前編

 
 視野が狭まり、焦点が定まらない。世界が揺れている。端的に言い表すなら、この世の終わりみたいな気分だった。
 背を押され、必要最低限といった風情の1Kへ押し込まれる。さっきからブレブレの視界は、第三者がはちゃめちゃな編集を施した動画を見ているようだった。
 それでも俺は、腰を抱かれてタクシーを降りたあたりから「で、ここはどこだ?」と疑問に思ってはいた。
「えっと、ここどこ?」
 実際口にしてみると相当間抜けなセリフだが、小宮くんは「うちの体育会寮」と簡潔な答えをくれた。
 ――あ、小宮くん?
 たしかに、俺の背を支えるためにベルトをつかんでいる手の先には、小宮くんがいた。幻覚でもなんでもなく、小学生でも高校生でもない。今、大学二年生の小宮くんが。
「えー、寮。じゃあ部外者は」
「立入禁止。誰にも見られなかったからべつにいい。吐いた方がラクだと思うけど、手伝う?」
 手伝うって、どうやって? と一瞬思ったが、血中を駆けめぐるアルコールの作用で思考は容易に断絶する。
「いや、自分で……慣れてるからへいき」
 そこにトイレがある。そう認識したらもうダメだった。俺はふらふらトイレの入口へと吸い込まれ、ドアも閉めずに嘔吐した。
 液状の吐瀉物にエノキがそのまま出ているのを後ろから覗き込み、小宮くんは「キノコ類って本当に消化が遅いんだ」と感心したように言った。
「いや、見んなって……」
 背後に立つ男の岩みたいなふくらはぎを弱々しく向こうへ押して、トイレから退場させようと無駄な努力をする。くそ、たくましい大腿筋だな。
 大会後、幹事校の大学施設で行われた懇親会という名の飲み会は、ビュッフェ形式だった。あのエノキはたぶんマカロニグラタンに入っていたやつ。あの手の会合で下級生が残飯処理に駆り出されるのはあるあるで、例に漏れず、俺もたらふく食わされた。
 最後にカットフルーツが余っているからと、目の前にフルーツ山盛りの銀の盆が出てきた瞬間の絶望感たるや。なんか昔は好きだったような気がする、という気持ちだけを胸に、心を殺していちごをパクパク食べた。ような気がする。あのとき既にだいぶ酔っていた。
 食べる前よりも、今こうして出した後の方がよほどいちごのにおいを強烈に感じる。その甘ったるさがキツくて、俺はいそいそと便器を抱え直した。えずいてみたが、もう出るものもない。
「水、これ全部飲んで」
 ひょい、と顔の横に出現した五百ミリのペットボトルが揺れる。地獄の底に垂らされた一本の蜘蛛の糸みたいに、水の表面がきらりと光った。
 ありがたく拝受してあっという間に半分飲んで、俺は地獄の底もといトイレの床から天を見上げる。
「で、なんで小宮くんが一緒にいるんだろう」
「おぼえてないの」
 走ったわけでもないのに、珍しく乱れた小宮くんの前髪の下、きゅ、と眉根が寄る。俺を連れてくるときに乱れたのかなと思って、訳もわからず嬉しくなった。古今東西、酔っぱらいの思考回路など訳がわからないものだ。
「ごめん。俺、記憶なくすタイプみたいで」
 小宮くんは、無関心と不機嫌の中間ぐらいのトーンで「へえ」と言った。
 あの懇親会に、途中から彼がいたことには気づいていた。というかむしろ、会場のどこにいてもその存在を意識せざるを得なかった。俺は背中に開いた第三の目で小宮くんの位置と様子を監視しながら、他校の学生との薄っぺらい交流に励んでいた。
 こいつ二十歳になったんでアルコール解禁ですよ、なんて先輩たちに何度も言われ、ぬるいビールを何度も注がれた。でも目の前の会話より、遠くにいる小宮くんのつまらなさそうな背中ばかりに気が向いて。
 そんな自分のありさまにほとほと嫌気がさして、飲める年齢に達して間もない身分で不慣れなアルコールに耽溺したのだった。
 ――ということは、俺の悪酔いは小宮くんのせいでもあるな。
 俺のぐずぐずな脳は、劇的な責任転嫁に成功した。
 そもそも小宮くんとまともに話すのは、ユースの強化研修合宿以来、大学に進学してからは初めてだった。トラックでもないのに、こんなに近い距離に彼がいることが何か異常事態のように思える。いや、ある意味異常事態か。
 ――あ、なんか酔いが醒めてきたぞ。
 眠い目を瞬かせる。やはり悪酔いは早々に吐くに限るな。そこに見つけたトイレクイックルを指して「ごめん、これ使っていい?」「どうぞ」なんて会話して、俺はお世話になった便器をぴかぴかに磨いた。
 腕のスマートウォッチによれば、まだ二十二時にもなっていなかった。こんな時間から酔っぱらってあらかた吐いて、こんな気合い入れて人の家の便器を磨いている人間もそうそういないだろう。
 ちょっとした達成感とともにトイレを出ると、小宮くんは備え付けらしい勉強机の椅子に腰かけて、壁紙のよごれを見つめていた。分厚い上半身と猫背がアンバランスで、でもそれがふしぎと魅力的に見えた。見えてしまった。
 ……うん。やっぱりまだけっこう酔ってるな。俺はそう、自身の状態を俯瞰する。
「小宮くん実業団行くかと思ってたから、意外だった」
 意識を取り戻し始めたのかそうでないのか、微妙な線にある俺からの突然の世間話に、小宮くんは首だけで振り返った。「はたして人間と会話を続けるとは、どういうことだったろうか……」みたいな深遠な顔で視線をめぐらせ、再び俺を見定める。
「……そう。少しは勉強もしようと思って進学したけど、結局走ってばっかりいる」
「あー、そっち厳しそうだよね。バイトも禁止だろ」
「うん」
「どんな感じ? 先輩とか」
「一人ひとりはまじめだよ。群れると最悪だけど」
 その露悪的な言い方に、職務放棄を決め込んでいた俺の脳のシナプスが、ばちばちと繋がる音がした。


