バカンス


『いい子にしてた君に、遅いバカンスをプレゼントしてあげよう。東京までおつかいして一日働いてくれたら、そのまま東京辺りで過ごすもよし、N県のK先生にご挨拶に行くもよし、君の好きなようにしたらいい。その代わり、おつかいが終わったら不必要なタスクを入れないこと。君も、もう大人ならバカンスをバカンスらしく過ごすことを覚えないと。』
朝倉先生から送られて来たメール画面を操作した先に映った電子チケットを見て、さあ今から寝るか、とベッドにダイブしたばかりの譲介は瞬きした。
おつかい、というのは、言い方は悪いが、先日のカンファレンスの後で聞かされた東京にいくつかある財団の関連施設での仕事の話だろう。
朝倉先生の名代として、監査部門の、ドクター・ジューン……いや、ジョーン・ワットだったかもしれない――後でノートを見て確認しなければ――と連れ立っていくつかのビルを回り、セキュリティ対策の責任者と会っている彼女の仕事ぶりを横で観察し、何かおかしいと感じたことがあればその場で確認することと言われていた。(その間、譲介には、監査部門のオフィサーという簡易な肩書も付くので、その肩書で見学したい医療施設のアポイントメントを取ることも可能だった。)
譲介が気になった指摘事項はメモしておいて、後で監査部門からステートメントとして出す公式の書類とは別に、朝倉先生に簡易に報告を行うことになっている。なにがしかの理由で書き換えが生じたり、削除があることを懸念しての二名体制なのだろう。だとしたら尚更、素人の譲介が行くよりは、専門職が二名で行く方がいいとは思うけれど、尊敬する人に私の代わりの目になって来て欲しいと言われればやはり断りづらい。監査の締め切りは十二月だが、新しい学期が始まれば譲介が動くことは難しい。
「残った課題があるんだけどな。」とひとりごちる。
レポートの締め切りまでは二週間ある。
高校時代通っていた泉平では、地方に良くある普通の進学校らしく受験勉強にだけ的を絞っていて、論文やレポートの提出と言った大学での一般的な課題の作り方とは無縁だった。一也はともかく、宮坂もこちらと同じく大学時代の初手からかなり苦労していたらしく、診療所に居た頃には何度か論文の草稿の打ち込みを手伝わされたことがあった。あの時期に、労働の対価として論文を書くコツなり、指導書なりをバーターで教えてもらったこともあって、譲介はここへ来てやっと文章の組み立てに慣れてきたところだった。ノートパソコンを持って行った先にネット環境さえあれば、きっと大丈夫だろう。
パタパタと頭から水滴が滴って来て、スマホの画面に落ちる。タオルドライも半ばでバスルームから出て来てしまったことを思い出して、譲介は慌てて片手で首に置いたタオルを動かす。
それにしても、と譲介は画面の中で燦然と輝くチケットを見つめた。
朝倉先生――本人と言うより、秘書のMJが準備したのだろうけど――が譲介の移動にと手に入れたそのチケットは、デルタ航空のものでもなく、エコノミークラスのチケットでもなかった。
値段を考えれば、明らかに悪魔の誘惑に見える。
素直に受け取ったが最後、この先クリスマスが来るまで、朝倉先生からオファーされる学業以外のタスクに無償で応じるようにと言われそうな気がする。共同のキッチンと冷蔵庫を利用する大学の寮で耐えている譲介が自分で買うとすれば、ビジネスクラスのチケットは高嶺の花だ。
渡米時は、確か、あの人がくれた譲介の通帳から半分、後の半分は診療所で費用を持ってもらった。それが全額経費で落ちるというのだから驚きだ。クエイド財団ではそういうもの、と考えるよりは、朝倉先生の使える魔法の杖の一振りによる差配ではないかという気がしている。
正直、譲介も村の皆の顔を見たいと思わない日はなかったけれど、今のサーチャージ料では高すぎる上に、格安の航空会社のチケットは突然のキャンセルでの返金も難しいとあって、日本に家族の縁も親の墓があるわけでもない譲介にとって、ハードルが高かったのだ。
ましてや、昨今ではテレビ会議システムが発達しているので――流石に無料のサービスはやはりセキュリティ上の問題があるとして敬遠しているが――週末ごとに顔を見ようと思えば見られるため、今のT村に帰るという選択肢はないような気がしている。
それでも譲介は、この好意を無下にすることが出来なかった。
大学に席を置いて以来、朝倉先生は盆暮れ正月と言ったタイミングが迫って来る前に、見計らったようにして「日本に帰らないのかい?」と譲介に尋ねて来る。
帰りません、と返事をするたびに笑顔を見せて、それなら私に付き合ってくれるか、と言いながら、何も聞かずに財団周りにある穴場のレストランやダイニングと言った食事から、釣りなどのアウトドアなど、あちこち連れ回して、こちらの生活に慣れるのを後押ししてくれた。
(東京での仕事はきっと僕じゃなくても出来るだろうけど、今はキャンセルをお願いする理由がない。)
「帰国か。」
妙に気が重い。
譲介は、本来なら自分が真っ先に顔を出すべき場所のことを思い出した。
あさひ学園は、東京二十三区のどちらかといえば端に位置する場所にある。
そして、譲介があの人と出会った場所でもある。
もしT村に戻るのでなければ、あちらに行くべきかどうか。
高校時代、機会があって一度だけ顔を出しはしたが、巣立ってしまった人間が出戻る場所ではないということを思い知らされただけだった。あれから考えは変わっていない。例えば、あの人が譲介を引き取った年くらいになれば。そうでなくとも、医師としての資格を得、例えば朝倉先生くらい落ち着いた雰囲気の大人になれたら。そうすればまた考えは変わるだろうけれど、と譲介は、ドレッサーから出したばかりの壁に吊るされたスーツと、その横のハンガーに掛かっている、腕に鉤裂きのあるパーカーを眺める。


