遺品
「こんばんは。」
久しぶりに寝床の暖簾をくぐると、店の中では先に来ていた兄弟子がひとりで飲んでいた。
金曜の夜は、サラリーマンにとっては華金と呼ばれる飲み屋のフィーバータイムだ。混雑することもあって、カウンターに座らされることもあったが、最近はもっぱら空いているのでテーブル席だ。
そもそも一人で飲みたい時まで自宅である草若邸の向かいに来るなという話だが、この兄弟子は外での鬱屈を抱えたまま、この店にやってくる。全く、迷惑極まりない。
商社に勤めていた頃、上司も同期も、似たような鬱屈を抱えてはいたが、ああいう連中が雁首揃えて通っていた歓楽街の店でやらかしていた不行跡や溶かした金のことを考えれば、まだ健全ではあるのだろうと思わないでもない。
「おう、四草来たか。」と手を挙げる様子に頷きを返す。
「四草、他のメンバーはどうしたんや?」
そう磯村屋さんに聞かれて「皆帰ったり、あっちで食べたりしてます。」と答えを返す。
草原兄さんは、今日は夕食を家で食べるというので家に戻ってしまった。
若狭と草々兄さんも、今夜は弟子と一緒に飯を食うらしい。このはた迷惑な兄弟子が一度失踪してからというもの、三代目草若門下の全員がこの寝床に集まることは、ほとんどなくなってしまった。そもそも、草々兄さんが弟子を取って自分の一門を構えたという理由もあるし、草若師匠、という僕らが最優先すべき人を失ってしまったというのが一番の理由だろう。
「今日はふたりか。草原の噺が聞けんのは寂しいなあ。」
磯村屋さんは今も昔も変わらないデリカシーのなさだ。
兄弟子は眉を上げて、低い声音で「好きなもん頼め。」と珍しいことを言う。
まあ、この人の財布が空でも、最悪、僕の財布の中に、今日はいくらか入っている。
見上げたメニューの中から選ぶのも億劫で「払いは気にせずに適当に持って来て下さい。」とお咲さんに伝えると、耳敏い男からは「おい、四草!」とツッコミが入る。
「考えなしに口にするからですよ。……たまにはこういうのもいいじゃないですか。何も昔みたいに百種類頼むって訳じゃないんですから。」と反論すると「好きにせぇ。」と言って兄弟子は視線を逸らした。
所帯や弟子を持つものは帰るべき場所に帰り、僕らふたりがここに残った。
草若宅の目の前、という前に寝床寄席の会場だというロケーションがあったからこそ、月に二度、三度と、僕ら全員がここに集って飲んだり食べたりをしていたのだ。あれからまだどれだけも経ってないというのに、遥か昔のことのようだ。
今この人は、手元不如意で僕の部屋に居候して暮らしているが、一門を再結成した頃は、この店での飲み代を、僕らは、一番稼いでいたこの人の懐を頼って立替させていた。それがさも当然であるかのように。
おそらく、当時、ちゃんとした借用書をみんなで書いていたとしたら、雀の涙だとしても、今少しは手元に残るような金が入ってきていたのではないだろうか。何しろ、師匠が率先して何度もツケにしていたのだから。
ああしてふらりと姿を消してしまう何か月か前のことだった。世間話のようにしてそのことを持ち出した僕を前に、この人は困ったヤツやといわんばかりの視線を向けて「オレもお前も落語やってんのや、貸した金は返って来ないもんと思っておかなあかんやろ。」と言った。それから、平兵衛に水やりをするような顔で僕に背を向けてから、「……それに、あの飲み代はほとんどオヤジが持つはずだった分やないか。」オレが払うのが道理や、と乾いた声で笑い飛ばした。
一門の師匠が父親であるというのは、こういうことなのだ。
表だっては天狗芸能におもねりながらも、心の奥底に草若贔屓を隠していた師匠連中からは『世話になった一門に後足で砂をかけるような真似をして飛び出していった親不孝もん』と思われていたことを知らないこの人ではないはずだった。
あの夜の僕は、心に重石を乗せられたような気持になった。
師匠に出会う前の僕の人生に、父親の不在という事実は、長く影を落とし続けていた。
