【原利土1819IF】頸と心10
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十 春になったら
火が燃えている。
囲炉裏の縁に組まれた薪が、ゆっくりと形を崩していく。赤熱した節がひび割れ、内側から炎が舌を出す。ぱちりと乾いた音がして、火の粉がひとつ跳ねた。闇に舞い上がった小さな赤は、息をする間もなく消える。外では風が木々を揺らし、枝が擦れる音が薄く家の壁を撫でていた。夜は深い。深いほどに、火の明るさは残酷に鮮やかになっていく。
囲炉裏の傍に並んで座る二人の影が、壁に大きく落ちていた。影は重なり、肩の輪郭が溶け合い、一つの塊のように見える。距離が近いだけで世界が狭くなった錯覚がある。まるでこの世に、二人しかいないかのように。
黒は、利吉──野良の肩に頭を預けたまま考えていた。
これは、計算だろうか。
頭を凭れさせたのは。肩に触れたのは。私も困っている、と口にしたのは。野良の情に付け込むための、生き延びるための打算だろうか。
──いや。そうではない。
黒は、自分に嘘をつくのをやめた。
計算ではない。したかったからしたのだ。野良に触れたかった。野良の温もりがどんなものか確かめたかった。打算も計略もない。ただどうしようもなく、そうしたかっただけだ。
馬鹿みたいに勇気がいった。頭を傾けるだけのことに。頭を少し傾けて、肩に触れるだけのことでしかない。たったそれだけなのに心臓が煩かった。拒まれたらどうする。振り払われたらどうする。自分はどこに顔を置けばいい。どんな顔をすればいい。考えが先に走って、身体が少し遅れた。
野良は振り払わなかった。
強張りはした。肩の筋肉が一瞬だけ硬くなるのが頬に伝わってきた。けれども野良は押しのけず、黙って火を見つめたまま黒の頭を受け止めている。その沈黙が黒には嬉しかった。拒絶されないという事実が、熱のように胸の内に広がる。
(だからといって、何だ)
黒はそっと目を閉じた。
野良の肩の温もりが頬にしみる。布越しでも人の体温はこんなに確かなのかと、妙に現実的な感想が浮かぶ。野良の呼吸が微かに聞こえる。囲炉裏の火が燃える音。薪が爆ぜる音。風が鳴る音。全部が混じって、黒の輪郭を曖昧にしていく。
心地よかった。
このままずっとこうしていたいと思った。この温もりの中にいたいと思った。この男の傍にいたいと思った。そう思ってしまう自分が、少し怖い。
火が爆ぜる。けれどもこの火も、やがては白い炭になって終わる。燃えるものは終わる。温かいものは冷える。分かっている。分かっているからこそ、決めなければならない。
(もう少ししたら……出て行こう)
黒は心の中で思った。
今はまだ駄目だ。これから冬になる。雪が降れば足跡が残る。追手に見つかりやすくなる。冬の山を一人で越えるのは危険だという程度の打算はある。冬に山狩りをする者はいないし、雪に閉ざされた山中の探索は骨が折れる。追手もこの季節に動く意味がない。だから冬の間はここにいても安全だ。野良の傍にいても安全だ。
春を待とう。雪が溶ければ山道が通れる。逃げる算段も立てやすい。雨の多い季節の足跡は残りにくく、一斉に世の中が目覚める季節は追跡の目も散る。春は生き延びるための季節だ。
野良には雇い主がいる。忍務がある。戻る場所がある。自分のせいで野良の立場を危うくさせるのは本意ではない。もうそれくらいの情は出来てしまっていた。困っている、と野良は言った。自分がいるから困っている。自分がいなくなれば野良は元の生活に戻れる。冷徹で合理的な、フリーの忍に戻れる。
だから春になったら出ていく。
冬の間はここにいる。野良と過ごす。囲炉裏を囲んで碁を打ち、同じ屋根の下で眠り、取るに足らない会話を交わす。それで十分だ。そうして春が来たら黙って消える。野良が目を覚ます前に。何も言わずに。
薄く目を開ける。野良がこちらの気配を窺っているのが分かる。相変わらず、この男は気配を向けるのが少し下手だ。忍の癖が抜け切らないくせに、肝心なところで不器用だ。黒は好ましく思って、ほんの少し口の端を上げた。
本当は、自分が野良を術にかけたつもりだった。
