北極星を望む - デプ/ウル
自分の立てた衣擦れの音が耳に触れて、深い深い底から意識が浮かび上がる。瞼が今出来上がったみたいに重たく渇いていて、うまく開かない。それでもカーテンの向こうから射す陽の明るさに今が朝だとわかって、安堵の息が漏れた。運良く「朝」と呼べる時間に目が覚めても、覚醒からたちまち減圧症のような苦しみを覚える日もあれば、まるで自分の四肢がどこにあるのかもわからないほど気怠い日もある。今日はそのどちらでもなく、眠たい思考で振り返るここ数日の中ではそれなりにすっきりとした目覚めだった。薬の使用頻度が気になる? 一週間前にちょっと誘惑に駆られたきりだ。驚きだろ、俺自身も驚いてる。
視界がはっきりしてくると、鼻も現実の感覚を取り戻し始める。薄手のブランケットから清潔なかおりして、そういえば昨日洗ったんだったと思いだした。乾いて柔らかさに欠ける肌触りは、気づいてみると少し落ち着かない。チャーリー・ブラウンも洗い立てのブランケットには他人行儀だったりしたのか? いつも思うけどあのしゃぶってる親指、ふやふやになって皮がズル剥けちゃったりしないのか、心配だ。
思考が饒舌になってくると、そろそろ起きようと思う。何しろ四六時中これだ。気をつけろ、ヤク中の手から薬が遠のいたって正気だとは限らない。狂気がそいつの正気を保つ唯一の道だったりもする。
丸めていた背中を伸ばして、凝り固まった筋肉をほどく。腕を伸ばすと、顔の上の方で何かに手がぶつかった。ぼやぼやの視界に、たくましい腕が伸びている。
「ワァオ、素敵な枕。いつ買ったっけ」
そっと寝返りを打つと案の定、朝から目にするにはホットすぎる男が眠っていた。近ぇな。
眉間に皺はなく、重力相応に──年相応にの方が適切かな──たるんだ顔がシーツに潰れている。穏やかで気の抜けた貌に、凶暴な獣の気配はない。髭に囲まれた唇は数ミリだけ開いていて、時々穏やかに寝息が吐き出された。グレーのTシャツの上からでもわかる胸筋がなだらかな谷間を描いて、えー、腕を覆う繁みがかなりセクシー……ダメだ、俺にハーレクイン小説家は向いてないのかも。出版社に連載の取り下げを連絡しないと。
「……ファンが見たら泣くぜ、ヒーロー」
そんなくたびれた風体、夢見がちなヒーローファンにはあんまりにも現実的過ぎだ。まあ俺ちゃんみたいに、推しちゃんのあらゆる姿を見たいってファンには感涙モノかもしれないけど。俺は泣かない。もちろん、泣くはずがない。最初は拾い猫が懐いたみたいな感動にちょっと涙腺にくるものがあったけど、もう何度も見た顔だから。バリエーションだって豊富なもので、酔って寝落ちた顔、悪酔いして呻きながら寝る顔、メリーにキスされてべちゃべちゃになった寝顔、悪夢にうなされる寝顔まで知ってる。おっと、配慮が足りなくてごめん。もちろんマウントだ。俺は今やウルヴァリンの同居人になったんだ。
言いようのない感情が、胸に満ちて全身に広がる。5月の風が川になって血管に流れていくみたいな。何度も迎えてきたはずの朝日が一層やわらかく感じるし、夜だって怖くない。夜が怖いなんて、そんなことあるわけがない。そう思えるくらいに、俺の世界は色を変えた。元々生きてきたはずの毎日に、色がついた。
そんな世界を、俺は前から知っていた。知っていたのに、忘れた。
───他の誰でもない、自分の手で失った世界だった。
ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえて、縮こまった肺を大きく膨らませる。背後から忍びよる翳りは、見ないふりだ。ベッド脇に備えつけたクッション製の階段を使って、メリーがベッドの上にひょっこり顔を覗かせた。さすがドッグプールというべき? 人の気配を察するのは、他の犬よりも優れてわかるらしい。俺やローガンの脚を踏みながら、メリーは山を越え谷を越え、俺の腕の中に駆け込んだ。
「おはよう、プリティプリンセス」
今日も君のべちゃべちゃのキスがもらえてうれしい。そう伝えるつもりで小さな顔の横にキスすれば、さらにべちゃべちゃが進行した。
