【原利土1819IF】頸と心9


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九 裏表



 思ったよりも黒は大雑把な男だった。
 慣れてくるにしたがって、その癖が見えてきた。大体において片付けない。家の修繕をするのはいいが、使った道具を出しっぱなしにしている。錆びた鋸が囲炉裏の傍に転がっている。欠けた鉈が戸口に立てかけたままになっている。藁束を作った後の藁屑が床に散らばっている。利吉が何度片付けても、気がつけばまた散らかっている。
「お前は片付けるということを知らんのか」
 利吉が言うと、黒は悪びれもせずに肩を竦めた。
「後でやろうと思っていた」
「前にもそう言って、もう三日経っているだろう」
「三日も経ったか。早いな」
 反省の色がまるでない。利吉は溜息をついて自分で片付けた。黒はそれを眺めながら、別の何かを始めている。集落から持ち帰った古い縄をほどいて編み直している。何を作っているのか聞くと、罠だと言う。鳥を捕る罠だそうだ。寺にいた頃に和尚から教わったらしい。
 黒はいつも何か新しいことを試していた。
 罠を作り、薬草を煎じ、木の実を潰して何やら怪しげな汁を作る。食べられるのかと聞くと、多分、と曖昧に答える。利吉は呆れた。多分とは何だ。だが黒は気にした風もなく、その汁を舐めて顔を顰め、駄目だと言って捨てた。翌日には別の木の実で同じことをしていた。
 好奇心が旺盛なのだろう。分からないことがあるとじっとしていられない性分のようだった。頭を動かしていないと落ち着かないのか、常に何かを見て回っている。探して何か珍しいものを見つけて試し、それで何かを失敗しても黒は気にしなかった。駄目なら次を試す。そういう男だった。
 ある夜のことだった。
 囲炉裏を囲んで碁を打っていた時、黒がふと顔を上げた。
「そういえば、お前の家の蔵書には何があったんだ?」
 利吉は碁石を持ったまま黒を見た。黒はあの何か珍しいものを見つけた時のようなまるい眼をしていた。
「……何故そんなことを聞く」
「孫子があっただろう。他にも色々あったんじゃないのか。お前は妙に物知りだからな」
 黒の目が光っていた。好奇心に満ちた子供のような目だ。利吉は少し面食らった。この男がこういう顔をするのは珍しくなくなっていたが、それでも毎回驚かされる。
「……色々あった」
 利吉は碁石を盤に置いた。
「孫子、呉子、六韜三略。兵法書が多かったが、それだけではない。本草書もあったし、天文書もあった。父は……読書家だった」
「本草書か。薬草の本だな」
「ああ。お前が煎じていた薬草の大半は、あの本で覚えた」
「なるほど、道理で詳しいわけだ」
 黒は感心したように頷いた。碁盤を忘れて身を乗り出してくる。
「他には何があった。珍しい本はあるか」
「珍しい本」
「私が読んだことのない本だ。寺にも色々あったが、所詮は山寺だ。仏典と農書と、あとは古い歌集くらいしかなかった」
 黒の声が弾んでいた。本の話をする時、この男は少し幼くなる。利吉はそれに気づいていた。寺で学び書物に親しんだと言っていた。その頃の名残だろう。書物への渇望が、この男の中にはまだ残っている。
「……詩経があった」
 利吉は言った。
「詩経」
「明の古い詩集だ。父が若い頃に手に入れたらしい。写本だが、かなり古い」
「読んだのか」
「少しだけ。難しくて途中で投げ出した」
「勿体ない」
 黒が本気で悔しそうな顔をした。利吉は少し笑った。
「そんなに読みたいのか」
「読みたい。詩経など見たこともない」
「他にも色々ある。春秋左氏伝とか、史記の抜粋とか」
「史記」
 黒の目が輝いた。本当に子供のような目だった。星を見つけた子供のような目。利吉はその目を見ていられなくなって視線を逸らした。
「……いつか、うちに来るか」
 言ってしまってから、利吉は自分の言葉に驚いた。何を言っている。何を口走っている。
 うち──氷ノ山の奥にある、あの家。父と母が暮らしている家。利吉は家を出て以来、ほとんど帰っていない。時折文を書く程度で顔を見せることも稀だった。帰れば父の顔を見なければならない。あの春の日に傷を負った父の顔を。自分のせいで教壇を降りた父の顔を。それが怖くて、避けていた。
 なのに今、その家に黒を招くようなことを言った。
 黒は少し戸惑った様子だった。利吉の顔を見ている。何かを測るような目だった。だがすぐにその目が和らいだ。
「……そうだな。いつか、行きたい」
 そう言った。
 でも──きっと叶わない。
 利吉も分かっていた。黒は抜け忍だ。追われる身だ。利吉の実家に連れて行くなどできるはずがない。そもそもこの奇妙な共同生活がいつまで続くかも分からない。明日終わるかもしれない。明後日には別れているかもしれない。いつかなど来ない──そう考えるのが当たり前だ。
 それでも、黒がそう言ってくれたことが利吉は嬉しかった。
 利吉は自分の感情に戸惑った。嬉しい。この男に実家の話をして、この男がそこに行きたいと言ってくれて、それが嬉しい。利吉は碁盤に目を戻した。黒も同じようにした。何事もなかったかのように二人は碁を再開したけれど、利吉の胸の中には温かいものが残っていた。じわりと広がる、名前のつけられない温もりが。