 あれはたしか、懇親会会場のど真ん中。トガシ? あいつだよ。凄かったよなあ、中学までは。勝手に値踏みするような視線、あざ笑うような刺すようなまとわりつくような視線。うん、これは慣れっこ。別方向からは耳奥にまで反響する大げさな笑い声、相手よりデカい声で笑わないと死にでもするんだろうか。貼りつけたみたいな作り笑い、あっそれは俺もか。なあトガシは二次会もちろん行くよな? はは、そっすねえ。誰だっけこの人、なんか十年ぐらい前に卒業したOBだったかコーチだったか。行きます行きます。食わされ過ぎて飲まされ過ぎて、それでも行く以外の返答なんて下級生には許されない。いいねえ、おまえ。ノリいいねえ。なんて、威勢よく背中を叩かれ――。
「彼の身体は、彼だけのものですよね」
 そこへ、ひと足早く到来した冬の冷気みたいにすべり込む、静かな声。
 変声期を経て低くなった小宮くんの声が、俺はいつまで経っても聞き慣れない。
 あちこちで笑い声の絶えない会場内で、その一角だけが音を失った異質なコーナーへと変貌した。
 背に回された弊部OBの手が強張る。それを無機質な黒い目が見据えている。眼差しの強さのわりに、声は相変わらずボソボソとこもっていた。
「いえ、触るなってことではなくて。わざわざ彼の身体とか健康とか、損なうやり方で団結を強要しなくても、と思ったので」
 ……無駄だよ小宮くん。俺は酔いの回った頭でそう思った。
 おとなが二次会だのなんだのと明日のパフォーマンスを犠牲にしてまで徒党を組むのは、少年たちが順番に底の見えない川に飛び込んだり、暴走バイク集団と化して警察をあおったりするのと本質は変わらない。そうやって身体の将来性と引き換えに、覚悟と連帯を示して絆を確かめ合って、クソみたいな仲間意識が形成されていく。
 大学体育会の集いなんて、そんなマッチョな仲間たちの最たる例だ。その証拠に、見てみなよ。きみの発言の意味なんて考えられもしない、ここにいる人たちのキョトン顔を――。
「……わかりませんか。じゃあ、やっぱり気安く触らないでください」
 言い放った小宮くんの手にぐいと腰を抱かれて、会場出口の方へと連れて行かれる。
「逃げよう」
「えっ」
「トガシくん、荷物は?」
「えっ、……そこ」
 指差したリュックを小宮くんの手が強奪するように掠め取る。
 そのままどんどん先を行く彼に、足がうまく追いつかなくて切ない。動き出したら一気に酔いが来た。
 音を上げる代わりに、疑問が口をついて出た。
「な、なになに、どうしたの」
「気に食わない」
「なにが」
「将来有望そうで感じが良い学生のこと、今のうちに上下関係盾にしていじめときたいだけでしょ」
「そ……こまでの悪意はないだろ」
「でも僕には誰も何も言ってこないよ。今はきみより将来有望なはずだけど」
 小宮くんのあけすけかつ不機嫌まるだしの言い分を聞きながら、俺は怒るよりも先に「小宮くん、自分は感じが良くないって自覚あるんだな」とか思って、そんな場合じゃないのに笑ってしまった。
 酔っぱらって急に歩かされて肺が外の空気を取り込んでくれなくて、ひとしきり笑ってそして、胸が塞いだ。
 俺のことはさ、もう放っといてよ小宮くん。きみには及ばないけれど、所属している集団では誰より速く走れるからこそ、そつない身の振り方が肝要なんだ。今俺たちの生きている世界って、そういう場所なんだよ。能力を測られ続ける運命をひた走ってきたから、俺はもうこの秩序への抵抗感がバグって底が抜けてんの。きみにはそうなってほしくなかったけど、なんか心配するまでもなく大丈夫そうだね。何があったらそうなるんだよ。やっぱり高校でなんかあっただろ。てかどこ行くのマジで。あれ、俺なにしてたんだっけ。
 以上、意識暗転。ブラックアウト。