一通り人の顔を舐めたくって満足したのか、メリーはブランケットの中に頭を突っ込んで、俺とローガンの間でくるくると回って寝場所を探し始めた。「尻は勘弁して」そう言ったのが伝わったのかどうかは定かじゃないが、何度か人の顔を尻尾で叩いたあと、メリーは頭をローガンの胸にうずめる形で丸くなった。ベストポジションだ。俺が犬でもそうする。頭を撫でるとつぶらなお目目の瞼がだんだん重たくなって、そのうち白目を覗かせながら呼吸が深くなった。
「なあ、スウィーティー」デッドプールの変異体でも、相手は小犬ちゃん。バカげてるよな、と思いながら、迫る翳りを振り払いたさに続ける。「この世界はどう?」
いま再び、この穏やかな世界を失うとなったとき───翳りの内側に、悪夢が覗く。
すべてが俺の手の内から失せる、途方もない無力感に、重たい虚ろ。あらゆる後悔を抱えた、限りない孤独。俺は二度と耐えられる自信がない。今度は助けを求める先もなくまた世界を失って、俺だけが終われない時間を過ごすくらいなら───いっそ、自らの手で。
───ヴィランの思考だな。自分で思い至った結末に自嘲して、すぐやめた。辿ろうと思ったそれら全部が、ワーストの思考だと思った。
「悪くないな」
聞こえた言葉の意味を理解したのは、反射で顔を上げた後だった。むにゃむにゃした眠たい口が、一晩で不揃いになった髭の間で泳いでいる。たるんだ瞼が上下して、榛色が俺を映す。
「あ~……おばあさんの声はどうしてそんなにセクシーなの?」
「さあな……お前曰く、"ヒュー"だからだろ」
「おっと、第四の壁は超えさせないぜ。俺ちゃんの専売特許だ。ついでに確認するけど、ここ俺のベッドだよな?」
「ああ」
頭をもたれていた壁が動いた気配に、メリーが顔を上げる。ローガンが毛の少ない頭にキスをすると、しっぽが車のワイパーみたく俺とローガンを交互に叩いた。
「よかった。俺が前後不覚で忍び込んだわけじゃないんだな。それで、アンタはなんで俺のベッドにいんの」
「知りたいか?」
ああ知りたいね。本当はそう言うつもりだったけど、関節の皮膚が固い親指に目尻をさすられて、思わず腕を突っぱねる。羽虫を払う勢いで手を振る俺に、ローガンは声を漏らして笑った。クソ、覚えはないが、そういうことか。
「ウェイド」
「何だよ?」
ブランケットからメリーを逃して、一緒に跳ね起きようとしたところで止められた。荒っぽい返事になったが謝らない。ベッドの上でシンクロナイズドスイミングを練習するような奇妙な動きをさせられて、いら立たないやつはいないよな。
「いなくなるなよ」
言って、ローガンが先に起き上がった。カーテンから漏れる朝日を受けた顔に、見慣れた陰影ができている。眉間の皺は今日も健在だ。腹を天井に晒してのたうつメリーを撫でながら、俺はローガンの言葉を反芻した。
「……………死ぬなよ、ではなく?」
「死なないだろ」
「わかんないだろ。不死身の存在こそなんとか死なせてみせようって躍起になる連中はごまんといるからね」
「なら俺の知らないところで死ぬな。………お前の大切な世界を失望させたくないならな」
続いて起き上がった俺に向き合って、ローガンが声を沈めて「いなくなるな」と繰り返す。光の射しこんだ榛は澄んでいながら、間近に見る双眸は白目が赤らんで、どこか重たそうだった。
「……アンタのセリフ、全部俺が言おうと思ってたことだ。アンタには前科がある、この世界の方のやつだけど」
「あれだけ死のうとして死ねなかったんだ、今さら死んでたまるか」
ローガンが下りたことで、俺の座ったベッドがギッとスプリングを返す。メリーを小脇に抱えた後ろ姿に、いろいろ言ってやりたいことが過って定まらず、ただ部屋を出て行くところを見送ることしかできない。「ちなみに教えてやるが」俺が茫然と見つめる先で、ローガンが振り向く。そしてあのお得意の表情───片眉を吊り上げ、鼻の頭にキュッと皺を寄せた悪戯っぽい顔で、セクシーに囁いた。クソッ、今年のDILFチャンピオンの座は譲るしかないな。
「昨日、寝ながら泣いていたのはお前じゃない」
@amldawn
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