男子高校生の日常 その3


空に浮かぶ真っ白な雲と同じくらい白い紙を眺めて、譲介はため息を吐いた。
進路希望調査、と書かれたただの四角い紙片。
このまま持ち帰って大人に相談する必要があるのは分かっているけれど、酷く気が重い。
夏と言うにはまだ早いような六月の終わり。
気楽に書けばいい、と担任は言うけれど。
「まあ無責任すぎるよな……。」
悩んでも仕方のないことを考えていることは分かっている。
親の居ない人間にとっては就職する以外の選択肢はほとんどない。中学では、工業高校や商業高校に行くという選択肢もあったけれど、あの頃の譲介は、就職に汲々として過ごす三年間のことを考えるだけで気が重く、なるべくそうした考えから遠ざかっていたかった。
万一、給付型の奨学金を得ることが出来れば大学へ行くことも可能だが、その枠は狭い。
三年になって早々に就職活動に動く必要がある、という未来が譲介に残された既定のルートだ。
弁当箱の中を空ける気も起きずにぼんやりと物思いにふけっていると、よいしょ、という声が聞こえて来た。
今日は流石に顔を合わせたくない、と思ったが、人生、そう上手くはいかないものだ。
まあ、そもそも運が良ければ、あんな場所で暮らしてはいない。
顔が陰になって、手に持っていた紙が上に引っ張られる。
「お、白い。良かったな譲介、オレとお揃いで。」徹郎がニヤッと笑う。
「お前は医大に行くんだろ……。」
「いや、別にいいだろ、どこだって。どうせウチは兄貴が継ぐんだから、誰もオレにはそれほど期待してねぇし。」
その方が気楽だ、と徹郎は言って、譲介の隣の段差に腰かけた。
ちらりと、包みのハンカチが解けていない弁当箱に視線を向けて、けれど何も言わないでいる。
「……天気いいな。」と妙なタイミングで言うので、「まあな。」と答えた。
とりあえずこれ飲め、と言って徹郎はいちご牛乳を譲介に差し出した。
「牛乳は。」
「売り切れ。」と徹郎が言った。
譲介にとっての誤算は、嫌がらせのつもりで買うように勧めたこのいちご牛乳に、徹郎本人が妙にハマってしまったことだ。
バンカラな男を気取るのは今時古りぃだろ、などと言い訳をして、結局はこうして自発的にいちご牛乳を買ってくるようになった。譲介が牛乳、徹郎がいちご牛乳ということで、大概食い合わせが悪そうなおかずパンと一緒に飲んでいるが、今日はその大事ないちご牛乳を譲ってくれる気になったらしい。
慰めが必要なように見えるか、と噛みつくのは簡単だが、本人に悪気がないことは分かっている。
「……コーヒー牛乳とかあるだろ。」と言いながらいちご牛乳にストローを刺す。
「次はそうする。」と徹郎は言い、腹減った、と言ってあぐらをかいた上にパンの入った袋を置いた。
「譲介、今日カレーパンないけど、なんか食うか?」
「何がある。」
「ツナコーンマヨと焼きそばパンとコロッケパン。」と言って徹郎は袋を広げる。
「授業をサボってもいないくせによくこれだけ買えるな。」
「隣で居眠りしてるヤツに言われたくねーけど。」
「お前こそ黒板見てろ。」と言いながら、譲介はさっと袋の中からコロッケパンを取り上げる。
徹郎は、こいつまたオレが狙っていたやつを、という顔をしている。
分かりやすいやつ。
「なあ、寝るなら夜寝たら。」
「まあね。」と答えながら、譲介は徹郎の甘ちゃん加減を鼻で笑いそうになる。
夜に起きてないとどうなるか分からない、徹郎はきっとそういう思いをしたことがないのだろう。
譲介は、ナイフを持つ相手からそれを取り上げたことも、何度か小さな動物を殺したこともある。
破壊衝動というわけではない。身を守るためだ。協調性も寛容さも持ち合わせないような相手でも、少ない私物の中に動物の死骸を入れれば、大抵は大人しくなった。