感情に付け込んで、利用するつもりだった。生き延びるための道具にするつもりだった。なのに気がつけば逆だった。術にかかったのは自分の方だ。野良の傍にいると安心する。野良の声を聞くと嬉しくなる。野良が帰ってくるのを待つようになった。野良の笑顔を見たいと思うようになった。いつからこうなったのか分からない。気づいた時には、もうこうだった。
春になったらここを出ていく。
その決意を胸の奥で繰り返すたびに、どこかが鈍く痛んだ。
──寂しい。
不意に、その言葉が浮かんだ。
随分忘れていた感情だった。家を焼かれた時に捨てたはずの感情。誰かと別れることを惜しむ心。そういうものは全部捨てた。捨てなければ、生きていけなかった。
なのに今、自分は寂しいと思っている。
黒は再び目を閉じた。野良の肩にもたれたまま、じっと火の音を聞く。まだ冬は来ていない。春はもっと先だ。今はまだここにいられる。今はまだ──この男の傍にいられる。
囲炉裏の火が燃えている。薪が爆ぜる。風が鳴る。野良の呼吸が聞こえる。
黒はその全てを感じながら、静かに目を閉じていた。
***
あの日から、野良が少しだけ優しくなった。
あからさまに何かが変わったわけではない。朝は同じ時刻に起き、日中は採集と狩りをして過ごし、夜は囲炉裏を囲む。言葉が増えたわけでも、態度が柔らかくなったわけでもない。相変わらず野良は真面目で、相変わらず黒の大雑把さに呆れ、相変わらず小言を言う。
ただ、違うことがあった。
些細なことだ。狩りから戻った野良が獲物を捌く。鹿を仕留めた日は鹿肉を、兎の日は兎肉を、山鳥の日は山鳥を。手際は変わらない。刃の入れ方も、皮の剥ぎ方も、火にかける順番も変わらない。変わったのは、肉の分け方だった。
野良は肉を二つに分ける。自分の分と黒の分。以前は均等だった。量も見た目も揃えて、どちらにも文句の出ないように分けていた。今は違う。量は変わらない。ただ一番旨い場所が、黒の器に盛られている。
鹿なら背骨の内側。兎なら背の肉。山鳥なら腿。獣によって違うが、肉にはそれぞれ一番柔らかく脂が乗る部位がある。野良はそれを知っている。そしてその一番旨いところを黙って黒に与える。これが旨い、とも、お前にやる、とも言わない。いつもと同じ顔で、いつもと同じ声で「食え」と言う。
最初は黒も気のせいかと思った。たまたまだろう、と。だが二度、三度と続くうちに、野良が意図してそうしていることに気づいた。野良は、旨い場所を選んで自分に寄越している。
肉の分け方が変わった。それだけだ。たったそれだけのことで、胸の奥がじんわり温かくなる。馬鹿みたいだと思っても、否定できないほどに嬉しかった。野良が自分を気にかけている。野良が自分に何かを与えようとしている。その事実が、どうしようもなく嬉しい。
黒は、ことさらに何でもないふりをした。器を受け取る時も、肉を口に運ぶ時も、平然とした顔を作る。旨いともありがとうとも言わない。言えば認めることになる。この男の優しさに気づいていることに。この男の優しさを喜んでいることに。
野良も何も言わない。ただ自分の分を食べ、火の番をし、いつもと同じように過ごす。傍から見れば、何も変わっていない。言葉は少なく、距離は近く、それだけの関係に見える。けれど黒は知っていた。
あの夜から、何かが確かに変わった。肩にもたれかかった夜から。困っていると言い合った夜から。野良の中で何かが動いて、それが肉の分け方という形になって現れている。黒の中でも何かが変わった。変わってしまった。
黒は囲炉裏の火を見つめながら、口の中で肉を転がした。柔らかくて、脂が広がって旨い。一番旨い場所だ。野良が自分にこれをくれた。それを喜んでいる自分が、確かにいた。
夕餉を終え、いつもの通りの碁の時間。黒は囲炉裏の火を横目に見つめ、碁石を弄びながら野良の顔を盗み見ていた。
火に照らされた顔はいつも通り無駄がない。余計な感情も迷いも、刃物のように削ぎ落としている。けれどもその完璧さは、最近ときどき小さく軋む。沈黙が増えたのではない。沈黙の質が変わった。以前はただ無関心に近い静けさだったものが、今は言いかけて飲み込んだ言葉の重さを含むものになっている。
野良は、何かを言えずにいる。黒はそれが気になった。自分は春になったら消える。ここに長居するつもりはない。情を深める理由など本来一つもないはずで、それなのに野良の沈黙が、喉に刺さった骨のように取れない。