 その夜、眠りにつく前に利吉は考えていた。
 黒と話していると、張り詰めていた気持ちが楽になる。
 いつからだろう。最初は警戒していた。この男の言葉には裏があると疑っていた。今でも完全に信じているわけではないし、実際今だって裏はあるのだろう。けれども話をしていると肩の力が抜ける。笑うことが増えた。冗談を言うことが増えた。そういう自分に利吉は気づいていた。
 黒は家族を皆殺しにされたのだと言った。
 家を焼かれ、父を殺され、母を殺され、一人で逃げたのだと。夢は嘘をつかない。だからそれは本当なのだろう。それでもこの男は生きている。野良犬のようにたくましく、したたかに泥臭く生きている。過去に押し潰されず、新しいことを試し、好奇心を失わずに生きている。
 自分はどうだろうと、利吉は己を顧みる。
 あの春の日からずっと、利吉は自分を責め続けてきた。父を傷つけた。父の夢を奪った。その罪を背負って、完璧であろうとしてきた。感情を殺し迷いを断ち、隙のない忍であろうとしてきた。そうすることでしか自分を許せなかった。
 だが黒を見ていると思う。少し肩の力を抜いてもいいのだろうか。完璧でなくてもいいのだろうかと。
 まだ自分のことは許せない。あの日のことを忘れることはできない。それでも少しだけ、息がしやすくなった気がした。
 黒の寝息が聞こえていた。
 利吉は目を閉じた。今夜も穏やかに眠れそうだった。


