湾曲


 柔らかいものほど足を絡めとる。一粒の集合体を踏みしめるスニーカーを深みへ連れこみ、その履き口からわずかに——数百の——粒が潜りこむ。色濃く濡れた砂のふちの際に立って、三井が頭をかたむけてじっと待っていた。やがて波が、三井のつま先のわずか手前まで帰り、塗り直すように砂を濡らす。ぱっと振り向いた顔が誇ったように明るく輝いているのがおかしかった。「見たか? オレの勝ち」「なにと戦ってんの」波だろ、と三井は少しあきれたように言うので、水戸は笑った。いや海か、とつぶやきながら水平線をながめている三井を横目に、一三四号線へと首をひねると、下り車線はいつものように渋滞し、信号を待つエンジン音が鈍く連なっている。はずんだ声に視線を戻したとき、三井はもう海を見てはいなかった。自分がひとつやふたつを見るあいだに、彼は十や二十を見る。その目がいまはリードをいっぱいに引っ張って駆ける犬を追う、「いいよなあ犬」。いいか悪いかで言えばいいだろう。三井は二択などふまえずに、いろんなものをいいと言う。晴れた日の水面、書きやすいボールペン、新しい靴、かりっとしたフライドポテト、知らない音楽、しんとした三が日、太陽にさらした寝具、水戸のつくる炒飯。
「犬飼いてえよな」
 好きにしなよと心ばかりの返事をすると、オレとおまえでだよ、と三井が眉を上げた。「飼わないよ、無理だろ」「まあ、そのうちな」それっていつのこと言ってんの? もし訊ねたら、三井はまるで考えていなかったという顔で、そのうちはそのうちだとかなんとか言っただろう。あるいは明確な答えがあるかもしれない。ならば、なおのこと訊ねるべきではなかった。波のふちのカーブを見下ろして、どこもかしこも湾曲しているから彼に敗けるのだと思った。一緒に住むときはさ、という声が聞こえたとき、続きを待たずに水戸は顔をあげる。次のひとことが、安全で、とるに足らないものであることを願っていた。
「ペット可のとこにしようぜ」
 ふたりで半日を過ごせば、三井は一度や二度はかならず余計なことを言った。なにが余計でなにがそうじゃねーのわかんねえんだからオレにはどうしようもねえよ、とさえ彼は言ったことがある。彼の言葉を噛みつぶしてしまいたいほど腹立たしいときもあれば、晴れた冬の朝のように輝くときもあるのだから、三井のなげやりな返事はそう的外れでもなかったのだろう。
「三井さんと住んだら二日で嫌んなりそう」「せめて三日だろ、そういうのは」 
 それでも、ふたりで過ごす関係が、もう二年と四年を経ていた。空白は二年と数ヶ月で、それが長かったのか短かったのか、いまとなってはもうよくわからない。春の海はうっすらと濁っている。そろそろ引き上げて、たぶんスーパーに寄って、夕食の食材と缶ビールを買って、袋をふたつに分けるだろう。大した荷物でもないが、水戸がそれらを持つと三井はめざとく反発し、それならばとすべて譲り渡すと、なぜか憐れむような目で水戸を見たのだった。それは何年前のことだろう。
 どちらともなく海に背を向けて歩きはじめると、満足げに息を切らしたラブラドールが飼い主の手のひらに頭を押しつけていた。気持ちのいい道を全力で走り、手のひらをねだり、おやつを食べて、大便をして、あたたかい家へ帰る。手足をきれいにして、食事をして、くっついて眠る。また明日。犬なんて飼えねえよとつぶやいた声が、三井の耳に届いていたことを、彼が振りかえったとき知った。あんたがそんな顔をする理由はないし、あんたにそんな顔をさせる理由もない。でも三井はそんな顔をして、わずかなためらいを打ち消すような大きな歩幅で砂を踏みしめた。そのスニーカーのなかへ粒子が入りこむのを、他人ごとのように見た。いずれにせよ他人ごとだった。あんたの靴のなかのざらつきをおれは感じられないのだ。三井は正面から水戸の肩をつかんで、やけに真剣な面持ちで、ふいに照れて、それを振りはらって、飼える、と言った。三井の瞳はたいてい舌よりも雄弁だった——瞳のなかに冬の朝が光る、積もらなかった雪で路面が濡れて輝いている。三井の足が知るざらつきを自分が知ることはない。けれどここを歩いていると、おれの靴もあんたの靴も、おなじように砂にまみれる。自分の笑い声を聞きながら、水戸は気づく。それで十分なのだ。




2023.03.04
おとな洋三、春先の浜辺

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