【原利土1819IF】頸と心13
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十三 闇夜
数日が過ぎた。
黒は時を跳んだという事実を、まだ飲み込めずにいた。飲み込めないまま日々だけが過ぎていく。囲炉裏の火を見つめ、椎の実を煮て、野良と二歩の距離で眠る。繰り返しの中に身を置きながら、黒の頭の中では別の思考が休みなく回り続けていた。
今は──いつなのか。
それを知らなければならなかった。知らなければ次の一歩が踏み出せない。自分がどこに立っているのかも分からずに動くことは目隠しをして崖の縁を歩くのと同じだ。黒は野良に探りを入れ始めた。怪しまれないように世間話の体で。誰それはいくつになった、あれから何年経つ、そういった話題を巧妙に選んだ。人の動きは最も確かな指標になる。人は嘘をつくが、年齢は嘘をつかない。
「そういえば、東の若君が元服したと聞いたが」
ある夕餉の折、黒はさりげなく切り出した。火の番をしながら、視線は鍋の中の芋に落としている。野良の反応は直接見ない。探っていることを悟られたくない。
「東の若君?」
野良は椀を手に取りながら眉を寄せた。
「……ああ、あの家の。去年の春だろう。遅いくらいだな」
去年の春。
黒は表情を変えずに頷いた。だが胸の内では、小さな歯車が一つ、かちりと噛み合った。あの若君は、黒の中ではまだ八つだった。元服は早くて十二、遅くて十五。去年の春に元服したのなら、今は十三から十六。つまり今は、五年後から七年後。
一つでは足りない。あといくつか、確かめなければ。
翌日、黒は別の話題を振った。
「この国の三の姫が嫁いだのはいつだったか」
「五年前だろう。覚えていないのか」
「少々記憶が曖昧でな」
野良は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。黒はその情報を胸の内で転がした。三の姫。黒がいた頃、彼女はまだ輿入れの話すら出ていなかった。それが五年前に嫁いでいる。
別の日、黒はまた問うた。
「西の城が落ちてから、もう七年くらいになるか」
野良は囲炉裏の火を見つめたまま答えた。何かを数えている。この男はやはり細かい。その細かさが黒に情報を与える。
「六年前だな。もうそんなになるのか。あそこは跡目を継ぐ者もなく、今は廃墟だと聞いているが」
六年前。
黒は息を呑んだ。西の城が落ちたのは、黒が忍者隊にいた頃のことだ。あの合戦の直後、黒は抜ける前の最後の忍務を受けた。つまり──今は、黒がいた頃から六年後だ。
六年。その数が、黒の胸に重く沈んだ。
忍にとって情報とは何か。それは命だ。文字通り情報は命を繋ぐ糸だ。どこに敵がいるか。いつ襲ってくるか。誰が味方で、誰が裏切るか。どの道が安全で、どの道が罠か。そういったことを知っているから、忍は生き延びる。知らなければ死ぬ。単純な話だ。
黒がこれまで生きながらえてきたのは、正しい情報を持っていたからだ。家を焼け出されてから、針の先ほどの変化も見逃すまいとしてきた。風向きの僅かな違いに気づいた。足音の調子から相手の疲労を読んだ。視線の動きから嘘を見抜いた。どこに店が立った。どこに誰が就いた。そうやって一つ一つの情報を積み上げ、編み上げ、世界の形を把握してきた。把握しているから次の一手が打てた。次の一手が打てるから、今日まで生きてきた。
その六年分が、ない。
六年分の変化が、分からない。
誰が死に、誰が生き残ったか。どの家が栄え、どの家が滅びたか。どの道が通れなくなり、どの道が新しく開かれたか。どの情報が古くなり、どの情報が新しく生まれたか。
黒は自分の手を見つめた。闘いの傷跡が残る手だ。この手で情報を掴み、この手で道を切り開いてきた。だが今、この手には何もない。掴むべき糸が見えない。手探りで闇の中を歩いているようなものだ。
