夜もすがら



春の夜。
十二時は疾うに過ぎて、草木も眠る時間というにはまだ少し早い。
夜の帰宅時は、暗いばかりの部屋に明かりが灯っていることが日常になり始めたこともあり、譲介は、家で待つ人にただいまの一言を言える幸せに、いつものように浮足立っていた。
ドアを開け、玄関のコート掛けに春のコートを掛けて、スマートフォンや鍵の一式をいつもの場所に置く。
「徹郎さん、ただいま帰りました。」
そう言ったリビングでは、しかし、冷ややかな空気が流れていた。ソファに座るTETSUが、手元にプリントアウトした論文を読むのに夢中になっていて、譲介の方を向かずにおかえりというのはいつものことだが、なんとなく『分かる』のだ。
案の定、「おかえり。」と間を置いて口にした彼の頬にキスをしようとすると、顔を逸らされる。
仕事には生真面目だが、私生活では気分屋な人だった。
今夜の彼の不機嫌、あるいは怒りは、何に由来するものだろうか。
今朝、人がいることが分かっている廊下でキスをしたせいだというなら、その時点で譲介に感情――あるいは鉄拳制裁かのどちらか――をぶつけていただろう。彼の怒りは持続するものもあるが、それは社会悪だの弱い者へと向かう理不尽な暴力といったものに対してであって、今朝のアレとは種類が違う。そもそも譲介とのことを誰かにからかわれたところでめげるような繊細な神経をした人ではない。
最低限、自分のせいかどうかさえ判別出来れば対処の仕様もあるけれど。ため息を吐いて、「コーヒー飲みますか。」と言うと、おう、と返事が返って来た。
この時間から、とは思うが、彼にしてみればまだ宵の口だろう。譲介は、コーヒーメーカーに残っていたコーヒーを捨てて、いつものフィルターと粉をセットした。上から水を注いで、さて、と考える。
世間一般では酒を飲ませて酩酊状態で白状させるという手が使える場合もあるけれど、そもそも彼も自分もほとんど飲酒はしない。だとしたら、どうやって本音を打ち明けて貰えばいいのだろう。
そんな風に考えあぐねていると、TETSUが手元の紙束をばさり、とソファ前のローテーブルに置いて顔を上げ「おい、譲介。おめぇ省吾と寝てたんだって?」と言った。
「……はい?」
譲介が驚いてTETSUに聞き返すと、当の本人は「噂だ、噂。」とうそぶくので、譲介は驚いてしまった。
不機嫌の理由を察しはしたが、そもそも噂に振り回されるなど、この人らしくない。
「あなた、それを信じたんですか?」と驚いて問い掛けながら、しかし譲介は、振り向くことが出来なかった。心が落ち着くまでの時間稼ぎに、コーヒーがサーバーに落ちる音を、雨音のように聴いている。お湯が落ち切ったところで振り向くと「……火のねぇところに煙は立たないって言うだろうが。」とTETSUはそっぽを向いている。
流星群の季節はまだ先ですよ、と言いたくなる口を閉じた。胸がくすぐったい。
カップにコーヒーを注ぎ、両手で持って彼の隣に座る。今すぐ抱きしめたいと思ったけれど、それはテーブルにカップを置いてからのことだ。
カップをテーブルに置くこつん、という音が響く。心の中を正直に話すにはうってつけの、静かな夜。
譲介は、ハグをしても、と彼に聞いて、ゆっくりと広げた腕の中に自分より大きな体を納める。彼の肩のあたりに顔を置いて、彼の匂いを吸いこむ。シャワーを浴びた後の、石鹸の匂い。
「あなたには正直に言いますけど、一時期、僕は確かに朝倉先生の家で寝てました。けど、朝倉先生とは寝てないですよ。」
「………嘘つけ。」
「嘘なんて吐きませんよ。」
あの日胸から抜いたナイフに誓ってもいいですよ、と譲介が笑みを浮かべると、TETSUは譲介の肩から顔を上げてこちらを見た。「実際、先生の家にある客間に、畳敷きの部屋を作って貰って、そこで寝てたんです。」
「は?」
「ちょっと情けない話ですが、僕がこっちに来て直ぐの冬に、ちょっと不眠症になりかけた時期があって。」
間髪入れずにTETSUが「んなことぁ聞いてねぇぞ。」と前のめりになったので、譲介は「話の腰を折らずに最後まで聞いてください。」と彼に告げる。
「きっとホームシックだろうと、朝倉先生が自宅に専用の畳部屋を作ってくれたんです。インターネットで日本語のニュースを流して、明るい部屋で布団を敷いて。炬燵まで。布団で、なぜかいつもより良く寝られたので、二週間ほど先生の家に通ってるうちに、不眠で下降気味だった体調はすっかり復調したので、そこまで来てやっとこっちのマンションに戻りました。またベッドで寝られるようになったはいいですけど、その代わり、朝倉先生の暮らしている場所の近くに住む人達に僕らが一緒にいるところを目撃されてしまって。暫く色々言われました。その時の噂だと思いますよ。あの頃から、今も、朝倉先生には、本当にどこまでもお世話になってるので、今でも頭が上がらないんです。」
ノンブレスで話す譲介の言い訳を聞いて、「……で?」とTETSUは言った。
せっかく淹れたばかりのコーヒーに、手を出すこともせずに。
譲介が、「それだけです。」というと、あのなあ、と呆れたような声を出したTETSUは頭を掻いた。
「じゃあ、何でおめぇはオレに手を出さねぇんだ、って話だ。」
「え?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔してんじゃねえぞ。
譲介が驚いている間に、TETSUは譲介の首を掴んでこちらを向かせて、唇を重ねた。
不意打ちのキスが終わって顔を離すと、彼の頬は妙に赤らんでいて。今夜、噂と分かっているだろう胡乱な話を信じたような顔をして話題にした理由に、譲介はやっと思い当たる。
うわ、と思った。譲介の顔は、今はTETSUの顔より赤くなっているに違いない。
一応はベッドで寝ているのだから、そこまで一方通行ということもないだろうとは思っていたけれど、この人に触りたいと思うのも好きだと思うのも、ずっと自分ばかりだと思っていた。
触れるだけのキスは再会してすぐに始まったけれど、その先に行かないのは、簡単に手を出すには彼が大事過ぎるからだ。彼の同意を取って、挿入を伴うセックスをするには手順がいる。挿入を伴う前の話にしても、彼のその日の体調と相談になる。そもそも、彼が譲介とのセックスを望んでいるのかも分からない。彼が健康で、隣にいてくれて、寝起きと食事を共にしてくれる、それだけで十分だと思っていたのだ。今日までは。
「え、あ、……いや、あの、手を出していいんですか?」
「良いも悪いもあるか。おめぇも医者なら覚悟を決めろ。」
譲介の臆病を詰るように、あるいは、察しの悪い相手を責めるように。もう病人じゃねぇ、とTETSUは言った。
「……ふ、」と譲介は笑ってしまった。
彼と出会った日、譲介は彼の前でナイフを抜いた。あの時の傷の他にも、手術の跡がある。譲介に彼のことを忘れられないようにしてしまったのはTETSUの方なのに。まさかこんな気持ちを、返してもらえるようになるなんて。
「責任、取ります。」と言って譲介は彼にキスをする。そうして、彼の気が変わらないうちに、とソファに押し倒した。
せっかく大きなベッドを買ったのに、と。そんなことを思いながら。


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