愛しの子ライオン
照英が濡れた髪をタオルでやさしく拭っていると、突如洗面所の扉が遠慮なく開かれた。妹たちの宿題を見ていた父でないことは明らかで、まさかと振り返ると、妙に張り切った表情をした母が立っていた。
「……なに、母ちゃん」
「ちょっとパジャマ早く着ちゃいなさい、風邪ひいたらサッカー出来ないよ」
母は子どもに聞かせるような言い方で洗濯機の上に綺麗に畳んでいた寝間着を差し出した。照英の帰省に合わせてわざわざ買ってきたらしいふわふわもこもこの寝間着は風呂上りには少し暑く、歯磨きを終えてから着ようとしていたのに、と照英はしぶしぶ受け取って着た。肌触りの良い生地はさすが母の見立てだが、やはり暑く、風呂上りだというのに汗をかきそうだった。
「そこに座って」
壁に立てかけられていた折りたたみの椅子を指差す母がわからず、照英はとうとう顔を顰めた。
「照ちゃん、そんな顔してもだめ。いいから座りなさい」
にこにこと、機嫌の良い顔で母に急かされて、照英は大人しく椅子を広げて腰掛けた。タオルで拭っていたとはいえ、まだ濡れている髪が気になってしまう。母が何をしたいのかわからないし、さっさと出ていってほしかった。こんな突発的な人ではなかったのに、自分が家を出てから変わってしまったのだろうか。照英は鏡越しに母を眺める。うれしそうな顔をした母は照英の背後に立ち、洗面台から目の粗い櫛を手に取ると、濡れた毛先にやさしく通していった。引っかかることがない髪を褒めると、次にヘアオイルを毛先の内側から、まんべんなく広げていく。
ほどよく香るのはベルガモット、母といえばこの香りだった。幼い頃風邪をひいて寝込んだ時、夜中に咳が止まらなくなって、様子を見に来た母からこの香りがして、すぐに眠れたことをよく覚えている。懐かしさに勝手に鼻がすんと鳴ってしまい、照英は気まずげに俯いたが、対照的に鼻歌が聞こえそうなほど、母の機嫌は良くなっていった。照英の髪を梳いていた手は、髪ではなく幼い子にするように頭を撫でている。どうにも照れくさくて、照英は唇をむいと突き出した。それを「お父さんそっくり」と母が笑う。
「あの子たちの髪は照ちゃんが面倒見てくれたでしょ。おかげではやいうちから自分でするようになったから、お母さん全然出番がなかったの。だから照ちゃんにしてあげようと思って」
母の言う通り、妹たちの髪を乾かすのも、整えるのも照英が担当だった。おかげで単純な三つ編み以外にも、編み込みやお団子までお手の物だ。
「別にいらねえけど」
「ねえ三つ編みしてもいい? 」
「絶対いやだ」
母は笑って照英の頭を撫でると、鏡越しにじっと見つめてきた。
「照ちゃんは全部お父さんに似たと思ったけど、髪は私ね。ふわふわの照ちゃんもかわいいと思うけど、こっちのほうがいいでしょう。赤いラインもかっこよかったし。もう染めないの?」
新英雄大戦の年俸一億記念レッドメッシュは意外にも母に好評だったらしい。照英が剃り込みを入れた時は、何故かと問いただしていたのに。あんな色の髪を好意的に受け取るとは思いもしなかった。
「……しばらくはやんねえ」
「そっかあ」
残念と続けながら、ちっとも気にしてなさそうな顔で、母は棚からドライヤーを出した。母の誕生日に贈ったドライヤーは照英も愛用していて、パワフルな温風で乾きは早く、それでいて乾燥後に髪が散らばらないのが気に入っていた。軽いボディも母の小さな手には扱いやすいらしい。慣れたように揺らしながら、ドライヤーを当てている。時折髪を梳く手が心地よい。勝手に降りてくるまぶたに逆らう気が起きず、照英はそのまま身を委ねた。
ドライヤーの風に舞う艷やかな黒髪はどう見ても母譲りで、幼い頃に教えた通り、照英がきちんと手入れしていたのがわかる。
何かと勘違いされるが、照英はちょっと神経質で頑固なだけだ。それ以上に素直でやさしい部分があるのに、ぎゅっと眉を顰めるうえに言葉足らずなところが誤解を生んでいる。本当はこの鏡に映る姿のように、力を抜けば涼やかな秀眉だというのに。というのが母の見解だった。
幼い頃に子どもらしい時間過ごせてやれなかったことを、母はずっと後悔していた。昔から妙に達観していた子どもだったが、年の離れた妹二人へ不在の父の代わりを文句も言わずにするだけでなく、育児に追われる母の家事を自ら買って出た姿は頼もしかったが、感謝以上に申し訳なさを感じていた。
成人した息子にしてやることではないと自覚しているし、今さらそんなことをしても本人は困るとわかっていても、どうしてもしてやりたかった。甘えるのが下手くそな照英を心配するのは、母親としてなにもおかしくはないから。
けれどそれは杞憂だった。明日、照英は将来を約束した相手を連れてくる。何度も会っているし、多忙なのに遠い秋田までわざわざ挨拶に来なくても大丈夫だと伝えたのに、彼は必ず行きますと強い意志で答えた。
ああこの子かと、甘え下手の息子が甘えられる相手なのだとひと目でわかったことを母は覚えている。ほとんどは父に似たが、大切な相手を見つける目は自分に似たのだと、母は微睡んでいる息子を見つめた。
終わったよ、と声をかければ、重そうなまぶたを持ち上げた照英が、ありがとうと小さく呟き、綺麗にまとまった髪に触れる。その指には輝くプラチナの指輪があった。
「そうそう、明日世一くん迎えに行く時、一緒にあの子たちも拾ってきてよ」
ドライヤーのコードを丁寧にまとめていた母がわざとらしく、今思い出した素振りで口にした。
「……んな遅くまで練習してんのかよ」
二人の妹は高校生になってからダンススクールに所属している。家で練習する姿を見かけたことがあった。ダンスの巧拙は知らないが、二人の体幹の良さに感心したことを照英は思い出した。コンテストだか発表会だかを見に来て欲しいと何度か誘いが来ていたが、運悪く試合や遠征に被って一度も行けていない。
「うん。二人ともメンバーに選ばれたから、張り切ってるの」
「ふうん。でも母ちゃんの車じゃ後ろせまいだろ」
母の古いフィアットを借りるなら、妹たちは後部座席に座ることになる。照英がシートを後ろまで下げるせいで窮屈な思いをする妹たちが文句を言うのが目に見えていた。父が仕事帰りに拾ってくる方がいいに決まっている。
「平気よ。かっこいいお兄ちゃんたちを見せつけたいだけなんだから」
よろしくね、と母は照英を立たせる。このまま歯を磨くつもりだったのに。母は冷蔵庫にプリンがあるからと急かす。わかったと言いながら照英は身に染みた習慣通りいつもの位置へ手を伸ばすと、照英より早く母は先にクイックルワイパーを手にしていて、「三人で食べてね」と微笑んでいた。
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