──恐ろしい。
黒は認めざるを得なかった。恐ろしい。底知れない恐怖が腹の奥から這い上がってくる。情報を見落とすことは死と同義だと、黒は骨の髄まで叩き込まれてきた。見落とした者から死んでいく。それを何度も見てきた。優秀な忍も、たった一つの情報を見落としただけで命を落とす。だから黒は見落とさなかった。見落とすまいとしてきた。目を凝らし耳を澄まし、神経を研ぎ澄ませて世界のあらゆる変化を捉えようとしてきた。
それなのに──六年分が抜け落ちている。
六年分もの変化を、見落としている。
そもそも見る機会がなかった。時を跳んでしまったから。自分の意志とは関係なく、六年という時間を飛び越えてしまった。情報がなければ世界の形は分からない。次の一手が見えない。それは──。
黒は息を吸った。吸った息が喉の奥でつかえた。吐けない。吸えない。胸が締め付けられる。
(死ぬかもしれない)
そう思った瞬間、全身に冷たい汗が滲んだ。
今の自分は、目隠しをして戦場に放り出されたようなものだ。どこから矢が飛んでくるか分からない。どこに落とし穴があるか分からない。どこに味方がいて、どこに敵がいるか分からない。何も分からないままただ立ち尽くしている。立ち尽くしていれば殺される。かと言って動けば罠にかかる。どちらを選んでも、待っているのは死でしかない。けれども怖いのは死そのものではない。自分が死に向かっているかもしれないことが、分からないことが怖いのだ。
黒は膝を抱えた。囲炉裏の火が燃えている。薪が爆ぜる音がする。野良が傍にいる。その気配だけが確かで、他のすべてが霧の中にあるように感じた。
六年前の地図で、今の戦場を歩けるだろうか。道は変わっている。建物は建ち、建物は崩れている。人は移り、人は死んでいる。自分だけが古い絵図を握りしめて立ち尽くしている。
怖い──と黒は思った。
これほどまでに怖いと思う感情を、久しぶりに自覚した。家を焼かれた夜以来かもしれない。あの時も世界が崩れた。足元が抜け、すべてが燃えた。今また同じことが起きている。形は違うが本質は同じだ。自分が立っていた地面が、ある日突然跡形もなく消える感覚。
「クロ」
野良の声がした。黒は顔を上げた。
「飯だ。食え」
野良が椀を差し出している。椎の実を煮たものだ。湯気が立っている。黒は黙って受け取った。手が震えていることを悟られたくなかった。
「……ありがとう」
小さく言った。野良は何も言わなかった。ただ自分の椀を手に取り、黙々と食べ始めた。
黒は椀の中を見つめた。煮えた椎の実が沈んでいる。これは確かだ。この熱さは確かだ。この味は確かだ。野良が拾い、野良が煮て、野良が差し出した。これだけは確かだ。
黒は椀に口をつけた。熱い。舌が痺れるほど熱い。その熱さがわずかに胸の寒さを和らげた。黒は野良の横顔を盗み見た。火に照らされた輪郭。真剣な顔で椀を傾けている。この男は何も知らない。黒が六年先の世界に落ちてきたことも、黒が今どれほど怯えているかも何も知らない。知らなくても、傍にいる。それが今の黒には恐ろしいほど心強かった。
「……野良」
「何だ」
「明日も、椎の実を拾いに行くか」
「ああ。まだ残っているだろう」
「そうか」
それだけの会話だった。それだけの会話なのに、胸の奥が少しだけ緩んだ。明日がある。明日も野良と山を歩く。明日も野良と火を囲む。それだけが今の黒には確かなことだった。
六年分の情報がない。地図はない。だが、野良はいる。
黒は椀を傾け、最後の一滴までを飲み干した。熱が喉を通り腹に落ちていく。その熱を追いかけるように、別の熱が胸の奥で小さく灯った。
その夜、黒は眠れなかった。
野良は既に眠っている。いつもの二歩の距離で、穏やかに呼吸をしている。囲炉裏の残り火が微かに赤く燃えている。いつもと同じ夜だ。いつもと同じ音。いつもと同じ匂い。それなのに、黒の心臓だけが激しく脈打っている。