その事実のせいで、幼い頃からあからさまな差別を受けたり、不利益を被ることが多く、ねじれた形で心の裡に積み上げられた思い出が、その後の僕の言動や行動として、親の在る人間に対しての攻撃となって顕れるようになった。
そうした人生を歩んで来た僕が背負って来たものが、この人には伝わらないのと同じように。今でも寄る辺のない子どものような顔をする男が背負って来たものを、僕も一生分からない。
酒をちびちびと舐めるように飲んでいる人を眺めて、そんなことを思った。
「咲さん、徳利もう二つ追加でお願いします。」
「四草君、今夜はオレがおごるで。」と熊五郎さんが言った。
「あんた何言ってんの!」
「そうかてお前、日暮亭のでかい仕事を入れてもらったとこやないか。それに今日は、」と言って熊五郎さんがお咲さんに耳打ちをした。
「それはそうやけど……じゃあ今日だけやで。」とお咲さんは納得しきれていないような声を出した。
今日は草若師匠の月命日だった。
普段であれば雰囲気までうるさい男が静かに飲んでいるので、間が持たない。
小浜から戻って来て、草若を襲名した兄さんは、その後、襲名披露の御祝儀のような落語会が続き、覚えたばかりのはてなの茶碗を抱えたまま、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして小金を稼いでいる。
二十代、あるいは三十代になりたての頃には地方ロケも頻繁だったが、今ではもうあの頃の体力も気力もないのか、顔にはその疲れが滲んでいた。
「若狭と草々兄さん、誘ってきましょうか。」
食事を終えていたとしても、一杯飲むくらいなら構わないだろう。片付けだけならあの弟子に任せておける。
「ええて。あいつらも日暮亭のオープン前にちょっとでも節約したいやろ。」と兄弟子は手を振った。
「そうですけど。」
「お前もメシ食ったら、先に帰ってていいで。」
「そういう訳にもいかないでしょう。」
「何を盲平兵衛みたいな顔してんねん。」
「元からこういう顔です。」
「……嘘つけ。」と男は苦笑した。
「兄さんこそ。」
普段であれば、「『僕、真面目な弟弟子ですぅ~』みたいな顔をしてんねん、普段通りにしたらどないじゃ。」などとこちらを小馬鹿にしたからかいを仕掛けてくるのが常套手段だった男が、今夜は人が変わったようだ。
「仁志、あんた、今夜はやけにくっらい顔してるけど、お酒を過ごす前に、何か四草くんに話すことがあるんやないの? 草原くんと草々くんにはここで話してたやろ。」
カウンターでいつものように磯村屋さんと飲んでいた仏壇屋の菊江さんがこちらを振り返って話を振った。
「あ、せやった。四草、お前こないだの話のときおらんかったな。……リフォーム工事前に、オヤジの遺品を整理しようかと思てんねん。」
「は?」
草々兄さんといい、どいつもこいつも。
そもそも、草々兄さんみたいにただの色恋の話ならともかく、遺品の話なんか、こんな居酒屋のテーブルでするような話と違うでしょう。
「何を口滑らせてるんですか。」と言うと、兄弟子はハッと笑った。
「勿体ぶらんかて、オヤジの遺品なんか、誰も取ってはいかんやろ。」
「いやいや、そうとも限らへんで。それ、こないだ言ってた三代目草若の遺品の話やろ?」
(……いらん横槍まで入って来た。)
「そうですねん。工事の間、お囃子の道具やら蔵書やらは一時トランクルーム借りるにしても、支払いが高うつきますから。捨てられるもんは捨てて、残ってるもんは、特に着物なんか、オヤジがじいちゃんから受け継いだようなもんもありましたけど、オレの趣味でもないし、誰ぞに引き取ってもらおうかと。」
(横槍に真顔で反応すな。)
「そういえば、草々くんはこないだ、DVDやらCD引き取るって言ってたな。」と菊江さん。
一瞬、(故買屋相手に一番高く売れそうなものを……)と思ってしまった。
そもそも、サクラなら金次第ではオレが引き受けたってもええで、などとこういう時に言い出しそうな人間に心当たりがあるのがいけない。