 よみがえる記憶に、うわ……と頭を抱える。先輩たちになんて言い訳しよう。
「……なにもあそこまで言わなくても」
 俺の小さなつぶやきに、プラケースから新しい下着を引っ張り出していた小宮くんが振り返る。
「おぼえてるの?」
「……全部じゃない」
「僕の知ってるトガシくんなら、ああ言うんじゃないかと思ったんだけど」
「そんなトガシくんはもういないよ」
 うめくように言うと、彼は一瞬、口元を怒ったように歪めて、すぐにまた無表情になった。シャワールームに続くドアを開ける。
「でも僕にとって、一位のロールモデルはきみだから」
「ケンカ売ってる?」
「まさか」
 小宮くんのシャワーの音を聞きながら、俺は冷たいフローリングに腰を下ろしてベッドに寄りかかった。部屋にシャワーがあるのはいいなあ。うちの寮もシャワーが共用じゃなければ、無理して一人暮らしすることなかったんだけどな。
 酔いの醒めきらない頭でそんなことをつらつら考えながら、このままここに居座るか帰るかを決めようとして、考えるのも億劫になってきた。
 いっそ今のうちに黙って消えるか? そう思った瞬間、ろくに髪を乾かしもせず、小宮くんが脱衣所から出てくる。
「はやっ」
「いなくなるんじゃないかと思って」
 ということは、いなくならない方が都合がいいってこと? アルコールの抜け切らない思考回路が、そのままそれを言葉に変える。
「いてほしいの?」
「……酔っぱらいを野放しにできない。僕のおじさん、去年酔っぱらって道路で寝てた」
 ああ、はいはい。監督責任ってやつね。
 力なく頷いていると、小宮くんが感情ゼロの顔で未開封の下着を突きつけてきた。紺のエアリズムボクサーブリーフ、前開きタイプ。
「新しいのこれしかない」
「……え、悪いよ」
「いいから」
 シャワールームに追い立てられ、仕方なく全裸になって慣れない蛇口をひねったところで、背後で閉めたはずの扉がガチャ、と音を立てて細く開いた。「うおっ」と声が出る。
 磨りガラスの向こうに、小宮くんの影が見えた。
「倒れてないか心配だから、なんか喋ってて」
「ひとりで喋ってろって?」
「歌ってくれてもいいけど」
 声色がまるで変わらない。冗談を言っているわけではないらしい。俺はヤケクソで、昔見たことのある脱走しがちなハムスターのアニメ主題歌を大声で口ずさんでシャワーを浴びた。
 部屋に戻ると、「トガシくんは歌もうまいね」と真顔で褒められた。あの歌で俺の歌唱力の何がわかるって言うんだ。
 借り物のウェアは、小宮くんのにおいがして全然落ち着かなかった。
 これも監督責任の一環なのだろうか。
 俺を壁際に、逃げ場を塞ぐようにして小宮くんがベッドに横たわる。俺は迷うことなく小宮くんに背を向けた。いや、これは、ちょっと。
「狭くない?」
「うん。トガシくん、ちょっと触ってもいい?」
 まるで会話にならない。
 でもどういうわけか、俺はシャワーのときからなんとなくそう言われるような気がしていた。だから驚きはしなかった。でも、躊躇はしてるんだぞ、ということを表明したくて蒸し返す。
「俺の身体は俺だけのものなんじゃなかったの」
「だから聞いてる。嫌ならしない」
 きっぱり言われて、逆にひるんでしまう。なんだよ、と思って目を伏せた。
「……いやじゃないよ」
 言うが早いか、俺より高い体温を背に感じた。全身の神経が、背中の皮膚に集中したみたいだった。シャツの上から脇腹のあたりを緩く拘束される。あ、服の下から直接触るわけじゃないんだ。そう思って、どっと心拍数が上がってしまった。
 ちがう、これは、べつに期待してたわけじゃなくて。いやいや、期待とかおかしいだろ。小宮くんだぞ。脳内で誰に聞かせるわけでもない言い訳を重ねて、唇を噛む。
 後ろから、首筋に湿った吐息がかかる。小宮くんのくせっ毛が、俺の耳裏をくすぐった。
 で、彼はそれきり動こうとしなかった。
 ……これ、マジで監督責任を果たそうとしてるだけなんじゃ。
 そう悟った途端、背中にひっついた体温が心地よくなってしまって、あろうことか眠たくなってくる。
 なんとそのまま気絶した俺は、未明に一度だけ意識を取り戻した。
 背中をなぞる、指先の動きを感じたからだった。小宮くんの指先が、右の肩甲骨をたどたどしく撫でていた。その軌跡は、探究者のそれだった。
 ――もう、そこに翼なんてないのに。
 なんでか無性に泣きたくなって、息を殺した。
 きみに折られた翼の跡を、きみが慈しむように触る矛盾。きみを絡めとろうとする権力構造に唾棄しながら、何より“速さ”がきみの言動に権力を与えている矛盾。
 勝っても苦しい、負けても苦しいくせに走り続けている俺は、俺たちは、今日たったふたりで世界に背を向け逃げたけれど。明日はいったい、どうしたらいいんだろうな。