眠れないことが分かっていて、黒は目を閉じた。閉じた瞼の裏に赤い光が明滅した。焼け落ちる家の記憶だ。逃げ惑う人々の叫び声。血の臭い。
(あの時も、情報が足りなかった)
敵の動きを読み違えた。手引きした味方の裏切りを見抜けなかった。結果、家は焼かれ、一族は滅んだ。自分だけが生き残った。生き残ってしまった。
六年分の情報がないということは、また同じ過ちを犯すということだ。また何かを見落とし、また何かを失う。怖いのは死ぬことそのものではない。間違えたまま歩き続けて自分以外のものを失うことだ。失うものなど、もう何もないと思っていた。けれど──。
黒は目を開けた。
野良の寝顔が見えた。月明かりに照らされた横顔。穏やかな呼吸。
失いたくない、と思った。
黒は身体を起こした。野良の方へ、半歩だけ近づいた。近づいてその温もりを確かめたかった。確かめなければ自分が壊れてしまいそうだった。
野良は眠っている。気づいていない。気づかれたくない。気づかれたらきっと何か言われる。何を言われても今の自分は受け止められない。だから黙って、ただ近くにいたかった。
一歩半の距離は、いつもより近い。触れそうで、触れない。その僅かな隙間が今の黒には境界だった。境界の内側にいれば、まだ大丈夫だと思えた。まだ崩れないと思えた。そうしてしばらく、野良の呼吸を聞いていた。
規則正しい呼吸。この男が生きているということ。この男が傍にいるということ。今の自分には、六年分の情報がない。世界の形が分からない。次の一手が見えない。それでも──この男の呼吸だけは聞こえる。この男の温もりだけは感じられる。それだけが、世界で確かなものだった。
黒は目を閉じた。野良の呼吸を聞きながら、恐怖を押し殺すように自分の呼吸を野良に合わせた。吸って、吐いて──同じリズムで。同じ速さで。そうしていると、少しだけ楽になる。
縋っている、と黒は思った。この男に縋っている。情報のない世界で、この男だけが確かな足場になっている。それは危険なことだ。忍として致命的なことだ。それでも六年分の闘いをゼロからするには、黒はもう疲れすぎていた。
***
黒は自分が時を越えたことを、野良に言えずにいた。
言ったところで信じないだろう。六年先の世界に落ちてきた。そんな与太話を誰が信じる。忍は疑うことを生業とする生き物だ。証拠のない言葉など風よりも軽い。むしろ正気を疑われるのが落ちだ。頭を打ったか、熱にでも浮かされたか。そう思われて終わりだ。
だが、伝えなければならないことがある。野良に与えた情報のことだ。
補給路の件は、まだ使えるかもしれない。地形は変わらない。尾根の形も、谷の深さも、六年では変わらない。運用が続いているなら、あの情報にはまだ価値がある。
だが書簡は違う。
あの枯れ木の下に埋めた書簡は、六年前の情報だ。誰がどこにいるか。いつ、何をするか。そういったことが事細かに記されていた。記されていたからこそ、黒はあれを隠したのだ。敵の手に渡れば味方の命が危うくなる。味方の手に渡れば敵を討つ刃になる。あれはそういう類の情報だった。だが今となっては、ただの紙切れだ。
あの書簡に書かれた人間の多くは、もう死んでいるか、別の場所にいるか、別の立場にいるだろう。配置は変わり、数は変わり、動きは変わっている。六年という時間は戦場においては永遠に等しい。あの書簡を持って行ったところで野良の手柄にはならない。むしろ笑いものにされるだけだろう。何だこれは──今さらこんなものを、と。
それを、どう伝える。
時を跳んだから、と言えば済む話だ。けれども信じてもらえないだろう。信じてもらえないなら別の理由を用意しなければならない。
黒は苦い顔をした。こういう形で、感情を理由にはしたくなかった。
その日の夕餉が終わり、囲炉裏の火が落ち着いた頃だった。