若狭の叔父である、妙なサングラス男の見つけ出した宝くじは、師匠にはいい土産話になるだろう、ということで、結局、棺桶に入れて一緒に燃やしてしまった。寝床で寄席をした最初の、草若弟子の会の日の師匠のてぬぐいも、宝くじと一緒に天に昇って行った。
「草々兄さんには若狭の持ってるテープがあるでしょう。」と僕が言うと、兄弟子はチチチチと指を振った。
「あのテープは替えが利かんからもう永久保存版にするねんて。草々のヤツ、若狭が、家事してる間に、腹ン中の子ォに聞かせてやるんやとか何とか、気炎を上げてたわ。」
「そりゃええ、落語の英才教育かいな。徒然亭若狭式、いや、草々式か。」
磯村屋さんはそんな風に呑気に笑っているが、隣では菊江さんが焼き鳥を咀嚼しながら、妙な顔をしている。
「仁志、それ危険やで……若狭ちゃん、師匠の落語に聞き入って、料理焦がしたりしてしまうんと違う?」
「いやいや、若狭ももう立派なおかみさんなんやから、流石に料理は弟子任せやろ。」
「そやけど、草々くんが落語会の時は、小草々くんも付いていくし、そういう日ぃは若狭ちゃんがご飯作ってるって言ってたやろ?」と菊江さんが言うと、磯村屋さんが、ごくりと唾を呑んだ。
「一応、草々と若狭に次逢ったら、気を付けるように言うときますわ。」
調子が出て来たらしい兄弟子が、手酌で酒を啜りながら言った。
「あとはあれやな、高座で実際に使ってた三代目草若の扇子に本人直筆のサインが入ってるとかなら、オレはちょっと欲しいけどな。」
「磯村屋さん、そんなんあるなら、オレがとっくになんちゃら鑑定団に出してますわ。」
「お、草若、なにわテレビの宣伝ならともかく、他局の宣伝か?」と磯村屋さんが眉を上げる。
「もうレギュラー番組もなくなって、オレもあそこには義理ないですから。……ま、オヤジがのうなったばかりと言っても、三万円にはなるやろ。」と兄弟子は往時の皮肉を思い出したかのように肩を竦めているので、磯村屋さんと菊江さんが顔を見合わせた。
その間に、その間の話を聞いてなかったらしいお咲さんが「今日のおススメやで~。はい、揚げ出し豆腐に、豆腐ハンバーグ。」と賑やかしい調子で皿を持って来た。
「今日は豆腐尽くしですか?」
「安心して、四草君、ちりとてちんは入ってないから。」とお咲さんにウインクを返された。
「何を不吉なことを……。」
しかも面白くもなんともない。
豆腐ハンバーグに口をつけると、オイスターソースにケチャップを混ぜたようないつもの味ではなく、すっきりとした梅ソースで、悪くはなし、目新しくもあるが、この人にはなんとなく軽いのではないか。そんな気がした。
向かいの男を伺うと、案の定、不平そうな顔をしている。
「おい四草、もうちょっと肉っぽいもんないんか?」
「仁志、そんならおばちゃんの焼き鳥食べるか?」食べさしやけどな、と菊江さんが声を掛けてくる。
「いらんわ!」
「ごめんなあ、草若さん、今日はもう焼き鳥、菊江さんに出したので仕舞いやねん。」
お咲さんがカウンターから申し訳なさそうに謝ると「材料なら残っているもん使って、豚串でも作れるで!」と熊五郎さんが勢いよく調理場から顔を出した。
「熊はん、それあたしも食べたい!」
「四代目草若と同じメニューならオレも!」
大喜利の速さでカウンターに座っていたふたりが注文を入れると、他にテーブル席に着いていたお客も「そんならオレらも。」「メニューにないもん、食いたい!」の大合唱が始まった。
「……そんなら今からやったるで、皆待っといてな!」
まるでコンサートの後にアンコールを言われた時のような張り切りようで調理場に姿を消した熊五郎さんの残像に向かって「いや、オレはそれ、食いたいとは言うてへんけど……。」と本日押され気味の兄弟子はぽつりと言った。
外に出ると夜の風が冷たい。
「今夜、楽しかったですね。」
「まあなあ。」
「皆、もう草若兄さんが四代目を名乗るのを、すっかり受け入れてるみたいだ。」とぽつりと言うと、「しばらくは小草若と間違われることも多かったけどな。慣れて来たんやろ。」と兄弟子は頭を掻いた。
皆にとって、この人はもう徒然亭小草若ではなく、四代目草若なのだ。
今夜は妙に、その事実が僕の胸をざわつかせるようだった。
