その、嵐。バレンタイン
「ハイこれ。ロロノアの分」
というたしぎの声とともに、広げていた書類の上に個包装の袋が落ちてきた。金色の四角い袋を上から覗き込む。記憶のページを数枚めくってみたが頼んだ覚えはなかった。持っていたペン先で袋をつつく。
「なんだこれ?」
「交通課一同からのありがた~い差し入れです」
「交通課? なんでまた」
「二課はヒナさんの大号令により、数年前に職場内における義理チョコ配布を廃止しちゃいましたからね」
言われてあぁ、と思い出す。この国には、バレンタインというチョコ嫌いには嫌がらせでしかない日があるのだった。ヒナがいつ強権を発動したのか知らないが、普段菓子ひとつ食べないゾロからすると上司の非公式通達は英断に思える。ゾロは見慣れない袋の端を摘み上げ、傍に立っていたたしぎへと差し出してやった。
「やるよ。おれは甘いもんは食わねぇ」
「男子たるもの、義理チョコでも貰えば嬉しいものなんじゃないんですか?」
「ガキでもあるまいし…」
鼻で笑いながら返すと、たしぎはゾロからチョコ菓子を受け取りながら、そんなもんですかねぇ、と独り言のように呟いた。
たしぎが去るのを待って、書きかけの報告書に目を落とす。手帳に記した警邏メモをたよりになんとか文字を捻り出そうとして、ふと書きかけのペン先を止めた。
まだ二人の関係に名前がついていなかった頃の話だ。ローは時々、今はもうない官舎の前でゾロが帰ってくるのを待っていることがあった。電話の一本でもすればいいのにローはなぜかそうせず、「たまたま近くを通ったから」と言って数分の立ち話をして帰っていく。色恋に聡い方じゃないゾロでも、三度も続けばローが現れるのが「たまたま」ではないことはわかった。だが、ローが「たまたま」を装いたいのだということも察せられた。だからゾロは、そこに滲む他意には気づかないフリをして、「ついでだったから」とローが渡してくるコンビニのレジ袋をなんでもない顔で受け取った。
ある夜、ローがいつものようにやってきてゾロと立ち話をした。ビル風と海からの北風が吹き付ける路地に立つローが、コートを靡かせながらいつものようにレジ袋を手渡してきた。「コンビニで美味そうだったから」とローが小さく言葉を落とした。ゾロはそうかと応える。じゃあな、とローが言い、ゾロがまたな、と返す。灯りの乏しい歩道の上で、いつものやりとりをして別れた。
官舎の部屋に戻って袋を覗くと、中にはホットコーヒーと板チョコが一枚入っていた。甘いものは好きではないと伝えたことはなかったから、ローは良かれと思って入れたのだろうと思った。捨てるのも忍びなく、食べもしないまま放っておいたのだが、数ヶ月が経ってから、それがドイツの製菓店で販売されているチョコレートであることがわかった。教えたのはサンジだ。フランスでの修行経験があるサンジは、それを本国で見たのだという。「懐かしいぜ」とサンジが嬉しそうに言わなければ、ゾロは今でも、ローが渡してきたチョコレートがコンビニで買えるものだと信じていたに違いなかった。
ローは時々、ゾロに対してそういうことをした。真意を伝えるための手段にすぎないはずの行為を、まるでそれ自体が目的であるかのように動く。ゾロは、このローの悪癖が苦手だった。ただでさえ察しの悪い自分を相手に、手段と目的の境界を曖昧にされて煙に巻かれたら、ローの本心には気づけない。ローは我は強いくせに真意を隠したがる男だった。その性格を面倒だと切って捨てることもできたが、真意を汲んでやりたいと思う程度には、ゾロはローのことが大事だった。
あの寒かった夜が、バレンタインデーだったかどうかさえゾロには記憶にない。だがローのことだから、当日か、あるいは前後の日であったのだろうと思う。
無意識に机に置いたカレンダーへ目を遣った。二月十四日。そうか、もうあれから一年が経ったのか、と思った。たまたまを装ってあれこれ理由をつけて、親切が重荷にならない程度に些細なものを渡す間柄だった自分たちは、随分と遠いところまできたものだった。
