タイプ
ほかほかのご飯と、ほかほかのオムレツ。
「うーん、美味しかった。今日のオムレツも絶品でしたねえ。」と言うと、向かいに座ってさっきまで一緒に舌鼓を打っていたはずの草々兄さんが腕組みで難しい顔をしている。
「なあ若狭、落語の方はいつになったら芽ぇ出るかも分からんことやし、あいつ、今からでも遅ないから料理人戻ったらええんちゃうか?」
「草々兄さん、今更そんな身ぃも蓋もないことを……。本人が落語家になりたい、言うんやし、親御さんもちゃんと納得してはったやないですか。」
「そうやけどな……。なんや今朝台所に行ったら、あいつしか使い方分からんような調味料がやたら増えとるし、メシ作ってるときの方が、オレが落語の稽古みてる時より楽しそうなんやで!? 何が理由であいつが料理人になんのを諦めようと思ったのかオレにはよう分からんけど、なんやこれまであいつを教えて来た料理のセンセに申し訳ないような気ぃするねん。」
「どんだけ弟子が可愛いにしても……あの草々兄さんがそんな気の使い方を?」
「おい若狭……お前が言うな!」
「あれ、わたし今の……もしかして声に出てました?」と言うと、草々兄さんはプ、と吹き出してから笑顔で手を伸ばしてきて、私の頭を掻きまわした。
「でっかい独り言やなあ、おい。そういうのは外でやるなよ。」
「はーい。」
徒然亭草々の二番弟子は、なんとあれだけ器用な木曽山くんよりご飯作るのが上手な子ぉやった。
それもそのはず、元は調理師志望でうちに来る前までは専門学校に通ってた。しかも熱心に。調理師免許の試験中で何があったのか、試験には二回落ちた後、ふらっと家族と子どもの時に来て以来だった天狗座に十年ぶりに寄ったら、草々兄さんの「景清」が掛かっていたそうだ。
胸に切々と迫る「景清」の話。ロビーに行って、感想を伝えようとしたところにたまたま小草々くんがもぎりの手伝いに来ていて、話をしているうちに出身の学校のことを聞いた。びっくりしたことに、木曽山くんはなんと中学の先輩だった。
これはきっと、天啓というやつだと思いまして、と。
その子は、かつての四草兄さんのように堂々と草々兄さんが帰り支度をしている楽屋に乗り込んできて顔合わせを済ませた後で、下の弟子が欲しくなってきた木曽山くんの手引きで頻々と日暮亭の二階にやってくるようになった。
妙に熱意があって、おうちから何度も何度も美味しい差し入れを手にやってきて草々兄さんに談判しに来るようになった矢先、私たち皆ぁがその料理にすっかり懐柔されてしまったものだから、「これから落語家になんのに、料理の腕が関係あるかぁ!」と師匠ひとりが妙な具合に頑固になってしまった。
そのせいで、可哀想に、うちの二番弟子は入門をさんざん待たされる羽目になり、半年後になって漸く、おかみさんのオムライスを再現したような卵料理の数々に根負けした草々兄さんに弟子入りを許されたのだった。
まあ、私たちはそのおかげで、毎日のやりくりが厳しい中で、なんやかんやと美味しい料理を食べられているというわけ。
四草兄さんなんか、うちに来るたびに「オレの弟子にならんか。」と冗談で言ってるくらい。
日暮亭での仕事がある日はふたりで連れ立ってきて、昔のようにちゃぶ台でせせこましく三人で横並びになって、草若兄さんが「お前に弟子なんて百年早いわ! このオムレツくらい旨いオムレツが作れるようになったら言え。」と四草兄さんの頭を叩いて。隣の草々兄さんも、ええ年やのに「あいつはもう、うちの弟子や!」と一閃。今でも草若兄さんや年上の四草兄さんと肘突き合わせてて、この人たちの精神年齢、今どないなってんのやろというところだった。
わたしもついつい草々兄さんの受け売りで「落語の上手い下手には、オムレツの味とか関係ないですし。」と言ってしまったけど、そうすると今度は四草兄さんが「そんなら今度僕と卵料理の腕で勝負するか? フードプロセッサーは禁止するけどな。」って、私が師匠に入門した時のこと持ち出すさけ、もう、いたたまれなくて。
「兄さんらぁ、ほんまにいい加減にしてください!私はもう、おかみさんやねんで!」って入門したばかりの子らの前でいつもみたいに怒鳴ってしもた。うぅ…自己嫌悪…。
とはいえ、やっぱり賑やかなご飯はいつでも歓迎。
弟子の子ぉらだけやと、草々兄さんも師匠の顔しか見せてくれんし、なんやときどき寂しい気持ちになるねんもん。