***


 廃屋は次第に整っていった。
 腐った床板は敷き直され、囲炉裏のある部屋の床はすっかり綺麗になった。壁の隙間は土と藁で塞がれ、夜になっても風が吹き込まなくなった。屋根の修補も終わり、雨が降っても雫が落ちてくることはなくなった。最初に足を踏み入れた時のあばら屋とは見違えるほどだった。
 だからといって黒が離れて寝るわけではなかった。床が広くなっても、黒は相変わらず利吉の傍で眠った。二歩の距離。それは最初の夜に縮まった距離のままだった。利吉はそれを咎めなかった。黒が傍にいると眠りが深くなる。それは黒も同じだろう。気を抜きすぎてはいけないことは分かっていたが、眠ろうとして眠れないよりは随分とましだった。互いに傍にいることで互いの眠りが穏やかになる。そういう関係がいつの間にか出来上がっていた。
 ある夜のことだった。
 利吉は囲炉裏の傍で横になりながら、ふと傍らの黒を見た。黒は既に眠っている。月明かりが薄く差し込み、その寝顔を照らしている。穏やかな顔だった。最初の頃のような張り詰めた気配はない。安心して眠っている。
 そこで利吉は気づいた。
 黒の服が薄汚れている。
 よく見れば、かなり汚れていた。元は黒い装束だったはずだが、今では埃と泥で灰色に近くなっている。襟元には汗の染みがあり、袖には何かの汁が跳ねた跡がある。恐らく薬草を煎じた時のものだろう。裾は擦り切れ、あちこちに綻びがある。修繕や散策で泥だらけになることも多いのに、そういえば黒が服を洗っているところを見たことがない。
 利吉は自分の服を見た。
 利吉は狩りをする。獣は人の匂いに敏感だ。汗や垢の匂いがすれば逃げてしまう。だから利吉は常に気を遣っていた。定期的に沢で身体を洗い、服も洗った。冷たい水に手を浸しながら、泥と汗を落とした。そうしなければ獲物が獲れない。生きるために必要なことだった。
 だが黒は狩りをしない。
 狩りをしないから、人臭くなっても困らない。だから洗濯の頻度が低いのだろうと利吉は思っていた。実際、黒が汚れていても利吉の狩りには影響しない。黒は家にいるのだから。
 それにしたって少々埃っぽい。
 利吉は眉を寄せた。よく見れば髪にも藁屑がついている。顔にも薄く泥がついている。普段は気にならなかったが、こうして間近で見ると気になった。いい加減洗うべきだろうと思った。
 明日、言おう。
 利吉はそう決めて目を閉じた。黒の寝息を聞きながら、眠りに落ちていった。



 翌朝、利吉は黒に言った。
「お前、いい加減服を洗え」
 黒は粥を啜る手を止めて利吉を見た。きょとんとした顔だった。
「服」
「見ろ、泥だらけだ。埃だらけだ。いつから洗っていない」
 黒は自分の袖を見た。確かに汚れている。それを認めたのか、黒は少し首を傾げた。
「……いつだったか」
「覚えていないのか」
「洗ったような気もするし、洗っていないような気もする」
 利吉は呆れた。この男は本当に大雑把だ。
「今日、沢で洗え。身体もだ」
「寒いだろう」
「我慢しろ」
「お前は厳しいな」
 黒がぼやいた。だが本気で嫌がっている風ではなかった。粥を食べ終えると、黒は渋々立ち上がった。
「分かった。洗いに行こう」
「着替えはあるのか」
 黒は首を振った。当然だ。この男は逃げてきた時の装束しか持っていない。利吉は自分の荷を漁った。薄物一枚だが、予備の着物がある。
「これを使え。洗っている間はこれを着ていろ」
 黒は着物を受け取った。少し驚いた顔をしていた。
「……いいのか」
「いいから行け。日が高いうちに戻れ」
 黒は何か言いかけて、やめた。着物を抱えて戸口に向かう。その背中を利吉は見送った。
 戸が閉まった後、利吉は自分の行動を振り返った。何をしている。捕虜に自分の着物を貸している。洗濯を命じている。まるで世話を焼いているようだ。まるで──。
 利吉は頭を振った。否、これは衛生の問題だ。同じ屋根の下で暮らすのだから、清潔にしていてもらわないと困る。それだけのことだ。それ以上の意味はない。
 そう言い聞かせても、胸の奥がざわついていた。



