恋人よ、あなたは美しい
アルド・ベリーニの心の中では、葛藤と欲とが激しくせめぎ合っていた。
情熱的に唇を求めてくる相手が、普段ならば自身が敵と呼ぶことも辞さないほどの人間だからだ。
先だって行われたコンクラーベでも、ひりひりとした緊迫感の中で彼が声高に唱える排外主義への嫌悪をいつも以上に募らせ、それは熱狂と混乱の終わりに向かってある程度の収まりを見出すかと思われた。しかし現実は上手くいくはずもなく、アルドの中に残った蟠りは深い谷間の中で燻り続けている。親友はこの悪童を冷静に躾ける術を持っていたが、アルドにとってそれは対峙する手強い相手に阿るのと同じことだった。
だから、ゴッフレードの逞しい体躯が我が物顔で廊下を歩いているのを見るのも苦痛で仕方がなかった。何故こういう連中ほど何事もなかったかのように過ごすのが得意なのだろう──そうした怒りが積み重なり、喧嘩の続きだとばかりに絡んでしまった。なんて子どもじみた真似を、と眉を下げるトマスの顔が浮かび、心の中で十字を切る。こういう時、本当に自分の性格が嫌になってしまう。
本当はちょっとした口論の予定だった、と思う。ほんの数分前のことなのに記憶が判然としないのは、その後の展開に困惑しているからだ。困惑しつつも身を委ねているのだから、なんだか可笑しくなってしまう。それほど意外な展開だったにも関わらず、壁際に追い詰められて激しく求められるのは思っていたよりも不愉快ではなく、キス以上の経験もやぶさかではなかった。
暗がりの中、ゴッフレードの羊のような目がアルドを捉え、アルドもまたゴッフレードの分厚い身体を抱き締め、激しいキスに応える。
恥を知れ、と指差した先の獰猛な肉体と同じものとは思えない、ふつふつと滾るままの人間の体温がアルドのそれと混じり合う。他人の肌を初めて知ったように隅々まで喰らい尽くそうとするキスは荒々しく、遠い日の火遊びを思い出させた。
盛り上がるままに密着させた身体はこの先をどう進めるべきか躊躇っていた。躊躇いながらも行動に移したのはゴッフレードの方で、己こそが完全無欠だと背中に書かれているような男がおずおずと下手な愛撫を始めた。世俗のプレイボーイの大胆さもなければ、日常に組み込まれた欲望の惰性もなく、腕の中の肉体をどう扱おうか思案しているような手付きだ。
ふと、この男にもこんなにかわいいところがあったのか、という純然たる感想がアルドの脳裏をよぎる。まさかゴッフレード相手にかわいいと感じる日が来るとは思ってもみなかった。不思議なもので、かわいい男だと思い始めると触れられているうちに気持ちよくなり、口の端から拙い喘ぎが溢れた。荒々しいキスは徐々に緩やかになり、唇を甘噛みされる度に触れる柔らかい口髭がくすぐったい。ふふ、と笑うと嗜めるように壁に押し付けられ、その拍子に頭に乗せていたズケットが落ちる。自分よりも年上の男が必死になっているところを見るのはなかなかの快感だ。
この先どうすべきか示し合わせたかのように、躊躇いの気配がじわじわと消えていく。躊躇いが消えて霧が晴れると、腹の中に飼っていた期待が顔を出した。ゴッフレードも、それに呼応するように目を細める。
アルドの尻やら腰やらを不器用にまさぐっていた忙しない手がいよいよ襟元を開こうとボタンに到達したその時、扉が無遠慮に開かれた。
「おっと、すまん、邪魔したな」
声の主はジュリオ・サバディンだった。
もつれ合いながらその辺の部屋に入ったせいで、ここがどこでどういう場所で、自分たちがどんな存在なのかすっかり忘れたまま行為に及んでいた。そう、ここは聖マルタの家の最上階。二代続けて教皇の居室となったスイートルームの目と鼻の先である。
飄々としたサバディンの闖入にアルドもゴッフレードも乱れた格好のままきょとんと見上げてしまった。
サバディンは秘密基地を暴かれたような表情を浮かべるふたりの様子を見ると、眉毛をひょいと上げて交互に指差し、尋ねた。
「同意は?」
ある、という意味でふたりが無言で同時に頷くと、サバディンは満足したように肩をすくめた。まあ、それならいいけど、という心の声が聞こえるようだ。
そうだなジュリオ、君の物怖じしない性格は美徳だが、流石に驚きくらいは表現してほしい。今僕と乳繰り合っているのはあのテデスコだぞ!
アルドはそう叫びたかったが、サバディンの闖入さえなければゴッフレードの股間でも握ってやろうかと思っていたところだった。何より、大盛り上がりだった雰囲気が一気に萎んだお陰で口をぽかんと開けるのが精一杯である。
ゴッフレードにも何か計画があったらしく、頭を抱えるのに必死だ。無理もない。
「終わったら、呼んでくれ。聖下が心配されている」
いよいよふたり仲良く小さな悲鳴を上げなければならなくなった。ひ、と喉から漏れる引き攣った声には様々な言い訳が浮かぶ。
サバディンはそんなことなどお構いなしで、ふたりの悲鳴が耳に入るかどうかというタイミングで出て行った。冷静な男である。
あとには乱れた服もそのままに、一度芽生えた欲望を胸にして見つめ合うふたりが残された。
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