人魚巻千
意識してみれば、ちゃぷちゃぷと水の中で尾びれが動いて水しぶきがあがる。足の代わりなのか、どこにどう神経が通っているのかはいまいち分からないけれども動かすことはできるようだ。
風呂場の、浴槽の狭い世界の中。今の俺の居場所はここだけだった。小さな窓から差し込む光に尾びれがきらきらと反射していた。
気が付くと、人魚になっていた。つまりは足が無くなっていたのだ。
無くなった足の代わりにくっついていたの魚の尾びれ。髪色によく似た明るいオレンジみたいな赤みたいなそんな色。
まるで絵本に出てくるおとぎ話の人魚のようだと、他人事みたいにそう思った。
困ったことに心当たりは全くない。ヘンなものを食べた記憶もないし、そもそも昨日食べたのはパスタなので肉も魚でもなかった。
困った俺は、無意識のうちに巻田を呼んでいたようで(最初、巻田が部屋にやってきたときなんでいるんですか? と聞いてしまい「お前が呼んだんだろうが!」と怒られた)
幸いにも今は夏休みで、お盆期間で部活も休みだ。部屋に引きこもっていても支障はない。人魚の生態についてはまったく分からないけれども、ずっと乾いたところにいると段々しんどくなってきたのでお風呂に水を張ってその浴槽の中にいることにした。
歩くこともままならないので、巻田に大人しく抱っこされてそっと、水の中に身体が沈められる。
「水で寒くないか?」
湯を沸かそうかと巻田に心配されたが、どうやらこの身体になると体温調節の機能が人間とは変わるみたいで冷たくはなく、平気だった。
多分、服を着ないでいたところで大丈夫だろうけどなんとなく恥ずかしかったので上だけTシャツを着ることにした。
浴室の隅っこの方で巻田は丸まって眠っていた。
こんなところでひとりで眠るのは寂しいだろうと。だからと言って、こんな場所で眠れば巻田こそ身体を痛めるだろうと言ったが「へーき、へーき」とへらりと笑ってそのままタオルケットを被って「おやすみ」と。
真っ暗な浴室に、小さな窓からの星明りが差し込む。
巻田の身体からズレたタオルケットに手を伸ばしてかけなおしてやる。
「んんん……」
小さく身じろいだだけで巻田は眠ったままだった。そっと、投げ出された掌に触れる。ふにふにと柔らかく触れると、温い温度が伝わってくる。あったかい。硬くてそこかしこに肉刺もあって、武骨で大きくて、歪だけれども、自分を慈しんでくれる、愛しくて安心できるもの。
もしも、このまま自分の身体が元に戻らなかったらどうしようかと。胸の内を冷たい騒めきが過る。
そうすると、野球はできなくなるなと浮かんでまずそこなのかと自身に笑いが込み上げてくる。
もう傍にいなきゃもうこの体温を自分から手に入れることはできないのかと思うと無性に悲しくて寂しくなってきた。
触れたままの掌を、指と指を絡めて手をつないでそのまま目を閉じる。ちょっと引き寄せてみたけど巻田が起きる気配はなかった。
ぱちゃん、と水面が瞬く音が静かな浴室内にやけに大きく響いた。
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