「こないだの、兄さんらぁが来てくれた日、楽しかったですね。」
「まあなあ。」
「一人目の時のつわりも酷かったでぇ、こんな風に朝のご飯の時間が楽しみになる日が来るとは……。」
「お前はほんま、飯が旨いくらいでよう泣けるな。」
「しょうがないやないですか、これはもううれし涙やでぇ。……どんな口実でも、オムレツに釣られて来るのでも、また兄さんらぁ皆の顔が見られるようになったし、嬉しいことって続くものですね。ふかふかのオムレツ、草原兄さんや緑姉さんたちとも食べたいなぁ。」と口から本音がぽろりと出て来てしまった。
それぞれ仕事があるのはいいことやと。頭の中ではそないに物わかりのいいふりしてみるけど、気持ちの方では全然納得できてない。
皆で集う、というただそれだけのことが難しくなってしまうと……。
「兄さんらぁ、最近は新しい弟子取った言うても、木曽山くんの時みたいには来てくれはらんようになってしまって、ちょっと寂しいです。」
「そう言えば、前はよう来てくれてたなあ。あの頃は師匠もおらんようになって、線香あげに来てるついでもあったんやろうけどな。……あいつの名前付けるときにも、また立ち会ってもらおな。」
「はい。」
そしたら、そろそろ片付けよ。今日みたいに、みんな朝席の手伝いに行ってしまった日は、内弟子修行中みたいに仕事がたくさんある。
「………兄さんらぁ、今日は今ごろ、何しとるんやろ。」
「草原兄さんは、今日はカルチャーセンターの日やないか?」と草々兄さんは思い出したように言った。
「いつもの講座、水曜日やなかったでしたっけ。」
「そら去年の話や。今年はコマが増えて木曜の夜もあるねんて。教える時間帯が違うのに曜日だけ変わってしもたら、電車賃ばっかりかさむ、て言ってたけど、緑姉さんも嬉しそうにしてたな。」と草々兄さんは思い出している。
「それは良いことですやな!」
「そうやな。」
「草若兄さんは、小浜のいつもの独演会終わったとこでしたよね。しばらく仕事ないのかなあ。四草兄さんは、今日は分からんけど、明日が日暮亭の昼席ですし、明日会えたらええなあ。」
「そんなに四草と話したいんなら、下のやつの面倒見させんのは小草々に任せて、お前もたまには昼席のもぎりの手伝いに出たったらどうや? 夜ばっかりやとお客さん固定されてしまうやろ。」
「そうですねえ。流石に仕事の前では、いつもみたいな賭けも、ようしならんでしょうし。」
「あいつ、いい年して、まだきつねうどんとか言うてんのか。」
「そうですねえ。最近、きつねうどんに飽きてる日ぃは、かき揚げうどん、て言うてるらしいですけど。」
「懲りんやっちゃなあ。」
あのふたり、今夜はどないしてるんやろ。
「次はもっと可愛くて芯がしっかりしてて落語が好きで、まあオレより落語の方が好きでもええわ…そういう子ぉが、オレのこと好きになってくれんかな…。オレはなあ、四草、もうフラれたないんや……。」
ぐずる兄弟子の頭をぽんぽんと叩くと、そういうのは美人のおネエちゃんにしたれ、と叩き返されてしまった。
「……草若兄さん、酒飲み過ぎです。」
小浜から戻って来るなり、付き合え、と言って一升瓶を二本持ち込んだ兄弟子は、一本目の半分を開けたところで僕の膝を枕にしてぼやきだした。
若狭のかつてのライバルであった女とは、この人は、寝たことも手をつないだこともないと言っていたが、あれから進展があったのだろうか。
寝床や食事の代わりにどんな相手とでもその日に寝て来た僕からすれば、付き合ってたのか付き合ってないのかは相手の方では微妙なラインだろうと見ていたが、とうとう確実な言葉を貰ってしまったらしい。
フラれた、と御堂筋線に飛び込んでしまいそうな顔つきで部屋にやって来た兄弟子を、外で飲んで来たらええやないですか、と突き放せないところが惚れた弱みというやつで。
僕の膝の上で唇を尖らせているところですら、多少は可愛く見える。
仕方がないから、胡坐をかいた膝が音を上げるまでの辛抱と思ってそのままにしている。
頭皮をマッサージするような要領でセットした髪に指を通すと、髪がもつれて、指先に引っかかった。
なにしてんねん、といつものような苦情は上がらず、膝の上の猫は、下手な毛づくろいに目を瞑って息を吐いた。
毛の質はおかみさんに似たようだという、白髪が混じるようになった髪は、前より細くなったような気がする。それにしても。
「若狭みたいな子ぉが、どっかにいてへんかな……。」というのには、呆れてしまった。