今のあさひ学園は、居心地が悪くはない。それは、誰もが譲介のことを、つまりどんな子どもかを知っているからだ。指を血で染めたこともない目の前の子どもが、医者になれるのなら、自分の方が余程素養がある。
そんな、妙なことをふと考えた。
こちらの視線に気づいた徹郎が「譲介、お前さぁ、理系にするか、文系にするかってもう決めたか?」と言った。
「就職考えるなら理系だな、とは担任には言われた。」
譲介は、仕方がないのでコロッケパンを咀嚼する。
妙に甘い味の付いたコロッケだった。
「就職……。あの担任、マジで適当だな。」
「僕もそう思う。でもまあ、正論だ。」大学通ったところで借金が残ってもな、と言って、譲介はひらひらと紙を振る。残ったいちご牛乳と交互に食べると、あっという間に終わってしまう。
「工学部とかにしとけば? 譲介が行くならオレも理系にするし。」
徹郎は、譲介の持っている調査票を取り上げ、コンクリートの上に置いて、紙飛行機を作り始めた。
真ん中で折って、それから。
どうせ折り紙にするなら自分の調査票でやれよ、と言いたいが、あとで徹郎の分をコピーさせればいいか、と思い直すと気が楽になった。
こんなちっぽけな紙が自分の未来を握っているなんておかしいだろ、と笑い飛ばせたらいいのに。
そうでなければ、誰かが自分の代わりに進む道を示してくれたら。
こんな風では、兄と比較される人生を斜めに見て拗ねている節のある徹郎のことを笑えない。
担任より、自分の方が余程無責任なことを考えているようで、腹の底で自己嫌悪してしまう。
そんな譲介の気持ちを知っているわけでもないだろうに、徹郎は言うのだ。
「工学部?」
土方の格好をした徹郎の姿を思い浮かべて、笑ってしまった。あるいは、ヘルメットと背広で視察をするおっさんの姿。案外似合いそうだと思う。
「例えだよ、たとえ。じゃあ医学部は? オレと一緒に山に通うとか。」あそこなら、一応は冬だけでも引っ越しは出来る、と徹郎は笑う。
「山……?」
「お前も名前くらいは知ってるだろ、例の附属病院だよ。薬学部があるから、生徒は半分女だ。」
「ああ。」徹郎の言うところの山というのがどこの大学を指しているのかは分かったが、そもそも今の譲介の偏差値では望むべくもない。徹郎の家なら、本人がそうしたいと望むなら、県内でも有名な予備校に通って、今後内申点を上げればなんとか引っかかるかもしれないが。
「文系行って法学部入ってゆくゆくは弁護士ってのもいいかと思ったけど、今のところ、オレも職業選択の自由はないようだし。二年もお前と同じ教室なら、退屈はしなさそう。」
徹郎の折った調査票は低空飛行で、あっという間に地面についてしまった。
まるでこの先の譲介の運命を暗示している……わけでもない。
徹郎は、スタスタと歩いて、譲介の調査票を拾い、また広げ始めた。
折り目の付いた紙は、二度と元には戻らない。けれど。
「次はもう少し上手く作ってやるよ。」
いつもならもうちょい飛んでいくんだぜ、と徹郎は譲介に折り目の付いた調査票を差し出して、楽しそうに笑っている。
「……国立かァ。死ぬほどバイトして、きっと押しつぶされる。」
徹郎の描いた黄金比の三角形を眺めながら、譲介はため息を吐いた。
「お前に給付の奨学金が出るように、オレが勉強教えてやろうか?」
オレも奨学金取って、お前に横流ししてやるし、と言う自慢げな徹郎の声。
腹立たしいような気持になって耳を引っ張ると、おい、やめろ、痛いっつの、と言いながら徹郎は笑っている。


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