまってからだ。失われた人間性を完全に取り戻すことはできないまでも、少しずつ人間らしい生命活動を催すことができるようになった。今ではかなり食事を摂れるようにもなっている。
 一年をかけてミツルはそれを見守ってくれたし、喜んできてくれた。
 真城が背に積み上げた屍の数の果てしなさを知りながら、それでも。
「…………あ」
 そうしてふと思い当たる。
 きっと、ひどく冒涜的なことだろうと思う。ミツル以外の誰かが聞けば、どの面を下げてと思われるかもしれない。それでもミツルだけは真城を笑わないし責めもしないと思えて、何より、一つの象徴になるから。
 花を贈ろう。
 植木の花は無理だろう。しかし、どこかの街で少しだけ長めにホテルを取って、色んなところを回りながらなら、それが枯れるまで花を飾り続けることも、もしかしたらできるかもしれない。花屋の花か、許された場所の野草か、細かいことはまだ分からなくとも。
 本当は許されないとも思う。良くないこと、繰り返し再確認する罪の上塗り、誰に許されるはずもなく、真城の罪は雪がれないまま。
 花を見るたびに思い出す。
 それをミツルが悲しく思うことを知っているから心の奥に押し込めて、その美しさを喜ぶけれど。楽しめるものは多ければ多いほどよくて、旅をしているとどうしても避けられないから、決して忘れることはできないままだけれど。
 でも、だからこそ、花を贈るのがきっといい。それを真城が贈れるようになったことの意味を、敢えて示したいそのかたちを、きっとミツルは理解してくれると思うから。
 いつか訪れる街の秋に、花屋の場所を探しておこう。ミツルには詳細は告げぬまま、ただ気まぐれに手を引いて、もう大丈夫ってふりで笑ったら、二人で花を見よう。
 それがいい。そうするのが、きっといい。
 あなたへの花を見つけるその時を心待ちに、真城は意識を睡魔に預けた。

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