【公開用】11月の進捗用
■10/23(金)
木曜日から楽しみにしていた土曜日がついに来て、朝、家を出るときに流川は帰りが遅くなると母親に伝えた。母親は、サンルームで洗濯物を干していた。
「藤沢でお買い物してくるの? お夕飯は?」
「わかんねー。なくてもいーけど、あったら食べる。……帰り、どあほうん家行ってくる」
成長期で運動部所属の息子らしい返答に母親は苦笑していたが、行き先を聞いた途端に、つかんだばかりのタオルを落とした。
「どあほうって桜木くんのことよね? 退院したって言ってたけど、もう部活出てるの!? 楓、桜木くん家に行くくらい仲よくなってたの!?」
急に慌て始めた母親に、流川はうなずくだけで済ませる。桜木の退院については話した記憶があるが、いちいち細かく話してなどいない。むしろ、母親が桜木の名前をおぼえていたのが意外だった。
ちょっと待ってて、と流川を引き止めた母親は洗濯物を放り出してサンルームを出ていき、流川は仕方なく玄関でスニーカーを履きながら待っていた。
「これ、まだ開けてないから桜木くんと食べて。親御さんにちゃんとご挨拶するのよ」
差し出されたのは、くっきり明るい黄色の白い鳩でおなじみの鳩サブレーの箱だった。家族全員が好きなので、たまに買ってくる。流川はこの鳩サブレーが嫌いな鎌倉・藤沢市民はいないと思っている。当然桜木も好きに違いなかった。
「ん。持ってく」
鳩サブレーが割れていると桜木が怒るかもしれないと、丁寧にスポーツバッグの上のほうへ入れた。登校途中に少々居眠りをして鳩を危険にさらしそうになったが、自分も自転車も鳩も無事に湘北高校に着いた。
ジャージで登校したので部室で練習着に着替えて体育館へ向かうと、流川以外は全員そろっていた。めいめいにストレッチなどをしていたが、集合がかかって、宮城の前へ座らされる。ホワイトボードも用意されていた。ウィンターカップの県内予選は夏のインターハイ予選で上位だった高校に出場権がある。ホワイトボードには、トーナメント表も書かれていた。
「えー、みんなも知ってのとおり、来週末はついに陵南との試合だ。陵南の三年は引退して、新キャプテンは仙道。二年の福田も残ってるからけっこうキツい。点の取りあいになると思う」
宮城の説明に、全員が聞き入る。知っていたはずの事実でもあらためて聞かされると、怖ろしいほどだ。夏の予選では、仙道と福田がそれぞれ二十得点以上をあげていた。
「こっちは三井サンが残ってるけど、正直なとこ、ダンナが抜けた穴はデカい。点を取られないのはすげー大事だけど、点を取る方向に振らないと取り負ける。厳しい試合になるだろうけど、覚悟しといてくれ」
「任せろ、推薦がかかってるからな」
あとのない三井が真剣そのものの顔で言った言葉に、宮城は一瞬、目を大きく瞠ったあと、片頬で笑った。
「あんたと流川には、倒れるまでがんばってもらうつもりっすよ。それで、安西先生とも相談したけど、花道は今回の試合ではベンチに回ってもらおうと思ってる」
途端に、桜木が気色ばんで、床へついた手を握りしめた。
「なんでだよリョーちん! もう試合にも出られるって――」
「ダーメだ」
さとすように静かに宮城が却下した。桜木は身を乗り出し、今にも立ちあがりそうだ。
「リバウンド王桜木しかいねーだろ! オレがやる、オレがゴリの代わりをやればいーだろ! 試合に出せよ、この天才がいなきゃダメだろ、」
「花道!」
宮城の叱声に、桜木がびくりと肩を震わせた。宮城の視線に圧倒されるように、浮かせかけた腰をじわじわと下ろしていく。桜木が脱力してぺたんと座りこむと、宮城は一度、桜木から視線を外した。長く息を吐いて、自らもクールダウンしたあと、桜木に向き直る。
「あのな、おまえだって昨日でわかってんだろ。身体がアタマに追いついてないって。今焦ったら、感覚取り戻す前に変なクセついて、ここまでの努力がムダになっちまうぞ。それに、バスケはチーム戦だ。おまえが今戻っても他の奴らと連携取れねーだろ」
すがる目で宮城を仰いでいた桜木が、力なくうつむいていく。桜木の隣にいた三井が、桜木の肩を抱いた。
「桜木、焦ってもどうにもならねえんだ。医者がいいって言ったって、おまえがいきなり全力でいったら身体がやられちまう。おまえには夏があるだろ。来年にはオレもいねえんだ。おまえがそこまでに万全にならなくてどうすんだよ。こいつらとインハイのコートに立ちたくねえのか?」
「ミッチー……」
三井が桜木の頭をぐしゃぐしゃと撫で回し、桜木がおとなしく受け入れているのを、流川は焦げるような痛みを抱えて凝視した。
「いいか、おまえら、試合に出たらインハイ後の練習の成果を試すのと、インハイに備えて弱いところを確認するくらいの気持ちでいけ」
部に残った唯一の三年生である三井が一同を見回して発破をかけると、ハイッと一年生二年生の返事がそろった。流川も、ウス、と小さく応じたものの、口内は苦さでいっぱいだった。三井になぐさめられた桜木は、三井と宮城に親しみなんて言葉では足りない眼差しを向けている。まただ。リバウンド王だなんて言って、天才だなんて言っているくせに必死で、自分で背負おうとしている。そのクセして落ちこんでいる。