 黒は野良の着物を抱えて家を出た。
 どこで洗うかは少し迷った。集落の井戸まで行くか、近くの沢に行くか。井戸の方が水を汲むのは楽だが、あの集落は何度も行き来しているので見慣れてしまった。同じ景色ばかり見ていても面白くない。気分転換に沢の方へ行くことにした。
 山道を歩きながら、黒は野良のことを考えていた。
 それにしたって野良は細かい男だ。服が汚れているだの埃っぽいだの、そんなことをいちいち気にしてどうする。忍務があるわけでもない。狩りに行くわけでもない。獣に匂いを嗅ぎつけられる心配もない。少しくらい衣服を洗わなくても死にはしないだろうと黒は思う。
 黒は自分の袖を見た。確かに汚れている。泥と埃と汗の染み。言われてみれば相当なものだ。だが黒はそれを気にしたことがなかった。汚れていても動ける。破れていなければ着られる。それでいいではないか。
 そもそも野良が替えの衣を持っていること自体に黒は驚いていた。
 忍の服など裏表で柄が違えばそれで着替えた気になるものだ。黒が着ている装束も裏返せば別の色になる。潜入先で怪しまれた時に、さっと裏返して別人を装う。替えの服など荷物になるだけで、余計なものは持たない方がいい。身軽さが命を繋ぐ。それが黒の信条だった。
 だから黒は替えの衣を持たない。持たないから洗うとその間は着替えがない。裸で待つか、濡れたまま着るか。どちらも嫌だ。だから滅多なことでは洗わない。単純な理由だった。汚れても気にしない。臭くなっても気にしない。どうせ忍の仕事は汚れるものだ。血も泥も汗も、全部纏って生きてきた。
 だが野良は違うらしい。
 替えの衣を持ち歩いている。しかもそれを黒に貸した。洗っている間はこれを着ていろと。まるで世話を焼くように。まるで気にかけているように。
 黒は腕の中の着物を見下ろした。
 野良の着物だ。野良が着ていたものではなく、荷の中にあった予備のものだろう。それを今持たされて、黒が抱えている。
 黒はふと可笑しくなった。
 まるで嫁入り道具だ。
 妙なことを考えた。嫁入りの時には女親が衣装を持たせるという話を聞いた。嫁ぐ時には娘は衣を持たせてもらうものだ。新しい家で着る衣を。新しい暮らしのための衣を。寺でも服を渡された。忍者隊でも支給された。黒にとって新しい服は新しい場所の象徴だった。
 嫁入り道具なら、自分が嫁で野良が婿か。いや逆か。どちらにせよ馬鹿馬鹿しい。黒は一人で笑った。笑いながら沢へ向かって歩き続けた。

 沢に着くと、黒は岩の上に野良の着物を置いた。まず自分の装束を脱ぐ。肌に触れる空気が冷たい。秋も深まっている。水はもっと冷たいだろう。
 沢に足を踏み入れると、思った通り冷たかった。歯を食いしばって水の中に入っていく。膝まで浸かり、腰まで浸かった。全身が痺れるような冷たさだった。忍務でもあるまいに、野良の奴はよくこんな水で身体を洗えるものだ。
 黒は手早く身体を洗った。泥を落とし、汗を流し、髪についた藁屑を取り除いた。水から上がると身体が震えた。岩の上で野良の着物を羽織った。まだ冷たい身体に、乾いた布が心地よかった。
 次は装束だ。
 黒は自分の黒装束を水に浸した。揉み洗いをする。泥が溶け出して水が濁った。こんなに汚れていたのか。黒は少し驚いた。言われなければ気づかなかった。野良に言われなければ、まだ当分このまま着ていただろう。
 洗いながら、黒は考えた。
 野良のことを。この奇妙な暮らしのことを。そして自分のことを。
 ──いつまでこうしているのだろう。
 脚はもう完全に治った。走れる。戦える。逃げようと思えばいつでも逃げられる。なのに逃げていない。野良の傍にいる。野良の着物を借りて、野良から世話を焼かれて、野良と碁を打って、野良の傍で眠っている。
 使えるからだと、黒は自分に言い聞かせた。野良を利用している。野良の感情に付け込んでいる。生き延びるために。それだけだ。それ以上の意味はない。いつもそうやって自分に言い聞かせなければならない程度には野良のことを憎からず思っていることに、黒ももう気がついていた。