クエイド大学には、アメリカ在住であれば高校生時代に受講できる芸術系のクラスが数多の留学生のために準備されており、譲介は、その時間を何かしらの運動に当てるべきじゃないかと思いながらも、好奇心に駆られて美術のクラスを取った。
見学したオープンクラスでは、大きな鑿を手に丸太を叩き割るように彫っていくドレッドヘアのロブ、顔はモンゴロイド系の男性にしただけでロダンの考える人にそっくりな作品を作っている細面の中年男ディック、譲介より腕の細いカーラは、一也の身長よりまだ高さのある大きさの石を、脚立に身体を乗せて力の限り彫り進めており、芸術というよりはむしろ一種の格闘技に近かった。一年半、自分の作品を作りながら、隣で作品を作っているカーラに言われるがままに道具を高い場所へと手渡ししていたせいだろうか、もう伸びることはないと思っていた身長が、ここへきて二センチほど伸びた。渡米して以来、イシさんの食事から遠ざかったためか妙に体重が落ちてしまったせいで、こちらに来たばかりの頃に買ったパーカーを着ると、少しだぶついて見えるので一長一短だ。
そもそも、一也には絶対にこの話は言いたくはないし、宮坂に言えばまた噛みつかれるだろう。和久井譲介には友人が少ない。だからまだ誰にも言っていないが、二十代の後半になったところでまだ成長出来るというその一点が、嬉しいような、こんな何気ないことを言う人がいないのが寂しいような気もしている。
そんな風に春の健康診断の結果を思い出していると、体重の増減はあっても、流石に背は縮むばかりだろうなあ、と自分が健診を受け持っていた村の人たちの顔を頭に浮かべた。
村での健診は、いつも丁度今の時期なのだ。暑くもなく寒くもなく、収穫の農繫期ではあるけれど、だからこそ、夏の後だから体調に気を遣うべき、畑を耕している人たち。普段は譲介や一也が診療所へと運んでいく収穫物を持って、皆診療所にやってきた。記憶は手繰る糸のようで、人々の顔だけにはとどまらない、あの村の風景が、目を閉じた譲介の頭の中に浮かんでくる。
今の時期、重広さんたち、農作業をされてる人たちの畑には、いつものように南瓜の蔓が伸び、黄色い花が咲いているだろうか。つやつやと輝く茄子に、秋が深まるのを待つサツマイモの茎が這う地面。赤く熟れたトマトの時期は、すっかり終わってしまったに違いない。
重いチェーンソーを持って山に入り、蔓の這う木々を伐採し、顔を真っ黒にして森を守る人たちの顔。譲介が来た頃には墓石が増えることもなくなっていたあの広い墓地に生い茂る夏草は、彼らの手ですっかり刈り終えてしまっただろうか。
小さなキャップでは心もとないと先生が差し出した麦藁を断った次の日に、首の日焼けが酷くて後悔した夏は、譲介が腹口鏡手術をする前の年だった。
春と秋の思い出よりずっと、夏の思い出の方が鮮やかなのは、痛いほどの日差しのせいだろうか。高校時代の三年の間、ほとんどエアコンの利いた室内に籠りきりだった譲介の身体に、夏らしい温度を思い出させてくれた。
今年の盆には、一也や宮坂も二人連れで診療所に戻って、花火をしたと言っていた。
花火は、最後に線香花火で締めてから、貰い物の梅ジュースの炭酸割りで乾杯する。麻上さんと先生は、村井さんが貯蔵庫から持って来た三十年ものの梅酒をロックにして飲んでいた。宮坂と話し込みたいという下心からか、今日くらいは休もうという一也からの提案でシャドー練習をサボった夏の夜は長くて、花火を終えた後でぽっかりと空いた時間の空白に、今日のように風呂上がりの髪を乾かしながらぱらぱらとジャーナルを眺めていた。いつか見た打ち上げ花火と、会えない人のことを意識の隅に追いやって。