唸るだけ唸ったくせに、最終的にやっつけでまとめた報告書をスモーカーへ提出して帰宅したのは、夜の十時を少し過ぎた頃だった。人感センサーに反応したダウンライトの下で靴を脱ぎながら、ただいまぁ、と言うと、リビングからマグカップを持ったローが顔を覗かせた。
「おかえり。飯は?」
「蕎麦を食ってきた。もうそろそろ鴨が終わるってよ」
「終わる前におれも行くかな。ちょうどハーブティーを淹れたところだ、ゾロ屋も飲むか?」
「ビールなら飲む」
「昨日は日本酒を空けただろ、死にてぇのか。休肝日を作れ」
言葉ほど険のない声音で言うと、ローはリビングへと戻っていった。手洗いとうがいを手早く済ませて部屋に入ると、ローはリボンのついた小箱を眺めているところだった。向かいの席に腰を下ろす。
「なんだそれ」
「貰いもののチョコレート。前の職場ではコンプラ違反対策で渡すのも受け取るのも禁止されていたんだが、今のとこは気にしねぇらしくてな」
「今のご時世に本命だの義理だのがあるのかは知らねぇが、結構な数なんじゃねぇのかそれ」
「都落ちした外科医に価値なんかねぇよ」
ローはつまらなそうに言って持ち上げていた箱をテーブルの上に戻した。とはいえ、夕方にたしぎが渡してきた菓子に比べたら、数倍は値が張りそうな箱が並んでいる。食わねぇのか、と聞くと、ローは「歯を磨いたあとだから食わない。食うなら明日だ」と応えた。その生きることに実直な返しにゾロは思わず噴いた。なんだよ、とローが言う。
「いや。なんでもねぇ」
「にやつきやがって。だいたいバレンタインデーにチョコレートを贈るなんて風習はねぇんだ。製菓業界が作った商業的イベントに踊らされる馬鹿が多すぎ」
「今年はドイツの板チョコくれねぇの?」
言いかけた言葉を飲んで、ローはゾロを凝視した。目を丸くして固まっているのがおかしい。ほらな、と思った。気づいていないと思っていたのだろうし、気づいていなくてもいいと思っていたに違いない。ハーブティーの香りが漂う。賢い頭が高速回転しているのがわかる。ローにしては長い間を開けてから、形勢を立て直してきた。
「………甘いものは好きじゃねぇだろ」
「だから今年はくれねぇのか。まぁよく聞く話だよな、付き合う前の方がイベントごとは盛り上がるってやつだ。お前を恨みやしねぇよ」
「…なんだと? そもそもバレンタインデーにチョコレートを贈る風習なんてねぇよ」
「それはさっきも聞いた。製菓業界の陰謀なんだろ」
「じゃあゾロ屋が知らないことを教えてやる。ヨーロッパじゃ想い人には薔薇の花を贈るんだ」
言い終わるやいなや、ローは勢いよく立ち上がって寝室へと歩いて行った。十秒もしないうちに大股で戻ってくる。今度はゾロが目を丸くして固まる番だった。
「……嘘だろ、それ、買ったのか」
「買わなきゃあるわけねぇだろ。さっきの言葉をもう一回おれに言ってみろゾロ屋。イベントごとは何の前の方が盛り上がるって?」
鼻先に突きつけられた一本の薔薇の花を凝視する。ラッピングされた薔薇は花に疎いゾロでもわかるくらい、花弁の一枚までが繊細だった。
顎を引いて、ゆっくりと視線をあげる。焦点が切り替わる。憮然とした表情のローがゾロを見下ろしていた。しばらく見つめ合ってから、ゾロは両手を上げた。
「謝る。おれが悪かった」
「謝りついでに答えろ。ゾロ屋からおれには何もねぇのか」
「来年は、おれから花を贈ってやるよ」
食えないチョコ菓子なんかより百倍いい、と思って言ったのだったが、ローは「来年…」と口の中だけで呟くと、ようやく表情を緩めた。それは悪くねぇな、とローが言う。ゾロも、そうだろうと笑った。
それが去年のやりとりだ。
今年はどうなったかというと、信じられないことに花屋の前で鉢合わせた。二人で声をあげて笑ってから、花屋には入らず焼肉を食べに行った。チョコレートも薔薇の花もなかったが、美味い肉を食うバレンタインがあったって構わないだろう。
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