 日が傾き始めた頃、黒が戻ってきた。
 戸が開く音がして、利吉は顔を上げた。そして息を呑んだ。
 黒が自分の着物を着ている。
 自分で貸しておいて、妙な気分になった。黒自身の装束は黒一色だ。闇と同じ深い漆黒。それが今は違う。利吉の着物は濃草色で、地味な色だが黒装束とは印象が違う。それを着ているだけで、黒の顔が少し柔らかく見える。
 利吉の方が上背がある分、黒には着物が少し大きいようだった。袖が余っている。裾も長い。だぶついた布が黒の身体を包んでいる。髪はまだ湿っていて、水滴が襟に染みを作っている。頬が冷えて赤くなっている。沢の水は冷たかっただろう。それでも黒はちゃんと身体を洗ってきたらしい。
 利吉は視線を逸らした。何を見ている。何を考えている。自分の着物を着た黒を見て、何故こんなに胸が騒ぐのだ。
 黒は利吉の様子に気づいたようだった。戸口で一瞬足を止め、利吉を見た。何かを測るような目だった。だがすぐにその目が細くなった。面白いものを見つけた時の目だ。利吉はその目を知っていた。碁で優勢になった時に黒が浮かべる目だ。
 黒は洗った装束を土間に干した。絞ってはあるが、まだ水が滴っている。乾くまでには時間がかかるだろう。明日の朝までは無理かもしれない。つまり今夜は黒はこの着物を着たままだ。
 利吉は囲炉裏に目を戻した。火の番をしているふりをした。だが視界の端では黒の動きを追っていた。黒が土間から上がり、囲炉裏の方へ歩いてくる。いつもの位置に座るのかと思ったが、黒はそこで止まらなかった。
 黒は更に近づき、利吉の隣に腰を下ろした。肩と肩が触れそうな距離。薄く体温が伝わる距離。二歩よりも遥かに近い。一歩すらない距離だ。利吉は身体を強張らせた。
「……一体何だ」
 声が硬くなった。黒は平然とした顔で囲炉裏の火を見ている。
「洗ったから寒いんだ」
「囲炉裏があるだろう」
「ここの方が温かい」
 黒は利吉の方を向いた。近い。顔が近い。黒の目が利吉を見ている。まだ冷えた頬が赤い。湿った髪から水の匂いがする。
「……可愛げがあるだろう?」
 黒はからかうように言った。口元が笑っている。いつもの軽口だ。いつもの悪戯だ。利吉をからかって反応を楽しむ、いつもの黒だ。
 だが利吉は笑わなかった。
 笑えなかったのだ。黒の顔を見つめたまま、何も言えなかった。言葉が出てこなかった。胸が詰まっていた。心臓が煩かった。そんな利吉の反応を見て、黒の表情が変わった。からかいの色が消え、代わりに戸惑いのようなものが浮かんだ。
 それはほんの一瞬のことだった。けれど利吉は見てしまった。黒も確かに動揺したのを。
 黒は視線を逸らし、囲炉裏の火に目を向けた。さっきまでの軽さが消えている。肩を竦めて、少しだけ身体を丸めている。おとなしくなっている。
 沈黙が落ちた。
 火が燃えている。薪が爆ぜる音がする。外では風が鳴っている。二人は並んで座ったまま、黙って火を見つめていた。
 すぐ隣から、黒の体温が伝わってくる。肩と肩の間には僅かな隙間があるだけだ。少し動けば触れてしまう。触れそうで触れない距離。その距離が妙に落ち着かなかった。
 利吉は何か言おうとした。何を言えばいい。からかい返せばいいのか。笑い飛ばせばいいのか。だが言葉が見つからない。黒も何も言わなかった。いつもなら追い討ちをかけてくる。利吉が黙れば更にからかってくる。なのに今は黙って火を見つめている。時折利吉の方を窺うような視線を向けて、すぐに逸らしている。
『可愛げがあるだろう』
 その言葉が利吉の頭の中で反響していた。可愛げ──この男が可愛い訳がない。からかいだ。冗談だ。分かっている。なのにその言葉が胸に刺さったまま抜けない。
 黒は可愛くない。
 利吉は思った。この男は可愛くなどない。大雑把で、口が悪くて、片付けをしなくて、人をからかって楽しむ男だ。可愛いなどという言葉は似合わない。
 なのに利吉の着物を着て、冷えた頬を赤くして、寒いから近くにいると言ったこの男のことが──。
 利吉は頭を振った。
 考えるな。この感情に、名前をつけるな。
 そう言い聞かせても心臓の音は収まらなかった。