「フラれたないとか言っておいて、一番にフラれそうなタイプを候補に挙げてどうするんですか。」
「そらそうやけどぉ……。」
失恋の傷は次の恋で、て言うやんか、と梅田の界隈で働くOLのような口を利く。
「あんな女が、その辺に転がってるわけないです。そもそも草々兄さんの妹弟子になろうという女ですよ?」
師匠の落語に惚れたのはともかく、と言うと「お前ほんまにオヤジのこと好きやねんな。」と返って来る。
「まあ過去形ではないですね。聴いたことないですけど、うちの一門はみんなそうでしょう。」
師匠の落語が好きで、後先も考えずにこんな世界に飛び込んでくるヤツなんて、そんな馬鹿が自分のまだ先にいるとは思わなかった。
それも女だ。
余程の馬鹿か、あるいは根性がある人間のかと思えば、根性なしで直ぐに音を上げる。
それでも、現役の間はずっと、師匠の落語が好きだという情熱は、他の四人の誰にも負けへん、という顔をしていた。そういうところを、草々兄さんも気に入っていたのだろう。
自分と同じくらい師匠のことを好きな相手を選ぶ、というのは、僕には、一生分からない感情だと、そう思っていた。
「オヤジと違って、オレがモテないのは分かっとるけど。……しゃあないやん。」
これがもう一年も前のことなら『自分の人生茶化したところで、どうにもならへんことくらい、師匠の名を継ぐときに分かってたことでしょう、』の一言で背中でも叩いている場面だった。芸の上での先輩ではあるが、対外的にはただの同居人でもあり、今や失恋男の肩書までついている。
(どうせ、ふらふらとどこに行っても、僕のところに戻って来るくせに。)
期限付きの同居だと思っていたものが、いっかな解消される気配がない。
一緒に暮らしていくうちに生まれて来た情は、気が付けば、僕の心の中ですっかりと見覚えのある気持ちに変わってしまった。
相手の一挙一動で、腹を立てたり、嬉しくなったり。
師匠への気持ちが恋とか愛とか言われるようなものだったのかは、もう分からないけど。
「草若兄さんが好みのタイプにこだわっているうちは、失恋し続けると思いますけど。」
「タイプを変えたら、巧くいくと思うか?」
射貫くような視線で見上げる兄弟子に、「僕に聞かないで、自分で考えたらどうです。」と笑ってみる。
そういうのは自分の意思ではどうにもならない。
恋愛と言うより、もう性分の話に近い。
「賭けますか?」兄さんの次の恋とやらが上手く行くかどうか、と言うと、相手ははあ、と高い声を敢えて出したようだった。
「賭けにならへんて。……お前はどうせ、オレが失恋する方に賭けるんやろ?」
「そっちは、上手くいく方に賭けんのですか?」と僕が言うと、草若の名を継いだばかりの男は、ちょっと傷ついたような顔をした。
「……どうせうまく行くわけない。」と拗ねてそっぽを向く。
三代目草若の息子は、甘やかし方が分からない師匠と、出来の良すぎる二番弟子を見て来たせいで、すっかり筋金入りのペシミストになってしまった。
「賭けますか、きつねうどん?」
「おい、今オレが言った言葉、聞いてたか?」
「僕は、草若兄さんが失恋しない方に賭けます。」
「はぁ?」
「そもそも、失恋したかて、僕に言わへんならフラれたことにはならんのと違いますか?」
相手はその言葉に、小浜に置いて来たらしいプライドをやっと思い出したのか、ぐ、と言葉に詰まった。
僕はどうです、と言いたいのを堪えて、また髪に触れる。
そうすると、膝の上の猫も、また目を瞑った。
「……お前がこないして慰めてくれんの分かってて、言わずにおれるかい。」
「は?」と眉を上げる。
「次から金取りますよ。」
「鬼! 守銭奴! 弟のくせに冷たいやっちゃ!」と言って、兄弟子は僕の膝の上でまた唇を尖らせた。
そういうのが何度も効くと思ったら大間違いですよ、と言いたいような気はするが、何度も何度も効いているのでどうしようもない。
「今日のうちはただにしてあげてもいいですよ。」と言うと、ふ、と息を吐いた。
「お前にまた奢ってもらうのもええかもな。」
落ち着きを取り戻した低い声で小さく笑いながら、そんときは頼むで、と言って、四代目草若は、僕の膝の上でゆっくりと身体の力を抜いた。
寝るな、おい。
この鈍感。
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