黒は野良の方へ身体を向けた。いつもの一歩半の距離を、さらに半歩縮めた。一歩。手を伸ばせば届く距離。触れようと思えば触れられる距離。
「野良」
名を呼んだ。野良が顔を上げる。火の明かりに照らされた目が、黒を見た。
「お前に、言わなければならないことがある」
野良の肩が、僅かに強張った。
目が揺れた。一瞬だけだ。すぐに戻ったが黒は見逃さなかった。動揺している。何を言われるのか身構えている。あるいは──何かを期待している。
黒はその揺れを見て、胸の奥が軋むのを感じた。野良が何を期待しているのか分かっている。分かっているから、余計に苦い。これから言うことは、野良の期待とは違うことだ。むしろ、野良を傷つけることになるかもしれない。
「……何だ」
野良の声は平静を装っていた。けれども喉の奥が僅かに詰まっている。緊張している。黒の言葉を待っている。
黒は息を吸って、小さく吐いた。
「……私がお前に教えた書簡のことだ」
野良の目が細くなった。警戒の色だ。情報の話か、という顔。期待とは違ったのだろう。だが同時に安堵もあるように見えた。感情の話ではなかった、という安堵。それが黒には少しだけ痛かった。
「書簡がどうした?」
「あれは、使うな」
野良の眉が寄った。
「使うな、とは」
「そのままの意味だ。あの書簡を持って行っても、お前の手柄にはならん。むしろ経歴に瑕がつく」
野良は黙った。黒の言葉の意味を測っているようだった。黒は構わず続けた。
「あれは古い情報だ。私がお前を騙すつもりで掴ませた」
嘘だ。騙すつもりなどなかった。あの時はまだ、あの情報が古くなるとは思っていなかった。だが今となっては結果は同じだ。古い情報を掴ませた。使えないものを渡した。
「……騙す?」
野良の声が低くなった。怒りではない。困惑だ。黒の言葉が理解できないという顔だ。
「そうだ。お前に拾われた時、いつでも裏切れるように布石を打った。使えない情報を渡しておけば、お前が私を信用している間は安全だ。情報が嘘だと分かる頃には、私はもうここにいない。そういう算段だった」
野良は黙って聞いていた。表情は読めない。火の明かりが揺れて、影が頬に落ちている。
「だが──」
黒は言葉を切った。次の言葉が喉に引っかかった。言えば、認めることになる。認めれば戻れなくなる。それでも言わなければ伝わらない。それしか今更このことを教える理由が見つからなかった。
「お前に……情が移った」
黒は火を見つめたまま言った。野良の顔を見られなかった。見れば自分の弱さが露呈してしまいそうだった。
「お前があの書簡を持って行って、笑いものにされるのが忍びなくなった。だから言う。あれは使うな。補給路の情報だけを持って行け。そちらはまだ使える」
沈黙が落ちた。
火が爆ぜる音がした。薪が崩れる音がした。外で風が鳴っている。それ以外の音はない。野良は何も言わなかった。
黒は待った。待ちながら、自分の心臓の音を聞いていた。速い。緊張している。野良が何を言うのか、怖いのに、聞きたい。
「……情が移った、と言ったな」
野良の声がした。低い声だ。感情を押し殺した声だ。
「ああ」
「それは、どういう意味だ」
黒は答えられなかった。答えれば、それは本当になってしまう。誤魔化し続けたものが、形になってしまう。
──情が移った。
それは嘘ではなかった。嘘にするつもりだった。野良を騙すための方便にするつもりだった。けれども口に出した瞬間、それが本当のことだと気づいてしまった。
自分は、情が移っている。この男に。
「……そのままの意味だ」
黒は火を見つめたまま答えた。それ以上は言えなかった。言えば、崩れる。崩れたら──もう戻れない。
野良は黙っていた。長い沈黙だった。黒はその沈黙の中で自分の呼吸を数えていた。そうやって紛らわせなければ、息ができなくなりそうだった。
「……分かった」
野良がようやく言った。