(この男は……一体何を背負っているんだ)
火が爆ぜる。刹那、野良の肩が微かに揺れた。戦場で物音に反応する類の鋭さではない。もっと別の──胸の奥を掠める何かに触れられた時の反射のような。きっと何かを思い出しているのだろう。この男は時折そんな顔をする。
黒は思った。自分の過去は燃え尽きている。だからこそ他人の過去の熱が見える。野良の完璧さは才能ではなく、誓いだ。破れば自分が壊れる種類の硬い誓い。
黒は碁盤を見下ろした。石は攻め合いの形を作っている。目先の一手が勝敗を決める局面。けれども黒の指は、碁盤よりも野良の方へ引かれていた。
聞きたい。この男の核を。この男が、何を捨てずにここまで来たのかを。
春になったら消える。その決意を繰り返すほどに矛盾が増える。消える前にこの男の中身を知っておきたいと思ってしまう。知ってしまえばもっと消えにくくなるかもしれない。それでも知りたいと思う、それは衝動だ。
黒は、ゆっくりと顔を上げた。野良が碁石を持ったままこちらを見ている。視線の向け方が少し下手なまま、物言いたげに見返してくる。言いたいのだと──野良には言いたいことがあるのだと黒は直感した。言わないなら、それでいい。けれども聞いておくべきなのではないかと思った。いつか消える火だからこそ、焚き上げることもできる。
「お前の話が聞きたい」
黒は石を置く手を止め、盤面から視線を外して利吉を見た。軽口でも、からかいでもない。声は低く、火の音に埋もれない程度に落ち着いている。囲炉裏を囲んで碁を打っていた時だった。利吉は碁石を持ったまま黒を見た。
「話……?」
「お前のことだ。山奥の生まれだと言っていただろう。それ以上は聞いていない」
火に照らされた黒の目が、利吉の奥を覗いてくる。好奇心だけではない。もっと深い、何かを確かめるような視線をしている。利吉は視線を逸らした。黒石と白石が密に並ぶ碁盤を見ると、自分が劣勢だった。気づけば追い詰められている。勝ちを拾う手がどこにも見えない。
黒の態度が変わったことに、利吉は気づいていた。
あの日から。着物を貸した日から。肩に凭れかかられた夜から、確かに変わった。二歩の距離はそのままだが、少しだけその内側に入ってくることが増えた。囲炉裏の傍で並んで座る時、肩が触れそうなほど寄ってくる。眠る時にうつらうつらとこちらを見ていることがある。薄目を開けて利吉の顔を見ている。無意識なのか、意識しているのか。けれどもどちらでも同じことだった。黒は利吉の気持ちに気づいているはずだ。だからあの日もあんなことをしたはずだ。
この男は聡い。人の心を読む。利吉が黒に執着し始めていることなどとっくに見抜いているだろう。そしてそれを利用しようとしている。距離を縮め、情を深め、逃げる機会を窺う──あるいは逃がしてもらうための布石を打つ。そういう計算があるはずだ。
それはそれで構わなかった。好きに利用すればいい。
利吉は自分がそう思っていることにもう驚かなかった。もう、そんなことはあの夜に諦めたのだ。黒に困っていると言った夜に。黒の頭を肩に乗せたまま火を見つめた夜に。
利用されても構わない。騙されても構わない。そんなことを思うのは忍としては失格だ。完璧であろうとした自分が、感情を殺し、迷いを断ち、冷徹に任務を遂行しようとしていた自分が、この男の前では全部崩れる。それなのに、それでいいというふうに思っている。
「……何が聞きたい」
利吉は碁石を盤に置いた。負けを認めるような、緩い手だった。
「何でもいい。お前が話したいことで」
黒の声は穏やかで、急かさない。話したくなければ話さなくていいと言外に残している。利吉は火を見つめた。赤い炎の奥に、あの春の日が見える気がした。喉の奥が乾く。思い起こすのはいつも、自分を覆った影と透明な赤だ。
「……父の話をしようか」
声が掠れた。
「お父上か」
「ああ。お前は聞きたがっていただろう。蔵書のことを聞いた時、目を輝かせていた」
「そんな顔を……していたか」
「ああ、していた」
そう言うと、黒が少し照れたように視線を逸らす。その仕草が利吉には妙に可愛らしく見えた。可愛い。そう思ってしまう自分に、利吉は内心で苦笑する。いよいよ末期と言わざるを得ない。