いつかの夜に聞いた彼の言葉を、譲介は時折思い出す。
――オレみてぇに生きてりゃ、おめぇも少なくとも五十までは生き延びられる。
電灯の下で彼を見上げた譲介の目に映る、彼の口元に走る皺と、体調に関して秘密を抱えている人らしい静かな横顔。夏も冬も同じオフホワイトのコートの裾が、川風に翻る様子。そんなことばかりが思い出されて、前後に何を話していたかはさっぱり記憶がない。
花火が終わった後で、三々五々と人々が家に戻る人ごみの中、並んで、川べりの土手を歩きながら話した夜。彼の口から転び出た言葉が、いつまでも耳に残っている。
きっと、あさひ学園で幅を利かせていた頃の、そのままの譲介であれば、この社会に出たところで長生きは出来なかっただろうと、そういうつもりで口にした言葉だったのかもしれなかった。少なくとも、あの夜にはそう思った。
だから、そこから先のあなたはどうなんです、と譲介は聞けなかった。
ふう、とため息を吐く。
気付くと、スマートフォンの明かりは消えて、ロック画面に戻っていた。
手の中で光を放つあのチケットが、譲介のことをあの日の夜に連れて行ってくれるなら。
今の自分なら、あの人にどんな言葉を掛けるのだろう。