「書簡は使わない。補給路の情報だけを持って行く」
それだけだった。それ以上は何も言わなかった。情が移ったという言葉への反応はなかった。黒は少しだけ、胸が痛んだ。
期待していたのだろうか。何かを返してもらえると。野良が何か言ってくれると。馬鹿げている。自分から距離を置いておいて相手に踏み込んでほしいと思うのは。
野良はそのまま火の番に戻った。いつもの背中だ。いつもの、何も変わっていない沈黙。変わっていないのに、何かが変わってしまったような気がした。
一歩の距離。
黒はその縮めた距離のまま、野良の背中を見つめていた。
***
利吉は、最近の黒の変化に気づいていた。
何か様子がおかしい。あの尾根で軍勢を見た日から、黒の足元が定まらなくなっている。地に足がついていないように見える。
以前からどこか悩んでいる様子はあった。それは利吉にも分かっていた。だがあの頃の悩みは、分かれ道でどちらに行こうかと立ち止まっている類のものだった。右か左か。進むか退くか。選択肢を天秤にかけ、どちらが重いかを測っている。そういう悩み方だった。足元は揺らいでいなかった。どちらを選ぶにせよ、選んだ先へ歩いていく力は残っていた。
黒は逞しく生きていると、利吉にはそう見えていた。抜け忍という立場、追われる身、いつ命を落とすか分からない日々。それでも黒は諦めていなかった。初めて会った頃に自分の頸など軽いと言った男だとは思えないほどに、生き延びることを、足掻くことをいつも考えていた。どれほど消耗していてもその目には光があった。次の一手を考えている目だった。生きることを手放していない目だった。それが、変わった。
囲炉裏の傍で、黒が火を見つめている。利吉は薪を割る手を止めてその横顔を盗み見た。火の明かりに照らされた輪郭。頬の線。目の色。どれも変わっていないはずなのに、何かが違う。何かが欠けている。最近の黒は、ふっとどこからもいなくなってしまいそうな脆さがある。
目だ──と利吉は思った。目の奥の光が、揺らいでいる。以前の黒は、火を見つめる時も油断がなかった。火の向こうに何があるかをちゃんと見ていた。生きる道を、逃げ道を探していたからだ。けれども今の黒はただ火を見つめている。見つめているだけで、その先には何もない。何も考えていないわけではないだろう。だがその考えがどこにも繋がっていないように見える。
利吉は斧を下ろした。黒は気づかない。いつもなら利吉が動きを止めれば視線を向けてくる男だ。気配に敏感で、変化を見逃さない。だが今の黒は、利吉が見ていることにすら気づいていない。
利吉はふと、あの白い曼殊沙華の野原を思い出した。
枯れ色の山の中に、ぽっかりと開けた場所があった。白い花が一面に咲いていた。赤ではなく、象牙のような淡い白。利吉はあのとき黒の横顔を見た。花を見つめる黒の顔を。あの時の表情と、今の表情が重なる。
この世のどこにも自分の居場所がないとでも言うような、そんな顔だ。足元の地面が溶けて、今にも落ちていきそうな顔。落ちていく自分を止めようともしていない顔。利吉はあの時、黒を隠した。白い花の中に押し倒すようにして自分の身体で覆った。味方の斥候の気配があったからだ、見つかると面倒だからと、そう言った。けれども本当の理由は違った。
あの顔を、あの脆さを、自分は誰にも見せたくなかった。
自分だけが見ていたかった。自分だけが知っていたかった。独占欲だと分かっている。醜い感情だと分かっている。それでも止められなかった。
黒が「情が移った」と言った夜から、利吉の中で何かが軋んでいた。
情が移った。その言葉の意味を、利吉は何度も反芻した。何度も咀嚼し、何度も飲み込もうとした。飲み込もうとしても、喉の奥に引っかかって落ちていかない。黒は書簡の話をしていた。古い情報を掴ませたのだと。騙すつもりだったのだと。だが情が移って、利吉が笑いものになるのが忍びなくなったのだと。情とは、それだけの意味だろうか。それだけの意味ならなぜあんな顔をした。なぜあんな声で言ったのだ。なぜあのとき火を見つめたまま、こちらを見ようともしなかった。