「……父は、忍術学園の教師だった」
利吉は語り始めた。
「忍術学園の」
「ああ。実技を教えていた。私も火縄銃や手裏剣術は、父から学んだ」
黒は黙って聞いていた。碁盤の上に手を置いたまま、利吉の言葉を待っている。遮らず、測らず、ただ受け止める構えをしている。
「氷ノ山という山の、奥の方に住んでいた。人里から遠く離れた静かな場所だ。父と母と、三人で暮らしていた」
利吉は言葉を選ぶ。ゆっくりと。一つ一つ確かめるように。
「父は仕事が忙しくてなかなか帰って来なかったが、それでも帰ってきたときには相手をしてくれた。書を読み、技を教えてくれた。幸せだった」
火が爆ぜた。赤い火の粉が舞い上がり、すぐ消える。利吉はそれを目で追って、少し細めた。
「ある春の日に……それが終わった」
黒は何も言わない。ただ利吉を見ている。利吉は深く息を吸い、吐いて、ようやく話し始めた。あの日のことを。父のことを──自分が背負っている罪のことを。
野遊山に出かけたこと。春の花が咲いていたこと。母が作った握り飯の味。父が選んだ陽だまりの柔らかさ。そして忍が現れたこと。首筋に当てられた冷たい刃に、声も出せずに震えていたこと。父が自分を取り戻すために飛び込んできて、銀色の光が父の背を走ったこと。
話すたびに喉が詰まり、声が何度も掠れた。それでも利吉は続けた。黒が黙って聞いているからだ。黒が待っているからだ。誰にも話したことのない話だった。母にも話していない。父にはなおさら話せない。あの日以来、利吉はこれを一人で抱えてきた。自分のせいだと。自分が弱かったからだと自分を責めた。
言葉にするたび、胸の奥で凍りついていたものが少しずつ緩み、固く結ばれていたものがほどけていく。消えはしなくとも一人で抱えていた時の重さとは違う。誰かに受け取らせることで、重さの形が変わるものもある。
黒は一言も口を挟まなかった。相槌すら打たずに、ただ火に照らされた目で真っ直ぐに見ている。そこには責めも、憐れみもなかった。ただ受け止めるだけのその視線が利吉には救いだった。
話し終えた時、利吉は深く息を吐いた。疲れていた。けれども妙に楽だった。重荷を一瞬だけ地面に置いたような不思議な感覚があった。
沈黙が落ちる。
囲炉裏の火が燃えている。薪が爆ぜる。外では風が木々を揺らしている。
その時、黒がようやく口を開いた。
「……そうか」
それだけだった。
同情も慰めもない。ただ、そうか、と。あの夜、黒が過去を語った時、利吉が返したのと同じ言葉だった。
利吉は黒を見た。黒も利吉を見ている。火の光に照らされた二つの顔が、向き合っている。
「……いつか」
利吉は言った。
「一緒に、家に行こう」
黒の目が僅かに見開かれる。
「父の蔵書も、きっとまだある。詩経も、史記も、お前が読みたがっていたものは全部ある。いくらでも読めばいい」
自分が何を言っているのかは分かっていた。捕虜を実家に連れていく。抜け忍を家に迎えるなど、そんなことが許されるはずがない。雇い主に見つかりでもすれば信用問題では済まない。最悪両親にまで迷惑がかかる。利吉も分かっていて言っている。そんなことができるはずがないのだと。
それでも利吉は言いたかった。この男と一緒に、父の蔵書を見たかった。この男が目を輝かせて書物を読む姿を見たかった。この男を自分が生まれ育った場所へ連れていきたかった。この男に安心して過ごせる場所を与えたかった。
黒はしばらく黙っていた。何かを考えているようで、何かを堪えているようでもある。飄々とした顔ではない。もっと柔らかく──もっと脆い顔だった。
「……そうだな」
黒の声は、少し震えていた。
「春になったら、行こう」
そう言って黒は笑った。からかいの笑みではない。皮肉の笑みでもない。ただ静かに、柔らかく笑っていた。
──春になったら。
その言葉が、利吉の胸に落ちた。約束だ。二人の約束だ。叶うかどうか分からない。何が起きるかも分からない。それでも約束できたという、その事実だけで利吉には十分だった。
***
眠れない夜だった。
野良はすでに眠っている。二歩の距離で、穏やかに呼吸をしている。囲炉裏の火は落ちかけ、残り火が微かに赤く燃えているだけだ。月明かりが薄く差し込み、野良の寝顔の輪郭を淡く浮かび上がらせる。