 薄手で丈も足りていないカーテンが、遮りきれなかった早朝の光を透かしていた。
 俺と小宮くんは交代で顔を洗って寝癖をなだめて、こそこそと部屋を出た。小宮くんは寮の裏口まで送ってくれたが、その建物の景観にまったく見覚えがなくて、俺は改めて酒の恐ろしさを思い知った。
「小宮くん、朝練は?」
「今日はオフ。自主トレしてから教習所」
「免許取るんだ」
「うん。実家、車ないと不便だから」
 酔っぱらって部屋に泊めてもらって一緒に寝て起きて、こんなふつうの会話をしている。まるで、友達みたいだと思った。
 そして、こんな朝は二度とないのかもしれないと思って、ちょっと切なくなる。
「……いつか、助手席乗せてよ」
 朝日の下、小宮くんはやや重たげなまぶたを持ち上げて俺を見た。
 彼は「いいけど」と頷きながらも、「いや、ないでしょそんな機会」とでも言いたげな顔をしていた。

 ――小宮くん。俺たち、いつのまにか二十歳になっちゃったけど。いつかちゃんと、もっと名実ともに立派なおとなになったら、きみと腹を割って話せる日が来るだろうか。
 そんなことを思いながら目を閉じて、俺は乗客もまばらな早朝の電車にがたごと揺られてまどろんだ。
 乗換駅の手前でふと目を覚ましたとき、スマホのロックを解除したら、同期のグループラインの未読が見たことのない量になっていた。
『トガシ無事か!?』
『だいぶ酔ってたよな〜生きてる?』
『いや、それもそうだけど。そっちじゃなくてさ』
『うん。ね』
『え、なんかあったん?』
『いや、バチギレした小宮に連れ去られたから』
『小宮ってあの小宮!?』
『めっちゃくちゃキレてたよな小宮』
『大丈夫かトガシ』
『暴行とかされてないよな?』
『怪我してない?』
 ……なんか、とんでもない誤解をされている。
 えーっと、とスマホを片手に姿勢を正す。しかし降車する間際に慌てて投げた「いや、小宮くんは優しかったよ」という一文のせいでさらなる誤解を招き、事態は混迷をきわめた。
 それからしばらくの間、誰かが彼の名前を出すたび、俺は熱心に背中を探っていた小宮くんの指先の温度を想った。



(続く)

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