利吉は問い詰めなかった。問い詰める勇気がなかった。期待がそこにあったからだ。問い詰めて、違う答えが返ってきたらと思うと耐えられなかった。情が移ったというのは犬の子を見捨てられなくなった程度の話で、それ以上の意味はないと言われたら利吉は自分への情けなさで息ができなくなる。だから黙った。分かった、とだけ言った。書簡は使わない、補給路の情報だけを持って行くとだけ言った。それ以上は何も言わなかった。何も聞かなかった。
臆病だ、と。利吉は自分を罵った。完璧な忍を目指しておきながら、この程度のことで怯んでいる。感情に揺らされている。弱くて──情けない。
けれども同時に、別の感情も渦巻いていた。
黒があんな顔をしている。あんな脆い顔をしている。足元が定まらず、どこかへ消えてしまいそうな顔をしている。それを見ていると胸が締め付けられる。何かしなければと思う。何かを言わなければと思う。だが何を言えばいい。何をすればいい。
利吉には分からなかった。
***
その夜、黒がまた悪夢を見ていた。
呻き声で利吉は目を覚ました。隣で黒が身を捩っている。額に汗が滲み、呼吸が乱れている。何かを振り払おうとするように、手が宙を掻いている。
利吉は身を起こした。
声をかけようとして、躊躇した。悪夢の最中に声をかけても届かないことがある。だが放っておくこともできない。黒の呼吸がどんどん浅くなっている。過呼吸の兆しだ。利吉は黒の肩に手を置いた。
「……クロ」
低く呼んだ。黒は反応しない。目を閉じたまま、苦しげに喘いでいる。
「クロ。──起きろ」
肩を揺すった。黒の目が開いた。だが焦点が合っていない。まだ黒は夢の中にいて何かを見ている。ここにはないものを見ている。利吉は黒の頬に手を当てた。
冷たい──汗で濡れている。この男の頬がこんなに冷たいのは初めてかもしれない。いつもこの男には熱があった。生きている熱が。戦っている熱が。それが今はまるで死人のように冷たい。
「クロ」
利吉はもう一度呼んだ。今度は少し強く。黒の目が、ようやく利吉を捉えた。
「……野良」
掠れた声だった。喉が詰まっている。息がうまくできていないようだ。利吉は黒の背中に手を回した。支えるように。逃さないように。
「ここにいる。息を吸え。ゆっくりでいい」
黒の身体が、骨の奥から震えている。黒は利吉の肩口に顔を埋めて、そのまましばらく動かなかった。震えが収まり呼吸が整うまで、利吉も動かなかった。黒の震えを感じながらただ支えていた。黒の身体は、次第に落ち着いているようだった。
やがて黒が顔を上げ、すぐ傍で目が合った。近い。火の消えた部屋の中で月明かりが黒の瞳を浮かび上がらせている。黒の目はまだ揺れていた。夢の残滓がそこにあった。
「……すまない」
「謝るな」
利吉は答えた。それ以上の言葉は出てこなかった。黒は利吉の腕の中にいて、利吉の手はまだ黒の背中にあった。離すべきだと分かっているのに利吉は離せなかった。離したくなかった。黒にこんな顔をしてほしくはなかった。この世のどこにも居場所がないような顔。今にも消えてしまいそうな顔。そんな顔をしてほしくないと利吉は思う。
ここにいろ──と言いたかった。どこにも行くな、と言いたかった。なのに言葉にならなかった。利吉の喉はいつも肝心なところで詰まる。感情を言葉にすることが、こんなにも難しいとは知らなかった。
代わりに、腕に少しだけ力を込めた。
黒の身体を、少しだけ強く抱いた。言葉の代わりに。伝わるかどうか分からないまま。伝わってほしいと願いながら。
後
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