黒は目を閉じられずにいた。
野良と交わした約束を、何度も思い起こす。春になったら行こう。自分は野良にそう言った。約束だ。二人の約束だ。野良のほっとしたような表情が頭から離れない。
(なぜ……あんなことを言った)
春には消えるつもりなのに。春になる前にいなくなるつもりなのに。そうだな、などと。春になったら行こう、などと嘘をついた。守る気のない約束をした。約束の形を借りて、野良の胸に偽りの灯を置いた。
黒は自分を責めた。
この男を騙している。そうして今夜もまた騙した。春になったらと笑いながら、心の中では別れを数えている。あと何日。あと何夜。この男の傍にいられるのは。
今日野良とした話を黒は思い出す。この男が完璧主義である理由がやっと分かった。父を傷つけたこと。教壇を降りさせたこと。それを己の罪として、野良は自分を律してきた。完璧であろうとしてきた。感情を殺し迷いを断ち、隙のない忍であろうとしてきた。そうすることでしか自分を許せなかったのだろう。両親が生きているから、きっとなおさら。
顔向けする相手がいる。帰る場所がある。彼を見ている者がいる。だから野良は逃げられない。崩れられない。自分のようにはいかない。自分のように全てを失った者のようには。
黒には何もない。帰る場所もない。待っている人もいない。家は焼けた。家族は死んだ。故郷は灰になった。だから黒は自由だった。どこへでも行ける。失うものがないからどんな風にも生きられる。そうやって生きてきた。だが野良は違う。
野良には守るものがある。失いたくないものがある。だからこれからも変わらず、優秀な忍でいなければならない。フリーの忍として信用を積み重ね、雇い主に報告し、忍務を遂行し、完璧な仕事をし続けなければならない。
だからやはり、黒は傍にはいられない。
自分がいると野良の立場が危うくなる。報告していない捕虜を匿っている。それだけで信用は地に落ちる。積み上げてきたものが崩れる。野良の未来が潰れる。
本当は野良のためを思うなら、今すぐにでも出ていくべきなのだろう。
明日の朝。野良が目を覚ます前に、黙って消えるべきなのだろう。そうすれば野良は元に戻れる。捕虜は逃げた。それだけのことだ。野良の責任ではない。野良は悪くない。自分がいなくなれば、全部終わる。
分かっている。
分かっているのに──できない。
黒は野良の寝顔を見つめた。月明かりに照らされた横顔。穏やかな呼吸。この男の傍にいると安心する。この男の傍にいると息がしやすい。この男の傍にいると、生きていてもいいと思える。
家に来い、と言ってくれた。
あの言葉が、まだ胸の中で響いている。いつか一緒に家に行こう。父の蔵書を見よう。詩経も史記もある。いくらでも読めばいいと。
嬉しかった。
どうしようもなく嬉しかった。野良が自分を家に招こうとしている。野良の生まれた場所に。野良の家族がいる場所に。自分のような抜け忍を。自分のような流れ者を。
野良はたくさん嬉しいものをくれる。
一番旨い肉をくれる。替えの着物をくれる。傍で眠らせてくれる。話を聞いてくれる。家に来いと言ってくれる。本を読めと言ってくれる。
なのに──何も返せない。
黒は何も持っていない。野良に与えられるものを何も持っていない。持っているのは嘘と裏切りだけだ。春になったら行こうという嘘。守る気のない約束という裏切り。それだけだ。
黒は目を閉じた。閉じても、眠りは来ない。
野良の呼吸が聞こえる。静かで規則正しい呼吸だ。その音を聞きながら、黒は思った。
せめて冬の間は。
せめてこの季節が終わるまでは。この男の傍にいさせてくれ。嬉しいものを貰わせてくれ。温もりを感じさせてくれ。
春になったら消える。約束は守れない。その自分勝手をわかっている。でもせめて──今だけは。
黒は野良の方へ、ほんの少しだけ身体を寄せた。二歩の距離が一歩半になる。触れそうで触れない、今までよりも確かに近い距離。野良の体温が微かに伝わってくる。その熱に縋るように黒は目を閉じた。
眠れない夜だった。
まだ、温かい夜だった。
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