「さっきの。師匠の遺品の話ですけど。」
「ああ、あれな。お前にいるか、て聞こうかと思ってたんやけどな、考えてみたらお前んとこの押し入れ、オレの服でいっぱいやったな、と思ったら切り出しづらくてな。」と言って顔を逸らす。
草々兄さんなら「弟弟子にまで散々迷惑掛けといて、そこでしおらしい顔をすな。」とツッコミと手の一つも出ているだろう。
「物なら手放していいのと違いますか。師匠もそうしたでしょう。」
おかみさんのあの思い出の簪も、今は若狭のものだ。
一門に戻って来た当時、あの常にすっきりと片付いていた稽古場が、ぶら下がり健康機などの不用品を放り込むような押し入れになっていた景色を思い出せば、風を通し環境を整えるためには、物を捨てることも必要だというのは分かる。
大事にすべきは物ではない、人の記憶だ。
草若師匠の記憶なら、僕にもこの人にも売るほどある。
「あの家、おかみさんの遺品もまだいくつかは残ってんのでしょう? 僕じゃなくて、先に兄さんたちと若狭に話を通して良かったと思いますよ。僕は遠慮しときます。」
「遠慮て、お前……。まさか何もいらんてことか?」と兄弟子は絶句した。
「僕は、師匠から教わった落語があればええです。そもそも、前の常打ち小屋作る時に売れるもん売ってしまって、師匠の記念になるもんなんて、もうほとんど残ってないでしょう。」
「いや、そやけど……。」
「それより、これだけは誰にも譲りたないってものがあるなら、兄さんが自分の分をちゃんと確保してください。妙な遠慮をせんと僕のところに持って来たらええでしょう。」
「ほんとにそれでええんか?」
「構いませんよ。」
狭いアパートで、空間は限られている。物への執着は手放してしまって、この先も使っていける者に渡した方が、師匠も喜ぶに違いない。
「……仏壇でも?」
「それは無理です。」
日暮亭が出来る前に二階に移設するという話をしていたばかりなのに、まだ諦めてなかったのか、この人。
「おい四草、何でもええて言うたやないか!」
「僕の部屋の狭さ知ってるでしょう。仏壇入れるなら、代わりに兄さん、明日っから廊下に寝てください。」
「師匠とおかみさんの仏壇やぞ。オレがおらんでどないするねん。」
「だからさっさと引っ越しとけばって言ったんですよ。」
この男、敷金が貯まらん、とか、欲しいコート見つけてしもて、とか、なんのかんのと理由を付けて、僕の部屋から出て行くのを引き延ばしているのである。
「とにかく、僕の部屋に入れるのは、仏壇以外で、縦横高さが1メートルくらいに収まるくらいのもんの範囲です。」
縦横高さ1メートル、と言いながら自分の肩の幅に両手を開いている。
隣の男は明らかに規格外サイズだが、夕陽に溶けて消えてしまえばいいはずのその身体をいの一番に部屋に納めるために、この倉沢忍が遠慮しているのだ。
その事実をちょっとも客観的に考えないのが、この鈍い兄弟子の兄弟子たるゆえんだった。
「草若兄さん、それから、今週中に、今ある衣装、半分は処分してくださいよ。」
「は、半分!?………半分も処分したらオレの着るもんないやんけ!」
「それなら聞きますけど、手元に残す遺品をどこに入れるつもりですか?」
「……ないな。」
「今はあちこち洒落た古着屋も出来てますから、適当に処分してって、年相応のものを買い足してったらええでしょう。」
「半分か。」
しつこい。
「そうしてください。」
師匠の着物を着た新しい草若がいれば、僕はそれだけで構わない。
ちらりと頭に思い浮かんだ考えを慌てて打ち消した。
「ちゃんと片付けられたら、きつねうどん奢りますよ。」
「お前はそればっかりやな。」
「そういうことは部屋代入れてから言ってください。」
「分かった、分かったて。」
また暫く世話になるわ、と言う声が、道の先から吹いて来た風にかき消されそうになる。
よろしくお願いします、という言葉を飲み込んで、僕は彼の後を歩いて行った。
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