流川は桜木に頼ってほしかった。桜木をなぐさめる役目だって、ほしかった。桜木の友人たちが持っていて流川が持っていないものだ。信頼が足りないせいで、桜木は自分のところへ来ないで宮城や三井になついている。
桜木から信頼を得るには、桜木がなついている宮城からアドバイスをもらったとおりに、やさしくするのが近道なのだろう。桜木も、告白してきた相手にやさしくしろと言っていたわけだし。それはもうやったので、次は、何をしたらやさしいということになるのかがわからなかった。
宮城の説教と三井の励ましが効いたのか、試合のスターティングメンバーが発表されても桜木は騒がなかった。ただし、昨日ほどの活力は感じられなかった。動けてはいけるけれど、思ったとおりに動かせない身体が歯がゆそうで、ボールを壁に投げつけていた。はね返ったボールは流川のほうへ飛んできて、流川は顔の横へ右手を掲げて受け止めた。苛立ちを隠さず振り向いた桜木に、ボールを投げ返す。
「どあほう、そんなことするくれーならリングに入れてみせろよ」
身体がついていかないなら、今の自分の状態と比較するためにも、実際に身体を動かして差を把握するしかない。
だというのに、桜木は流川に舌を出し、ボールを抱えたままドスドスと足を踏み鳴らして行ってしまった。
「…………」
流川に背を向けて、桜木はジャンプシュートを始めた。桜木以外の部員たちが静岡の常誠高校との練習合宿から帰ってきたら桜木が猛練習で会得していたジャンプシュート、山王との試合でブザービーターを決めたシュートだ。桜木にとってはもっともなじみ深いシュートだろうに、一本目から外した。外して当たり前だった。イラついて打っていて、下半身がおろそかになっている。
口出ししてやりたかったが、流川は唇を引き結んだ。桜木はきっともっと意固地になる。今日の部活後、桜木の家に行く話は、もしかしたら、ナシにされてしまうかも知れなかった。バッグの中の鳩サブレーを思い出して、流川は目を伏せた。
「先輩、ワンオン」
ボールを持って三井に1on1をせがみに行く。さっきまで一年生たちにスリーポイントシュートを教えていた三井は壁にもたれかかって休憩中だったが、応じてくれた。
流川の先攻で三井のディフェンスをかいくぐりながら放ったシュートは入らなかった。リリースが遅くて、三井にはじかれてしまった。転がっていったボールを追いかけ、流川は桜木をちらりと見やる。彩子が桜木の脇に立って、悪いところを逐一指摘していた。桜木は言い返しながらも彩子の言うとおりに改善して、先ほどよりフォームがマシになっていた。
やっぱり、桜木をなぐさめる役目は流川にはできないようだった。
ヘトヘトに疲れて何も考えられなくして帰ろうと、流川は、三井が疲れきって無理やり宮城に交代させるまでつきあわせた。すでに疲労のたまってきていた足は宮城のスピードとクイックネスに翻弄されて、希望どおりに疲れきったのだった。
今日は誰も居残り練習しないとのことで、部活終わりのモップがけと片づけは一年生全員で行った。部室に戻って着替えたはいいが、自転車を漕げる気がしなくて、流川はソファに腰を落とした。
「休んでから帰る。カギ、返しとくから」
流川は顔を上向けて、濡らしてしぼったタオルを目に当てていた。桜木が帰ってしまうのを見たくなかった。
「そう? じゃあ、カギよろしく」
桑田たちがロッカーを閉め、部室から出ていくらしき物音がする。
「そのまま寝ないようにね」
石井の心配げな声に、今にも意識が薄れそうだと思ったが、聞こえてきたもうひとりの声で目がバチリと開いた。
「貧弱キツネが週明けにミイラになってたら困るからな。この天才が見張っておいてやろう」
「頼んだよ、桜木」
タオルの下で流川は何度もまばたきした。まつげがタオルにこすれて重たい。タオル越しでは何も見えなくて、流川はゆっくりとタオルを顔からのけた。部室のドア前に、桜木が立っていた。
「……帰ったかと思った」
「ああ? なんでだよ、うち来たいって言ったのはてめーだろ。うちの住所知ってんのかよ」
「知らねー」
桜木がそっぽを向いて投げつけるように言うのを聞いているうちに、桜木が帰ってしまわなかった喜びが徐々に流川の胸に染み渡ってくる。温かい湯に浸かったようで、固まりかけていた気持ちがほぐれていく。
「鳩サブレー、ある」
「は?」
「好き?」
「いや、そりゃ好きに決まってんだろ」
「オレも、好き」
流川は目許をゆるめた。そう、桜木が鳩サブレーを好きかどうかを聞いたことがなかったが、好きに決まっているのだ。桜木がなんだか驚いたように目を丸くして頬をほんのり赤くしているが、そんなに嬉しくなるくらい鳩サブレーが好きだったのかも知れない。割れないように持ってきてよかったと、流川は慎重だった朝の自分を褒めた。
「あーもう!」
桜木を頭をかきむしったあと、乱暴にソファの逆側へ腰を落とした。すっかりくたびれているソファが桜木の体重に軋む。
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