自転車
「シノブ、アイス買ってきたで~、師匠おらんし、一緒に食べへん?」
稽古場でひとりでまんじゅうこわいをさらってると、おかみさんがスーパーの袋を持ってやってきた。
袋がいつものスーパーと違うところやな、と眉を上げたのに気づかれたのか、ああこれ、とおかみさんは笑った。
「ちょっと歩くけど、ここのアイス、水曜に千円買ったら割引にしてるから、いつものとこと二十円違うんやわ。」
二十円は大きい。
「遠いんですか?」
「そんな遠くもないんやけど、うち、いつもこの格好やから、自転車に乗れへんやろ? あそこやと、中に花屋も入ってるから便利やし、うちに自転車あれば、忍にもお使い頼めるんやけどな。このアイス、いっちゃん安いのに二色入ってるから好きなんよ。」
吉田邸はちょっと歩けば梅田の駅に出る場所にあって、近間にある商店街にも、まだまだ八百屋や肉屋、よろづやと言った古い佇まいの店がひしめき合っている。
犬も歩けば棒に当たるほどあるはずの『その辺のスーパー』が入って来るには地価が高すぎるし、それほど近くにもない。
つまり、いつものスーパーからまた歩くとなれば、遠いとこにあるに決まっている。
普段の僕は、この家での過ごし方と要領が徐々に分かって来た上で、家事を終わらせるには何より早さが肝心と、師匠の自宅兼稽古場から一番近いスーパーに駆け込んでいる。
予算は決まっている上に、レシートもおかみさんに渡すことになっている。初高座の日取りがいよいよ近づいている今は、金より時間が浮かせられた方がずっとありがたい。
時間に余裕がなければいけない場所にあるなら難しい。
「自転車、そういえばないんですね。」
母親が自転車には乗らない女やったので、実家には僕が子どもの頃に乗りたいと言って購入した子供用の自転車が一台あるきりやった。
それも、補助輪が取れた後はほとんど乗らなくなってゴミに捨ててしもた。
「草原の時に買ったのがあったんやけど、それをヒトシが時々使ってるって流れやったんよ。新しいの一台買えへんかな、て思ってたとこに、ハジメが入門して来て。草々と小草若になった途端に、オレが乗る、これはオレのや、て喧嘩するようになって、師匠が怒ってしもて。『そないな喧嘩の種になるような自転車なら、捨ててまえーー!』って。しゃあないから、結局自転車屋さんに引き取ってもらったんよ。今はもう、シノブしかおらへんから、中古のを一台、買うた方がええかもしれへんね。このスーパー、夏場はちょっと歩くのしんどい距離なんよ。あ、ほら、話してたら夕方になってまうわ。日が暮れて涼しいになったら草原も草々も来てしまうから、これはよ食べよ。シノブ、今日も頑張ったからご褒美がてら。」
「はい。」とおかみさんの呼びかけに頷いて、いつものように台所に行くのに立ち上がろうとすると、足がしびれて上手く立ち上がれない。
「すいません、先行ってちょっと待っとってください。」
「その足のしびれ、初高座までになんとかならへんのかなあ。親指に力入れたらなんとかならへん?」
「初めのうちはそれでもなんとかなるんですけど、落語するのに集中してたら忘れてしもて。」
まさか、実家で正座することがほとんどなかったことがここに来て仇になるとは思わなかった。
兄弟子二人に比べても僕の背が低いことはまあしょうがないとしても、膝の形が悪ぅなるから正座はせえへん、と言っていた母親への恨み言がまたひとつ増えた。
「仕草もあるし、椅子で稽古するわけにもいかへんのよね~。見台ある、言うても、基本的にいい年になって膝悪うした師匠方が使うもん、て見方する人のが多いし。まあ、若いからそのうちに慣れるわ。」
「だといいですけど。」と言いながら足を崩してしびれの取れるのを待った。こんな情けない姿は、あの兄弟子たちには絶対見られたくないと思うが、いるときの方がぼろを出さないように気を張っているのでこういうことになりづらいというのはあるのだった。
「自転車は、また次の時に師匠に行っておくわ。」
「おかみさん、月末で金ないんとちゃいますか? この間、いつもの店に出前断られてましたよね。」
「あそこの中華料理屋さんのツケなら、ちゃんと払って来たとこやわ。でも、頼み辛いことになってしもたから、別のとこ探した方がええかもね。あ、ほら、あの天狗座の横の中華料理屋とかどうやろ。こないだのエビチリ、美味しかったし。」と言われて、師匠の鞄持ちとして再訪した天狗座の横の店のことを思い出した。店員は皆中華料理のコックのような白い服を着て、厨房からも店の中でもかしましい中国語を話していた。商社勤めの間に強制的に勉強させられた中国語で歯が立つのかと思ったが、数字と日常会話くらいは聞き取れた。
「あそこの店、中国語しゃべれんとあかん感じしましたけど。」
「ちょっと遠いし、そうやね、また師匠の天狗座の出番の時に食べに行けばええか。ほら、シノブ、あんたはよ立ち上がらんと、アイス溶けてまうよ。」
「はい。」
天狗座にまた食べに行こう、というその約束は、二度叶えられた。
一方で、算段の平兵衛をやりたいとしつこくしていたせいもあって初高座が遅かった僕は、あの後すぐに内弟子修行が終わってしまい、その後の草若宅に自転車が買われることはなかった。
内弟子修行を終えてほどなくおかみさんの体調が悪化してしまったので、あの日の約束をおかみさんが覚えていたのか、師匠が聞いて断ったのかも分からず終いだ。
冷凍庫の扉を開けて中を見た兄弟子が「あれ。」という間抜けな声を出した。
「お前がこないしてアイス買うてくるやなんて、珍しいやないか。」
「半分はかき氷ですけどね。」
「そらそやけど。お前こんなんが好きなんか?」
おチビが自転車で友達と出掛けるいうから、コンビニの新しいの、お前と一緒に食べよと思って買って来たんやで、と兄弟子は言った。
「コンビニのアイスなんか相場より高いんやから、止めたらええて言うたばかりと違いますか?」
「コンビニだけの限定て言われたら、なんや食べたくなるんやて……あっちも商売巧いわ。」と言いながら、と買ってきたばかりのアイスを冷凍庫に仕舞って、奥にあったのを取り出してきた。
「スプーン、木の棒の掬いにくいんで、普通の持って来てください。」
「お前が立って準備したらどやねん。」
「足がしびれました。」
「……嘘つけ。」
笑いながら立ち上がって、二人分のスプーンを準備してふたりでちゃぶ台に座る。
「新作でなくてええんですか?」
「あっちは、おチビが帰って来たら一緒に食べるわ。」
「アイスは一日一個て決めた方がええですよ。」
「お前、うっさいなあ。」と草若兄さんは言って、蓋を開けた。
「これ、なんやまだあったんかいな。」
ピンクの色のかき氷の中を丸くくりぬいてバニラアイスが入っている。
宇治金時とか、かき氷しかないのとか、同じ種類で似たようなのがあるけれど、おかみさんはバニラアイスと半分のが好きだった。
「僕はこれが好きなんです。」と言うと「いっちゃん安いから好きなんやろ。おかんもこの手のヤツ、安いから、言うてよく買ってたわ。」と言って、兄弟子は笑いながら、真ん中の白いアイスを、銀色のスプーンで掬って口に入れた。
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