 沈黙が続いた。
 囲炉裏の火が燃えている。薪が時折爆ぜて、火の粉が舞い上がる。外では風が木々を揺らしている。その音だけが二人の間を満たしていた。
 黒は幾度も野良を見た。
 横目で窺うように。何かを確かめるように。野良は火を見つめている。その横顔を黒は見ている。火に照らされた輪郭。強張った肩。握りしめた拳。何かを堪えている顔だ。何かと戦っている顔だ。
 黒は視線を火に戻した。また野良を見た。その繰り返しだった。
 聞きたいことがあった。
 聞かなければならないことがあった。いつまでもこうしているわけにはいかない。この奇妙な共同生活がいつまで続くのか、黒は知る必要があった。知った上で次の手を考えなければならなかった。
 だが聞くのが怖かった。
 答えを聞くのが怖かった。自分でも驚くほどに、その問いを口にするのを躊躇っていた。
 長い沈黙の末に、黒はぽつりと言った。
「……野良」
 野良が顔を上げ、黒を見た。黒は火を見つめたまま続ける。
「どうするんだ。これから」
 野良は答えなかった。黒は言葉を継いだ。
「雇い主に報告をしなければならんだろう。フリーの忍は信用が第一だ」
 それは、いつ自分を手放すのかという問いだった。いつ引き渡すつもりなのかという問いだった。捕虜としての自分の処遇を問う、気になって当然の問いだった。

 利吉は思った。黒は分かっていて聞いている。利吉にもう、とっくにそんな気がなくなっていることを。
 引き渡す機会があったのに引き渡さなかったことを。味方の斥候から隠したことを。山火事の後、迂回すれば合流できたはずなのに、この廃屋に留まったことを。
 全部分かっている。分かっていて聞いている。
 利吉は深く溜息を吐いた。
 長い溜息だった。胸の奥から絞り出すような、重い息だった。囲炉裏の炎がその息に揺れた。
「……分かっているだろう」
 利吉の声は低かった。諦めたような声だった。認めたような声だった。
「困っているんだ」
 その一言に、全てが込められていた。
 引き渡さなければならない。報告しなければならない。それが忍としての務めだ。フリーの忍として積み上げてきた信用だ。それを崩すわけにはいかない。崩せば全てを失う。これまでの自分を否定することになる。
 それなのに、できない。
 この男を手放すことができない。引き渡すことができない。誰かに渡すことができない。処分させることができない。分かっている。分かっていて、どうすればいいのかが分からない。
 困っている。
 その言葉が、利吉の全てだった。
 黒は利吉を見た。火に照らされた横顔。眉間に皺が寄っている。唇が引き結ばれている。苦しそうな顔だ。自分のせいで苦しんでいる顔だ。
 黒は思わず身体を傾けた。
 考えるより先に身体が動いていた。ほんの少し身体を動かせばいいだけの所作だが、心臓がうるさいくらい鳴っていた。利吉の肩に頭を凭れさせた。濡れた髪が利吉の着物に触れた。冷たい水滴が染みになるだろう。構うものかと思った。
 利吉の身体が強張る。けれども彼は振り払わなかった。黒を押しのけずに、じっと息を詰めている。
 黒は利吉の肩に頭を預けたまま、囲炉裏の火を見つめた。
「……私も」
 声が掠れた。
「困ってるんだ」
 利吉は何も言わなかった。

 二人は並んで座ったまま、黙って火を見つめていた。黒の頭が利吉の肩にある。利吉の体温が黒に伝わる。黒の冷えた髪が利吉の着物を濡らして、けれども二人ともそんなことは意識に上らなかった。
 困っている。
 二人とも困っている。
 どうすればいいのか分からない。どこへ行けばいいのか分からない。この先何が待っているのか分からない。分からないまま、ここにいる。分からないまま、隣にいる。
 火が燃えている。薪が爆ぜる。風が鳴る。
 利吉が小さく深い息を吐いた。長い長い逡巡の末に、何かを諦めたような息だった。






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