……バカバカしい。そんな夢みたいなこと。
今の譲介では、あの人に会いには行けない。探すことも出来ない。せめて医師免許を取ってからと、そう決めたのだから。
譲介は、手の中のスマートフォンを手放し、ベッドの上で仰向けに寝転がって天井を見つめながら、自嘲した。
K先生になら、会いに行けるだろうか。
三十も半ばになって、先生に対して学生時代の一也のように接することは、自分には出来ないような気がしていたけれど、実際のところ、相談事は、テレビ会議の画面を通しての会話では伝えきれないことがたくさんあって、時間はいくらあっても足りなかった。イシさんの作った食事を食べながら、K先生に、今、何を学んでいるかを顔を見て直接伝えたい。背が伸びたことも。
それでも、最高気温がうなぎ上りになっている真夏の成田には、流石に降り立つ気力がなかったし、新学期が近づいてくる休みの後半ともなると、来学期に向けて勝手に気ぜわしい気分になっていた。それでも、ここへ来たばかりの一、二年時とは違って、少しの余裕がなくもない。確かに有難い話なのかもしれなかった。
体勢を戻して、スマートフォンを手に取る。来週、一時帰国します、診療所に寄って構わないでしょうか、とK先生にメールを打ってうつ伏せのまま待っていると『イシさんに伝えておくからカレーを食べに来い、たまには里帰りもいいだろうと麻上君も言っている。』と早速返事が返って来た。
里帰り。
里帰りか。
「もうカレーじゃなくてもいいのになァ……。」と言いながらも口元がほころぶ。
譲介はその夜、半年ぶりに熟睡した。




最後に逢った日に人を食った顔で笑っていたあの人は、不機嫌そうな面をしていた。
――僕の命を、あなたにあげます。
彼の耳元でそんな風に伝えると、白いコートを翻して、生意気言うんじゃねえ、と言わんばかりのつまらなそうな顔で譲介を無視した。誰もいないはずの、川向うをじっと見つめている。
――命を懸けて、あなたを治せる技量を持つ医者になります。
遠くを見据えていたあの人は、譲介の方を振り返る。
隣にいた人と、驚くほどの距離があったことに、そして、パーカーを羽織って彼の隣に立っていたはずの高校生の自分が、いつもの白衣を着ていたことに譲介は気づき、もう一度声を張り上げる。

――医者になって、あなたを治して、隣で生きて、僕やあなたを翻弄して来た運命ってやつを、一緒に蹴り飛ばしてやりますよ。だから待っててください!

あの人が、他人を叱り飛ばす時のように、肚から声を出してみた。言ってやった、と思いながら、膝に手を付いて肩で息をする。
百メートル走を全力で走るより、ずっと肺活量が必要だ。
はあ、と荒げた息を吐きながら、やっとのことで顔を上げると、あの人は白いコートを脱いで、アロハシャツを着て笑っていた。

譲介は目を瞬いた。
あ、これは夢だな。
朝倉先生が、バカンスなんて言うからだ。
――譲介君も、大人ならバカンスをバカンスらしく過ごすことを覚えないと。
僕には、そんな時間なんてないのに。
ぎゅっと目を瞑ると、まなうらに眩しい日の光が見えた。




ピピピ……ピピピ………。
譲介は、伸びをして起き上がった。枕元のスマートフォンを見ると、電源を切らず、充電もせずに寝ていたらしく、電池の残量が十%を切っている。
「うわっ、何だよこれ。」
昨日の夜は、確かK先生から診療所に来ていいって返事が来たんだっけ。……我ながら現金だ。
「連絡が途切れた、って朝倉先生にまた怒られるな。」
慌ててベッドサイドの一つしかないコンセントを占領する充電器にスマートフォンを差し込む。
着替えて顔を洗っている間に少しはマシになるだろうか。あるいは、ぱっと外に出て朝食はいつものWi-Fiが使えるカフェにした方がいいかもしれない。ベッドの上で胡坐をかいて、譲介は身体を揺らした。今日のToDoリストを頭に思い浮かべる。まず、朝倉先生にお礼のメールを返す必要がある。億劫とは思えないのは、T村に行くことを決めたからだろうか。
そうでなければ、寝ている間に、何か楽しい夢でも見ていたかだな。
……イシさんのカレーの夢なら、いつもはもっと覚えてるけど。
譲介はパジャマ代わりのTシャツの上に、壁に掛けておいた白のパーカーを羽織り、洗面所へと向かった。

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